シリウスの話1
「え、まだ何か?」
パチパチと瞬きをした綾は、シリウスを見つめる。
「むしろこれからが本番なのだが?」
苦笑したシリウスは、優雅にカップを傾ける。お茶を飲む仕草も様になっていていた。
「えぇ!」
シリウスの言葉に、綾は驚きを隠せない。完全に終わったと思って気を抜いていたので、気持ちを切り替えるのが難しかった。
「何の為に其方を、ここに連れて来たと思う?話したい事があるからだ」
「話したい事ですか?」
先程シリウスは、エナリアル王国にいられなくなった場合は、クラデゥス帝国に来たらいいと言ってくれたが、それ以外の話は綾には想像がつかなかった。
「そうだ。先程、異世界人が神気を纏っているという話をしただろう?」
「はい」
「神気は、ほんの少しだけ運を良くするんだ」
「ほんの少し…ですか?」
綾は首を傾げる。
「例えるなら、即死の怪我が重体で意識不明ぐらいにはなるな…」
それはどうなんだろう?良いと言って良いのか…?と綾が何とも言えない顔をしていたからだろう、シリウスはまた苦笑する。
「即死でなければ、息があるうちに回復魔法を使うことが出来る。それで命が助かる可能性もある」
「だから、ほんの少し…なのですね」
「その、ほんの少しの幸運を取るに足らないと切り捨てるのか、掴み取って大きな幸運を呼び寄せるのかは、それを持つもの次第だ」
金色の目が、ひたと綾を見据える。何となく試されている様な気がして、綾はテーブルの下で手を握り合わせた。
「…何だか、ピンと来ません」
「そうか?君がここに飛ばされて来たのも、そのほんの少しの幸運が作用したのだと、私は思うがな」
「…それは、そうかも知れません」
確かに、綾は運が良かったとは思う。王都に行かずに済んだし、住む場所や職まで手に入れた。必要なものは用意してもらえたし、何も勝手が分からない綾に親身になって教えてくれる人たちがいる。ほんの少しではない、大きな幸運だ。
「ーーそれから、あくまで私の推測だが…神気を纏った者は、神の意思の影響を受けるのではないかと思う」
「神の意思?…例えばどんなものでしょうか?」
「説明するのは難しいが…この世界の問題解決の為に、騒動に巻き込まれやすくなる」
「え!怖いです!」
何事もなく穏やかに生活したい綾は、全力で遠慮したい。
「全ての異世界人がそうなるわけでは無い。ただそうとしか説明が出来ない事態が、過去何度もあったのだ。それも心に留めて置いてくれ」
綾は何も言えず、ただシリウスを見つめるしか出来なかった。徐々に不安が膨らんでくる。得体が知れないから、怖いのだろうか…?見えもしないのに…。
「…あの!召喚魔法も神の意思が働いているのですか?神様がいるとして、何故そんな事をさせるのでしょうか?」
「神は、神気を纏わぬ人間に干渉できぬ。まぁ、例外はいるが…。召喚は人間が行った事で間違いないので、神の意思は働いておらん。だがアヤ、例えばアヤの目の前に便利な道具があったとして、それを使わぬ事があるか?」
「…神気を纏った人間が現れたから、使っているに過ぎないと?」
「あくまで私の憶測だ。だが、そう考えれば説明がつくのだ」
「……そうですか」
水の中に落としたインクのように、綾の中にゆっくり染み込んでいくのは、シリウスのその言葉だ。不安がゆるゆると広がっていく様に、綾を苛む。
「もし機会があれば、アヤに言った事を他の異世界人に会った時に伝えてほしい。クラデゥスは異世界人達を受け入れる用意があると。逃げ出す先があれば、彼らの安心感にも繋がるのだから。それに逃げ場所があるというだけで、人というのは踏ん張れるものなのだよ」
そう言ってシリウスは、綾に渡したのと同じ四つのボタンを綾に手渡した。
「出会う機会があるとは限りませんよ?」
ボタンを受け取りながら、綾は困惑顔を隠せない。軽いボタンのはずなのに、妙に重みを感じてしまう。
「それはその時だ。神が出会う必要はないと思っていれば出会わぬだろう」
「出会った時は、その必要があると?」
「そうだ」
「出会っても気付かない可能性だってあるのでは?」
「ああ、まだ其方は神気が見えぬのだったか…」
シリウスは綾に向かって手を翳す。もちろんテーブルの対角線上なので、シリウスの手は綾の目元まで届かない。が、ふわりとした白い魔力が、綾の目を覆ったかと思ったら、見える世界が変わっていた。
「え、嘘!?」
人から放出されている魔力がはっきりと見える。それは人によって色が違っていて、美しかった。そして空気中に漂っている透明のガラス粒のようなキラキラしたものは、もしかして魔素と呼ばれる物なのだろうか?それは目の前の紅茶の中にも、漂っている。
そして綾は自分の手を見つめると、自身の薄黄色の魔力の他にキラキラと金色の粉のような物が身体に纏わりついているのが見てとれた。それを視認した瞬間、肌が泡立つ。
「ーー何これ!気持ち悪い!」
そう、まるで、呪いの様ではないか!思いっきり顔を顰め、思わず綾は固く目を閉じた。心臓がバクバクと音を立てる。綾の感じた感情は、恐怖だった。
怖い!怖い!怖い!誰かの意思を纏うという、恐怖。私の身体は私の物であるはずだ。それが犯されてしまうような心地がして、気持ち悪い。自分が自分である事をを確かめるように、綾は両手で腕をさする。それは自分を守るように、抱きしめるように周囲には見えていた。
「嫌!私は、私の意思でしか動きたくない!」
「アヤ!」
クロードの声が聞こえたが、綾は返事をする余裕もない。大きな手のひらが、背を撫でてくれるが、綾はそれを拒むように身を捩る。今は誰にも触れられたくなかった。もう二度と誰かの思惑に振り回されたくないのだから!それがたとえ神だろうとも!
「ーーこれは取れないんですか?」
綾は顔を上げて、向かいに座る金色の瞳を睨む。視界は綾自身の涙で歪んでいたが、シリウスの瞳の色は、綾の身体に付着している金色の光と、とてもよく似ていた。
「取れぬ」
「っ!!」
ただ事実を告げられただけなのに、ぶわりと綾の瞳に涙が込み上げる。それは頬を伝い流れ落ち、服に染み込んでいった。綾は何度も手を擦り合わせてみるが、金色の光の粉は全く取れない。涙は次から次へと流れ落ち、小さなシミを服に作っっていく。
「ーーそれほど嫌か?」
「嫌です!!」
シリウスが悪いわけでもないのに、声に怒りが籠ってしまう。他人に当たってしまう、そんな自分が嫌なのに、自分の中の言葉にならないグチャグチャな思いが、綾の体の中で暴れ回っている。
「ーーそうか」
もう一度シリウスが手を振ると、視界は元に戻った。だが綾は先ほど見た光景が、脳裏に焼き付き頭から離れなかった。感情が昂ぶり過ぎたからだろうか…頭の中に霞がかかっている様な意識で、ぼんやりと自分の手を見てしまう。どれほどの時間そうしていただろうか…ほんのわずかな時間のような気もするし、とても長かった気もする。ただ涙は自分の意思では止められず、頬をはらはらと流れていく。
きっちりと折り畳まれたハンカチが、綾の目の前におずおずと差し出された。その先を辿ると、心配そうに揺れるアクアマリンの瞳にかち合う。何故、クロードが泣きそうな顔をしているのか…。
ほんの少しだけ、冷静さを取り戻した綾は、クロードに礼を言ってハンカチを受け取った。




