マルファに言い出せなかった事とヤスミン
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結婚式まで秒読みです。
体がびくっと痙攣して、そのせいで眠りから目が覚める、そんなことはヤスミンにとって毎日の出来事である。
五時になると必ず目が覚めてしまうのは、体が軍隊時代のタイムテーブルを覚えていることと、覚えてはいない夢の中で彼が戦友や敵の死者達に出会っているからだと彼は考える。
そしてそのことが、最近のヤスミンの気持に暗い影を落してるのだ。
薄暗い部屋で起き上がったばかりの彼は、大きく溜息を吐いた後に再びベッドにごろんと寝ころび直した。
「わふ!」
ヤスミンはベッドから顔を出したばかりの犬の頭を撫でた。
ジョゼは撫でるだけでいつもみたいに起き上がらないヤスミンを不思議に思ったのか、ぴょんとベッドの上に飛び乗ると、ヤスミンの顔を舐め始めた。
「やめて、止めてくれ。起きるから止めて。でもね、どうしよう?マルファと結婚したら、俺は目が覚めてもベッドから出たくなくなるよ。」
ヤスミンはジョゼの鼻先を押さえながら、犬に時間を読めるわけ無いのに、ベッドヘッドに置いてある時計を持ち上げようとした。
「うそ!」
ヤスミンはがばっと身を起こした。
そして、自分が見ている時計をまじまじを見つめた。
「うそ。八時まえ?うそ。ジョゼは大丈夫か?膀胱が破裂しそうか?」
「きゅうん。」
ジョゼは大きく尻尾を振った。
ヤスミンは急いで犬の散歩をしてやらなければと両足をベッドから降ろしたが、そんな彼の顔に温かな濡れタオルが押し付けられた。
「おはようございます。旦那様。」
「エヴァン。朝食は直ぐに用意するから、その前にジョゼのトイレだけ済まさせてくれないか?」
「ジョゼのトイレも散歩も済んでおります。」
ヤスミンはホカホカのタオルから顔を上げ、エヴァンのすまし顔を見つめて返したが、彼に対する感謝の気持よりも感謝してはいけない警戒心の方が湧いた。
何せ、腹黒いはずの執事が天使か聖人のような笑顔で立っているのだ。
その笑顔は主人に向ける執事の決まりきった表情とは言え、エヴァンが今までヤスミンに対して「ご主人様」という態度をとった事は無いのである。
「どうかなさいましたか?旦那様?」
「あ、いいや。コイツの散歩は大変だっただろう?」
「あ、いいえ。私は参っておりませんので。」
「え?兄が?」
「いいえ。朝一で畑に出られるバタイユさんにジョゼを呼んでいただきました。犬笛はどんな犬も呼び寄せられますから。」
ヤスミンはファルゴ村の畑に毎日出掛けるバタイユが、ヤスミンの家の前を必ず通るという事を思い出していた。
彼は最近首都から引っ越して来た元判事で、引退したからとファルゴ村で借りた小さな畑を耕して喜んでいるのである。
「そうか。それでも君は朝の五時には起きてくれたんだ。ありがとう。」
「いいえ。ジョゼが一人で出入りできるように台所の勝手口を改造しました。ですのでこれからはジョゼの朝の散歩は、バタイユさんが半分受け持って下さりますからご心配なく。」
「あとの半分は?」
「バタイユさんの畑からジョゼが帰ってくる部分ですね。」
「素晴らしいよ。君は本当に素晴らしい執事だ。」
「お褒めにあずかり恐縮でございます。別々の部屋ではお嬢様の眠りを妨げる事はございませんが、同じ部屋になれば、ええ、お嬢様がゆっくり眠れなくなると考えましたら、わたくしは一計を案じるしかございませんでした。」
ヤスミンは執事の行動に全くブレがない事にむっとすると、適当に顔を拭ってからタオルを憎い執事に投げ返した。
執事は上手にタオルを受け取り、ワハハと気さくな笑い声をあげた。
それから彼は直ぐに笑いを収めると、いかがですか?と尋ねてきた。
その声は冗談めいたものではなく、真面目なものだった。
「いかが、とは?」
「お身体の調子でございます。重いですか?怠さはありますか?」
ヤスミンはそう言われてから自分の体を何となく見下ろし、それから右肩を軽く動かしてみた。
「いや。大丈夫だ。」
