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おかえりなさい

 真っ白な雪に埋もれてしまったヤスミンは、対照的すぎる程に黒かった。

 無精ひげどころか髭だらけで、今の私よりも長くなった髪はぼさぼさで艶も無く、ところどころが縮れて臭い。

 体臭じゃない、髪を燃やした時のあの嫌なにおいがする。


 そして、彼に体臭が無いわけではない。


 こんなに臭いヤスミンなんてヤスミンでありえないってくらいに、臭い!

 初めて会った日に臭いと彼を罵った日よりも、ずっとずっと臭い。


 でも私は彼から離れられなかった。

 だって、懐かしい焦げ茶色の瞳が私をうっとりと見つめているのだ。


「あなたがいるわ!」


「君に跨がれているね。いいよ、いつだって君の馬になろう。」


「あなたって!」


 どんなに臭くて汚くなっていようと、私は彼にキスがしたかった。

 本物だと確かめたいから、まず、右の頬にキスをした。

 右の頬の次は左でしょうよ!

 そしてそして唇に!


 けれど、私の唇は硬くて筋張った手の甲にキスしただけだった。

 ヤスミンが自分の手で自分の口を塞いだのだ!


「口が物凄く汚いからダメ。」


「愛してるのに!」


「知っている。俺はジョゼの真似して男を一人噛み殺したばかりなんだよ。」


「え?」


 私は恐る恐るという風にジョゼが伏せていた所を見返したが、そこにはジョゼはおらず、ジョゼが消えた事で遺体の状況が良く見えた。

 横たわる髭だらけの薄茶色の髪をした男は、喉元が骨が見えるぐらいに抉られており、恨みがましい眼つきで目を見開いて完全にこと切れていた。


「見るんじゃない。君が知らなくてもいい世界だ。」


 私の目元にはヤスミンの手によって目隠しがされ、その手は私を目隠ししながらも優しく私の顔を自分へと向け直した。


 こつん。


 私の目隠しは消えていた。

 目隠しいていた手はいつのまにやらわたしの後頭部に当てられ、彼はそっと頭をあげて私の額に自分の額を当てたのである。


「ただいま。」


「おかえり、おかえりなさい!」


 私はヤスミンに再び飛び掛かっていた。

 両手をついて彼を見下ろすのではなく、体ごとがむしゃらに彼に抱きつく事に決めたのだ。


「おうっ!」


 でも、勢いあまってというか、ヤスミンを潰してしまったみたい。


「ごめんなさい。」


「大人しくしとけ、馬鹿!」


 彼は私の頭を優しく撫で、自分の胸に私の頭をそっと押し付けた。

 温かな生きている彼!


「ああ、あなただわ!」


「今日は臭いからやだって言わないんだ?」


「だって、あなたなのよ?」


「……ばか。」


 彼の心臓の音は早鐘どころかゆっくりで、彼の身体は硬いけれども筋肉ではなく骨を感じた。

 でも、生きている!

 これ以上幸せなことは無いわ!


 雪の中にヤスミンと転がっているのに、私は寒さどころか温かさばかりが心から体から吹き出していくようだ。

 これ以上ない幸せに、私は両目を瞑った。


「起きろ!」


 私ははっと目を開けた。

 うつ伏せでヤスミンに重なっていたはずの私は仰向けで、私の目は昨夜に泊ったはずの宿屋の天井を見つめている。


 夢?

 夢だった?


「いやよ!私はヤスミンを見つけたのよ!」


 私は叫びながら身を起こしたが、すぐに私のすぐ後ろで重量がベッドに掛かった事で、私は後ろに倒れかけた。

 だが、倒れかけただけで倒れなかった。

 私の真後ろに硬く感じる背もたれが出来ていたからである。


「ヤスミン?」


 恐る恐る振り向けば、洗いたてのシャツを羽織って、下には適当なパジャマパンツらしきものを履いている姿のヤスミンが、ポリッジが盛られた小さな木の器とスプーンを持って座っていた。


 彼は完全に洗われて清潔な状態となっているが、髭を剃るのに使った剃刀がなまくらだった為にできた小さな傷が痛々しく感じた。

 顔じゅうが殴られて出来た内出血で、青だったり黄色だったり赤だったりと、見るも無残な色合いなんだもの。


「ああ、ヤスミン!っむぐ。」


 私の口にポリッジのスプーンが詰め込まれた。

 ポリッジなんかいつだって大嫌いなのをご存じなのに!

 だが、私の口に私の嫌いなものを詰め込んで来た彼は、以前だったら見せた悪戯っぽい顔付を私に向けるどころか、今にも怒鳴り出しそうな表情で私を睨んでいるだけである。


「ゆっくり噛め。ゆっくり飲み込め。お前はそんなに痩せて何をやっているんだ?お前は俺の大事なヒヨコだって分っているのか?」


 私はゆっくり噛んでから、ゆっくりと飲み込んだ。

 飲み込めそうも無いけれど、それでも無理に飲み込んだ。

 だって、泣き出しそうな嗚咽が上がって来たのだもの。


「だって、あなたがいないのよ?っむぐ。」


 二匙目を私の口に突っ込んだ人は、私の口から抜いたスプーンを器に戻すとその器をベッドサイドテーブルにそっと置いた。

 その代わりのようにして、そこに置いてあった折りたたんである紙を取り上げると私に差し出して来たのである。


「悪かったな。俺が惚れたお前の作品の何かを持っていたくてさ、お前の手鏡を盗んじまった。あれは俺達の洗濯室の記憶だ。そうだろう?」


 私はうんうんと頭を上下するしか出来なかった。

 涙が次から次へと零れてくる。

 だって彼もあの記憶を大事にしてくれていたのよ。


「そうしたらこいつが入っていてびっくりだよ。俺のルールが無きゃ、お前が上手く生きていけねえのにな。」


 ごくりとポリッジを飲み込んだ。

 今度は簡単に飲み込めた。


「ヤスミン。」


「いいから受け取れ。ボロボロな紙に書き足すのはちょいと苦労だったぞ。」


 私はヤスミンの手へと手を伸ばした。

 しかし、紙を持つ手をヤスミンは少しだけ高く掲げた。

 私は体をひねり右手を伸ばしているという恰好でヤスミンの前に倒れ込み、ヤスミンはそんな私の体を支えながら、私の唇に彼の唇を重ねた。


 私は全身をびくっと痙攣させた。

 ずとずっと欲しかった彼そのもの。

 彼はキスを深めていきながらも、私の伸ばした手に彼が持っていた紙を握らせるなんていう器用な事もして見せた。


 ああ、彼のキスで足の指だって丸まってしまうのに!

 って、ヤスミンのルールを丸めちゃったりしては大変じゃない!


「待って!大事なルールがぐちゃぐちゃになっちゃう!」


 私の口の中で彼がぷすっと笑った。

 私は彼から唇を剥がし、ベッドに座り直した。


「ハ、ハハ。相変わらずで嬉しいよ。」


 簡単に私を解放したヤスミンは、私の行動に気分を悪くするどころかテーブルに置いた器を持ち上げ、今度は自分で食べ始めた。


 私は、私は?

 震えていたわ。

 だって、書き足した、なんて彼は言うのよ?


 私は破れかけている紙をゆっくりゆっくりと、それはもう人類にとっての大事な古文書の如く、最上の注意をもって開いて行ったわよ。


 これはこの世にたった一つの私の宝物なんですもの。

 開いて、文字が目に入って、私は吐息が漏れていた。

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