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嫉妬

 綾は献血が終わった後、恒例となっているクロードとの食事の場所に向かった。西の棟の綾が滞在していた客間からほど近い部屋、いつもの場所だ。彫金棟からはかなり距離があるが、中庭を突っ切ると多少の時間の短縮になる。仕事ではせいぜい掃除の時ぐらいしか動かないので、適度な運動になると、勢いを日々増している花壇の花を眺めながら思う綾だった。


 季節は初夏を迎え、昼間は日差しが強くなっているが、夕方の今の時間は涼しい。山に程近く、小高い丘の上に立っている領城は夏でもそこまで温度が上がらないのだ。

 山の端は黒く空が東雲色に染まり、緩やかな風が花の匂いを運んでくる。季節の移り変わりに、綾はここを初めて歩いた時を思い出した。

 チューリップはそろそろ咲き終わり、色とりどりの薔薇の華やかな花弁が花壇を彩る。足元には鈴蘭が揺れ、音が鳴ったらさぞ綺麗な音が出るだろうなんて考えている綾は、次のイヤリングのデザインは鈴蘭にしようなどと、思考が仕事から抜けきれていない。


 警備の騎士に挨拶して南棟の扉を開けて中に入った。いつもの場所を目指し、迷いなく進む綾の足取りは軽い。

 部屋をノックして声を掛けると、クロードの声で入るように促された。いつものやりとり、いつもと同じはずだった。

 なのに、扉を開けて部屋に入った途端、まるで射るような視線を綾は感じた。



 綾の顔、正確には首あたりに注がれる、不躾とも言える視線が、いつものクロードらしくない事に、綾は戸惑う。

「クロード様、どうかされましたか?」

「………汚れている」

「え?」

 そう言って席を立ったクロードは、驚くような速さで歩き綾の前に立つ。しかも、その距離が近い。一気に距離を詰められて、綾は一歩後退りそうになるのを、意志の力で堪えた。

「…あの?」

 綾の首筋にクロードの大きな右手が触れて、瞬間ヒヤリとした水の感触が首筋を這う。思わず首をすくめた綾が逃げないようにか、クロードの左手は綾の肩を掴んでいた。綾の目の前に見えるのは、クロードの胸だけだ。至近距離でボタンを見つめていた綾だったが、水の感触がなくなって恐る恐る上を向くと、どこか安堵したようなアクアマリンの瞳と視線が合う。

 綾の心臓はドキドキと鼓動が早くなって、顔に熱が集まっている気がした。クロードは、性格はアレだが顔は良いのだ。さすがの綾も、至近距離の美形には弱い。

「…取れた」

 そう言うなり、クロードは綾への拘束を解き、普段の距離に戻った。どうやら洗浄魔法を使って、汚れを取っただけのようだ。

「…そうですか。お手数をお掛けしました」

 赤い顔で戸惑いつつも、綾は頭を下げる。エメリックに血を吸われた場所だとは思ったものの、血など付いていなかったのは確かだ。それとも、綾の見落としだろうか?一応、来る前に身だしなみをチェックしていた筈なのに…意外とクロード様は潔癖症なのかしら?などと綾は考えた。


 席に着いたクロードは、いつもの様子と変わりない。ほんの少しだけ、表情が固い気がするが、綾の気のせいかもとも思う。綾だけが気にしているのも馬鹿らしいと思い、綾も遅れて席に着いた。

「クロード様のシャツって、貝ボタンなのですね」

 早くなった心拍数を落ち着けるために、綾は何気ない話題を振る。

「我が領の特産の一つだからな。海産物の管理は母と弟が担ってくれているんだ」

 憎らしいほど通常運転のクロードは、その返答も澱みない。

「君の制服にも付いているだろう?」

「え、制服なんてあるんですか?」

 綾は初耳だった。

「…父から受け取っていないのか?」

 ほんの僅かに目を見開いたクロードは、怪訝そうに綾に問う。

「何も。そもそも誰も着ていませんけど?」

「正式な場での着用は義務だが、普段彫金師は皆自由だな。他の部署では制服姿の者が殆どだが、君は見た事がないか…。首のタイで職員を認証している建物もあるから、タイだけは持ち歩いて欲しいのだが…まさか、一月も経つのに…まだ渡されていないとは…」

 みるみるしわが寄っていくクロードの眉間を眺めながら、綾はクリストフのうっかりだろうと検討をつけた。まぁ、よくある事である。クリストフは、結構抜けている部分があるのを、一緒に過ごすうちに把握した綾だ。

「…すぐに確認させよう。さすがにまだ届いていないなんて事は、ないと思うのだが…」

 小さく息を吐いて、クロードは食事を綾に促したのだった。



 大満足の美味しい食事が終わり、いつものようにソファに腰掛けた綾は、向かいのクロードに話しかけた。綾の気のせいかもしれないが、やはりクロードの表情がいつもより固い気がする。ほんの些細な違いのなので、綾にも絶対的な自信がないのだ。

「エメリックったら、睡眠時間を削るなとか、食べ物の好き嫌いするなとか注文が多いんですよ?」

 まるで母親のように世話を焼くエメリックを、綾は心の中でオカンと呼んでいた。

「何故だ?」

「血が不味くなるからだって言うんです。私、乳牛になった気分ですよ」

「…乳…牛?」

「エメリックって、酪農家になれると思いません?世話好きですし」

「酪農家…斬新な意見だな。で、アヤ、乳牛の気分とは?」

「えっと、おいしく飲んでくれたら良いかなって」

 これでも、健康管理には気を使ったのだ。血が不味くなるなんて言われれば、そりゃそうなるだろう。

「……それは相手が私でも、そう思うのか?」

 想定外の質問が飛んできて、綾は意味を把握し損ねた。

「え、乳牛っていうのは例えですよ?実際、妊娠出産していないので出ませんし…あ、エリスさんだったら出るかも?」

「は?何の話だ?」

 クロードが目を丸くして、驚く。

「え、なんの話でしたっけ!?」

 綾もわけが解らない。いつもと違って、クロードが質問攻めをして来ないのだから、仕方ないのだ。

「血の話じゃなかったか!?」

「そうでした!」

 クロードが軌道修正してくれて、綾は助かった。

「でもクロード様、クロード様は吸血鬼じゃないので、前提がおかしいと思います!」

「…うん、まぁ、そうだな」

 クロードはそっと視線を逸らす。

「君がエメリックに、食事を提供している感覚なのは理解した」

 ふっと笑ったクロードの眼差しが優しげで、綾は一瞬目を奪われてしまった。いつの間にか、クロードの顔の強張りが取れている気がする。


「今日、何か嫌な事でもあったんですか?」

「ちょっとだけ…」

 いつも歯切れの良いクロードが、今日に限って言い淀む。

「お仕事、大変なんですね」

「…まぁ、それなりに」

 綾の首筋に、べったりエメリックの魔力が付いていた事が、クロードの固い表情の原因だとは知らない綾は、お仕事大変なんだなぁと呑気に考えていた。

 

「食事と言えば、米が届いたのだが、どうする?」

 思い出したように、クロードが綾に問う。

「ください!!」

 瞳を輝かせて、綾が勢いよく返事をしたからだろう。あからさまに呆れた顔をした後、クロードはまた笑う。今度は全く翳りのない、晴れやかな笑みだった。

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