ヘロヘロ文字には意味がある
「俺はリストを書いて欲しいと言ったんだよ?」
翌日、朝ご飯の後にヤスミンの書斎に連れこまれ、彼の書斎机の椅子に座らせられた。
そこでペンを与えられ、昨日に彼が言った事の実行として、私はルクブルール伯爵家の召使い名簿の作成を促されたのである。
もちろん私は恩義のある全員の名前を書こうと、手渡された紙に喜んで記入していったのだが、たった数人の名前を書いただけのそこで、ヤスミンによってストップの声が掛かったのだ。
朝の五時に起きてジョゼの散歩をして、ついでに私の朝ご飯まで作った事で苛立っているのかしら?
それとも、前髪を上げているから不安定になっているのかしら?
「ですからリストを書いているでは無いですか?」
彼は笑顔のまま私が座る椅子のひじ掛けに軽く腰を下ろすと、私に身を寄せてしらじらしい笑顔を崩さずに言った。
「まともな字を書こう、な?」
私は自分の書いたものを見下ろして、あら、まあ!と声を上げていた。
いつもの癖で、飾り文字で人の名前を綴っていたと気が付いたのだ。
「まあ!ごめんあそばせ。私のこの文字でお手紙を書くと皆さま喜ばれますから、つい、書き物の際にはこんな文字を書いてしまいますの。」
「そっか。でもお手紙じゃないから、書き直そうな!」
私は自分が書いたものを見下ろし、少々勿体無いな、と思った。
いつもよりも筆が滑らかなせいなのか、スペルの先にお花をつけたり、撥ねた先にハートを付けたりと、あら、蝶々も飛ばしていたわ、という風に、素晴らしい字体となっていたのである。
「私、あて名書きのお仕事でもしようかしら?」
「確かに。ロワ子爵夫人の招待状はセンセーショナルだったものな!」
私はにへらと口元に笑みを浮かべた。
ほんの昨年の話だが、自分の仕えているお嬢様が自分の結婚式の招待状の宛名書きの仕事を押し付けてきたと、アンナの知り合いの小間使いがアンナに泣きついてきたのである。
小間使いは教養があるので文字は書けるが、貴婦人が女学校で教え込まれる飾り文字は書く事が出来ない。
そこで私の出番となる。
私が哀れな小間使いに押し付けられた招待状のあて名書き、二百通分を書き上げて差し上げたのである。
すると、その招待状の宛名は、芸術的すぎると社交界で話題となった。
新聞の社交欄でも華々しく紹介され、一般の若い子までもその文字を使って手紙を書くようになってしまったという結末なのである。
だから、私にとっては、自分が流行を作ったような戦勝記憶でもあるのだ。
「これはクソ忌々しい流行だよな。」
「まあ!どうしてそう思いになるの?」
ヤスミンは真面目な顔を私に近づけた。
本気で威圧感を与える表情に、一体何事かと私は彼を見返した。
「どういつもこいつも、女ってだけでその文字を書くようになった。いいか?前線で明日死ぬかもしれない男がな、家族や恋人からそんな文字の手紙を受け取った時のことを考えた事があるか?あなたが恋しいです、はーと。あなたを思うと心が張り裂けそう。お花お花お花お花。前線にいるのが馬鹿らしくなるぞ?」
私はヤスミンが語った情景を想像し、確かにそうかもと素直に認めた。
こんな流行を作ってごめんなさいなんて、初めて罪悪感が湧いた。
「ほらわかったら書き直そうか。君も人まねばかりじゃなく、自分で何かを生みだそうな。出来ないのならば普通の文字を書く、それが一番だ。」
「まあ!ロア子爵夫人の招待状の宛名こそ私の作品だと言うのに!」
ヤスミンの酷い物言いに私は過去を思わず暴露してしまったが、ヤスミンはしてやったという顔を私に向けていた。
「やっぱり。代筆家がいると思っていたよ。結婚式後のロア子爵夫人はその後も似たような文字で招待状を出していたが、あの結婚式でみんなが度肝を抜かれた様なヘロヘロ文字は書けなかったからな。」
「ヘロヘロ文字なんて酷い!」
「ひどくないぞ。これだってよく見ろ。どうしてこんなところでヘロヘロ蝶々が飛んでいるんだ?」
「フェリシーは長いまつ毛が蝶々みたいで可愛い小間使いだからよ。」
「うわお!会ってみたいなそのフェリシーちゃんには。で、そうか。じゃあさ、一つだけ教えてくれるかな?ラブレー伯爵夫人の宛名には沢山の果物が描かれていたけど、その理由をさ?」
「まあ!あなたこそラブレー伯爵夫人をご存じだったの?」
「彼女が自分の宛名にはリンゴとバナナだけだって騒いでいたのは有名な話だ。それでどうしてだ?」
「お猿さんを飼っているって有名じゃないですか。」
私は当たり前だという風に答えると、ヤスミンは弾けた様に大声で笑い出し、私の書いている最中のリストにトンと右手の人差し指を突いた。
「やっぱこの文字で行こう。全員分の名前を書いて、それで、どうしてこの人にはこのマークなのか教えて貰おうか?」
「いいの?」
「ああ。なぞなぞみたいで楽しいからな。正式な書類として出す時には、俺がちゃんとまともな字で書き直しておくから、大丈夫だ!」
「もう!私だってまともな字は書けます!」
「いいから。で、俺の名前も書いてくれないかな?俺は自分の名前に君がどんな飾りをつけてくれるのか知りたくて堪らない。」
「え?」
私の目の前には綺麗な薄緑色のしっかりした紙が差し出された。
紙の隅には見た事のある簡易紋章が浮き出ていた。
よくある剣などの四角い絵を囲むのが、丸みのある三角の葉だ。
何処の家の紋だったかしら?と考えながら、私はヤスミン・デジールと筆を動かした。
「止めて!頭をぐりぐりするのは止めて!」
「間抜けな犬の顔だけかよ。」
「だってお花もハートも蝶々も嫌なんでしょう?」
「ハハ、確かにそう言ったな。それでも俺に花を捧げたくなるには、俺はマルファをどうしてやったらいいんだろうな?」
にやっと笑みを見せた口元は魅力的だが、やっぱり煤けている。
この小汚い髭をどうにかしてくれたら、と答えそうになったけど、彼を綺麗にしてどうしたいのだろうと自分に語りかけた。
そうじゃない。
磨いてあげたいと昨日は思っていたのに、彼をこのままにしておきたいと思うのは何故なのだろう?