「結構でございます。では、お食事の用意をお願いします。」
「やっぱり飯の用意に起こしたのかよ。で?体の調子を尋ねたのは、俺が寝とぼけていたのが病気だと思ったからか?」
「いいえ。薬屋で注文した睡眠剤の副作用があるのか確かめたかっただけです。何もないとは、本当に素晴らしい薬屋でございますね。」
「てめえ。俺に薬を盛ったか!君のお嬢様の為ならなりふり構わないねえ。」
「いえいえ、そんなんじゃございませんよ。人の気配で目覚めるのはあなただけではございません。私も年ですから、決まった時間まで通しで眠れないと、ええ、体調を崩してしまいますからねえ。」
執事の姿をした自分勝手な大将はジョゼを連れてヤスミンの部屋を出て行き、ヤスミンは扉が閉まったところで自分の枕を扉に向かって投げつけた。
枕は扉にぶつかった後、ぽそっと落ちた。
床に落ちた枕は真ん中に折れ線が出来て、まるで人かぬいぐるみが寄りかかっているような形である。
その形状は、命尽きようとしている兵士達が木々に背中を当てて座るその姿だ。
ヤスミンは両手を顔に当てて、あの執事は知っているんだと溜息を吐いた。
動き回っている時は過去の事を忘れていられる。
だが、横になれば、あるいは、動きを止めたその時に、過去に追いつかれて苛まれてしまうから、ヤスミンが無駄に動き回っているというという事に。
「俺はマルファを幸せにできるのかな?」
彼は自分が呟いていた言葉にハッと気がついたように肩をビクンと震わせると、そろそろと両手から顔をあげた。
それから簡単に片手で顔を拭うと、急いで服を着替えた。
そして、彼の状態を観察して答えを出したらしい執事が待つ台所に急いだ。
台所を開ければ、台所のテーブルの椅子には彼の幸せが座っていた。
彼女は幸せいっぱいの顔を彼に見せると、おはよう、と笑った。
「お、おはよう。どうしたの?学校は?」
「これからよ。子供達が私に花嫁のリースを作ってくれるんですって。女の子達が希望がある?って聞いてくれたから、オレンジの花も一緒に編み込んでもらおうと思ったの。オレンジの木は花を頂いていいかしら?」
「も、もちろんだよ。一緒に摘みに行こうか?」
「まあ嬉しい!」
マルファは両手を打ち合わせると、嬉しそうに笑いながら立ち上がり、ヤスミンの提案をすぐに実行しようという風に歩いてきた。
貴婦人どころか子供がするようなスキップに近い歩き方だ。
彼は彼の幸せそのものだとマルファを眺めていたが、なぜか彼女の元へと一歩が踏み出せなかった。
直前に自分が彼女の幸せを台無しにするような不安を感じていたからであろうか、とヤスミンは自問していた。
部下の一人で自殺した男がいたではないか。
その男の自殺の原因は、妻に逃げられた事だ。
悪夢の続きと寝ぼけ、最愛のはずの妻を殴ってしまったからでは無かったか?
自分は彼女から離れるべきでは無いのか?
「ヤスミン!本当に嬉しいわ。いつもこの時間はお出掛けされているから、お出かけ前のあなたにお会いできて嬉しいわ!」
「あ、ああ。俺も朝から君に会えて嬉しいよ。」
マルファは満面の笑みで彼に抱きつこうと両手を差し出した。
ヤスミンは彼女のその笑顔を壊したくない一心で、彼女へと一歩踏み出した。
彼女はヤスミンに抱きついて、良かった、と再び言った。
「君が来ると知っていれば、俺はいつだって君を待っているよ。」
「まあ!嬉しいわ!では次はエヴァンではなくあなたに直接お願いしますわね。」
ヤスミンは悪辣な生き物を思いっきり抱きしめた。
腕の中で、むぎゅっと声をあげたが、彼はちょっと許せない気持ちだ。
いや、彼女が悪いわけでは無いだろう。
大事なお嬢様を喜ばすために、明日八時には家にいるように、とヤスミンに告げるよりは、眠剤を盛る方を選んだ男が一番悪いのだ。
ヤスミンは執事に不貞腐れた顔を向けた。
だが、エヴァンはいつものような揶揄うような笑みではなく、真っ直ぐにヤスミンを見つめて、声を出さずに口だけ動かした。
「人を頼りましょう。」
ヤスミンはマルファを抱き締め直した。
この執事の機嫌を損ねたら大変だから、と。




