三月五日②
私がヤスミンに差し出した縦四十センチに横が三十センチという四角いものは、六号サイズの油絵を生成りの布で包んだものである。
ヤスミンはただただ驚いた顔をしながら絵を受け取り、彼にしては珍しく震えるという手つきで絵を覆っている布を剥がしていった。
彼の手つきは、まるで聖遺物をその手にしたかのようにして、恭しく丁寧なものである。
まるで私が彼にそのように衣服を脱がされていることを想像して、私は体のどこか、いえ、体の中心がきゅんと震えてしまった。
私は自分のほてりを収めるために大きく息を吸った。
ヤスミンも大きく息を吸った。
「これは……!」
彼の声は驚きでかすれていて、でも、耳元で聞いたら体も心も痺れてしまいそうな素敵な声でもあった。
彼はうっとりと私の絵を眺めており、全貌を見られている私は自分がしてしまった事が急に気恥ずかしく感じてきた。
「ごめんなさい。鏡に映しながら描いてみたのだけれど、ええと、自分をかなり美化してしまったかもしれないわ。」
鏡に映しながらの所で、なぜかヤスミンは咽た様な咳き込みをして見せた。
が、私が謝ると彼は私を見返し、今の彼こそカンヴァスに残したいと思うぐらいの微笑みを返してくれたのである。
「あふぅ!」
「美化どころか君そのものだよ。もっと輝きを足したっていいぐらいだ。だって目の前の君はとってもきれいだ。君ほど可愛らしく綺麗な人を俺は知らない。」
「え、えへ。」
裸になってバラを一輪持った姿で鏡に映し、その上半身の部分を絵にしてみたのである。
そのバラは、勿論、ヤスミンが私に差し出してくれたピンクのバラだ。
また私の肖像画が全裸であるのは、私の部屋を飾るヤスミンの絵の対になるには私の絵も裸であるべきだと、ソフィが煽ってくれたことによる。
いえいえ、煽られなくたっても私は裸の絵にしたと思う。
あなたに全部上げると言ったあの約束があるのだから、いいわよね?って。
しかし、ヤスミンは私の絵に感動していたくせに、大きく息を吐くや絵を元通りに布で包み直したのである。
それどころか、その絵を私に付き返して来たのだ。
「いらないの?」
彼はクスリと笑うと、ゆっくりと首を横に振った。
そんなはずないだろう?
そんな声が聞こえる表情と動作だった。
「ヤスミン。だったら。」
「これは俺の一生涯の宝となるだろう。俺がここを出たら、これは絶対に貰う。だが今は駄目だ。俺の大事なお前の素晴らしい体を俺以外の目に晒すことになってしまう。それだけは血反吐を吐く事になっても阻止しなければならない。」
「ま、まあああ!」
そうだ、ヤスミンがこの絵を房に飾ったりなんかしたら、彼の牢屋の前を通り過ぎる人全員に私の体が見られてしまうんだわ!
私はきゃあと叫んで絵で自分の胸元を隠した。
「デジール大佐。心配なさらなくとも私達が責任を持って預かりますよ?」
若い看守の言葉を聞くや、ヤスミンは、ほらな、という顔つきで私を見返した。
私は絵を引き取って帰るしかない。
でも、これだけは!
絵に添えていた手紙だけでも彼に手渡さねば!と布の中を探った。
無い?
ヤスミンが白い封筒を持っていた。
彼は封筒の宛名を見て、クスクスっと笑った。
私の彼への想いで、彼の名前はたくさんたくさん装飾されているのだ。
「間抜け犬はまだいるが、バラとハートと、君のキスだらけで名前が埋もれている。俺は君にはこんなにも素晴らしいものになったんだな。」
彼は私に目線を流し、今日も美味しそうできれいだよ、そう囁いた。
美味しそう?
「今日の君はクリームと砂糖のアイシングがたっぷりかかった紅茶味のふわふわケーキだ。菫の砂糖漬けがそこかしこに散らされている可愛いケーキだ。天辺の飾りに変なチョコレートが乗っていなければ、最高のバースデーケーキだよ。」
「まあああ!」
私の姿を褒めてくれた人は、とっても優しそうな眼差しで封筒から私が書いたカードを取り出した。
カードにはオレンジの木が揺れるあの日の風景を水彩で描いた。
そこに彼へのルールを彼が好きだと言ったあの青のインクで、時間が経っても青いままの私が開発したあのインクで書き記したのである。
「これは君自身と言えるものだな。一生大事にするよ。もっと我儘を書けばいいのに!まったくもって悪辣すぎる程に可愛い奴め。」
「え、えへへ?」
私が書いたヤスミンが守るルール
その一 マルファを一番大事にして一番に甘やかすこと
その二 特別な日にはお髭を剃って下さい
その三 出来るだけ長生きして私を愛してください
「一番大事にして一番に可愛がって、ずっとずっと愛し続ける。そして二番については、切れ味のいい剃刀が高くても買うのを許してくれたら守れると思う。」
「了解ですわ。」
「ありがとう。今日は君のお陰で最高の誕生日だよ。」
ヤスミンは白い封筒にカードを大事そうに片付けた。
それからその封筒を私に向けて軽く振って見せたあと、愛おしそうにちゅっとキスをしてみせた。
彼は素晴らしい笑顔を向けてくれている。
彼の笑顔はとっても幸せそうで、私が彼をこんな笑顔に出来たのだと胸が熱くなり、私の視界は再びぼやけた。
ああ、今日しか会えないヤスミンがぼやけてしまう!
私の目元に彼の優しい指が触れた。
何度こうやって涙を拭って貰ったのだろう。
「愛しているわ。ずっとずっと愛している。出会えたのがあなただから、私はあなたの後を追いかけ続けたのだわ!」
「俺は君に追いかけられるのが嬉しいからって、無駄にたくさん歩いたね。愛しているよ。恐らく、君が俺のドアを叩いて開けさせたその日に、俺は君に恋をしてしまったのだろう。」
「デジール。時間だ。」
片腕に絵を抱き、片手は檻を掴んで泣く私の目の前で、来た時と同じようにヤスミンは看守に連れられて檻の向こうの部屋から出て行く事になった。
ヤスミンは一分だけどころか、椅子に座ることなしに、面会時間ずっと私の傍にいる事をあの看守達は許してくれたのだと、私は急に気が付いた。
「感謝しますわ。ありがとうございます!皆様ありがとうございます。」
ヤスミンは足を止め、私に振り返った。
物凄く面白くなさそうな顔で。
「この看守ごっこジジイこそ金色うんこ大将閣下様だよ。こいつのせいで俺が営倉入りなんだ。感謝しないで呪っとけ。」
「たった二週間軍に復帰しただけで、情報貰ったから辞めるわ、が通ると思うな馬鹿が。たった三ヶ月で免除してやるんだ。私に感謝するものだ。」
「人の逢瀬に堂々と聞き耳を立てる下馬野郎に感謝などするか!」
がちゃり。
騒々しいままヤスミンとソルドレ大将閣下と看守がドアの向こうに消え、ドアは音を立てて締まった。
面会は終わり。
私は手の甲で涙を拭くと、さあて、と言って絵を抱え直した。
あの様子ならば、ここでヤスミンが酷い目に遭う事は無いだろう。
そして大将閣下のお力添えもあるようだし、あと二ヶ月で彼が私の元に帰るのは間違いないみたい。
「ウフフ。待っている間に今日のヤスミンの絵も描こう。」
私は彼に吸われた右手首のキスマークを見てにんまりと笑い、浅ましいと思いながらも彼がつけたキスマークに口づけた。
ユーリアとアドリナのアドバイス通りだわ。
「あいつは絶対に同じことをするわよぉ。そして、ヒヨコに付けられた印に毎日ちゅちゅうして、絶対に戻って来た時にもキスマークが残っているはずよ。」
「ハハ!ありがちだねえ!」
「ええ、本当だった。ありがとう。姉さん達。でも、私の手首こそ、ず~とず~とキスマークが残りそうよ?」




