神官と神の子
艶やかな長い水色の髪を後ろで一つ括りにした男が、早足で神殿に向かっていた。優しげに見える少し垂れた目尻が、穏やかさを感じさせる。ただ今は、金色の瞳に若干の焦りが見えた。フィリスはしっかりしているし、城内に不埒な真似をする者はいないとは思うものの、万が一にも何か起こってしまうかもというウェインの不安な気持ちは消えない。
「挨拶だけのつもりが、随分時間を取られてしまったな…フィリスが待ち侘びているだろう」
ウェインはフィリスと兄妹だが、孤児だったウェインが神官見習いになった頃から身分差が出来、兄妹として接する事は禁じられた。孤児と神官ではハッキリとした格差がある。それは神官が持つ能力である強い光魔法、特に回復魔法の希少性からであった。光魔法の中でも回復魔法を得意とする者は、神官や巫女になれる。しかしその希少性から発生する身分は、ウェインを守ると同時に神殿に縛る鎖となる。神官であるウェインは特定の孤児を特別扱い出来なくなったのだ。フィリスはウェインにとって、たった一人の血の繋がった妹であるにも関わらず。
ウェインは忘れられない。一緒に育った仲間の間に、明確な格差が生まれた瞬間を。あの居心地の悪さは、孤児から神官見習いになった者にしか分からない。妹や友人にある日から敬語を使われ、距離を感じて泣きたくなるような気持ちが、他の誰かに分かるものか!!
それでもまだ、その時は幸せだったのだ。神官見習いの勉強や修行が忙しくて、友人の態度の変化が泣きたくなる程辛くても、フィリスが笑っていてくれたから…。
微弱だが回復魔法を使えたフィリスが、兄であるウェインの後を追って巫女見習いを目指していた頃は、目標に向けて努力する妹が誇らしかった。だからこそウェインも負けじと頑張れたのだ。きっと格差が無くなれば、前の様に気安く話す事ができる様になる未来を思い描いて、励みにした。
だが、どれほど努力しても、フィリスは微弱な回復魔法しか使えなかった。巫女になれない事を知った時、絶望からかフィリスの笑顔が消えた。フィリスの笑顔こそ、ウェインの希望の光だったのに!!
もし、ウェインが神官を目指さなければ…貧しくても他の職業を選んでいれば、妹は絶望することは無かっただろうに…。
神殿長に心の内を吐露した時、『お前は傲慢だ。たとえ誰かの影響だったとしても、それは間違いなくフィリスの選んだ道で、それが上手くいかない場合でもフィリスが乗り越えるべきものだ。お前は、自分の妹を信じる事も出来ないのか!』と厳しい言葉を投げつけられた。目を見開いたウェインに構わず、神殿長は言葉を続けた。
『我々は神官だが、回復魔法が出来るだけのちっぽけな存在だ。そうのような存在に、出来る事など限られている。一生懸命目の前の事をこなすのは、神官でも他の職業でも同じだが、我々は回復魔法という得意な事をしているだけだ。攻撃魔法や剣が得意な者は、騎士や冒険者になるだろうし、手先が器用な者は職人になるだろう。回復魔法の使い手は特別扱いされるが、神の様に万能ではない。万能ではないちっぽけな存在である事を忘れるな!誰かの人生を背負えるなどと思うな!それを傲慢というのだ!』
ウェインは俯いて涙を堪え、唇を噛み締めた。神殿長の言った事は正しい、だからこそ自分の無力さが悔しい。
神殿長はウェインの頭に手を乗せ、ワシワシと乱暴に撫でる。そんな事をされたのは初めてで、ウェインが戸惑っていると、神殿長が意外なほどに優しい眼差しをしていて、ウェインは涙を堪える事が出来なくなった。
泣いているウェインに神殿長は言ったのだ。『…万能ではないただの人でも、出来る事はきっとある。フィリスを良く見てやれ。神の子を手助けしてやるのは、神官の仕事だ』
特別扱いは出来なくとも、助ける事は出来るのだと言われて、ウェインはやるべき事が見えたのだ。
『友や妹の変化が寂しい気持ちは理解できる。だが、言葉と態度の距離が、心の距離だと思い込むな。そんな表面状のものに囚われて真実を見失うなど、愚かだぞ。フィリスや友人が成人して神の子の家を出れば、友人として…兄と妹として接することも出来る』
最後にそう教えてくれた神殿長は、穏やかな笑顔で退出するウェインを見送ってくれたのだった。
ウェインは気付いた。友の眼差しが、心配そうな色を帯びている事に。にこりと笑いかけたら、微笑み返してくれた事。心の距離が離れていないのならば、ウェインはまだ頑張れる。
ある日、神殿で飼っている馬の世話をしているフィリスが、微笑んでいる事に気付いた。久しぶりに見た笑顔に、ウェインの胸が高ぶる。その馬を撫でている手つきが優しく、愛情に溢れている様子を見て言ってしまった。『動物の世話をする仕事があるのを、知っているかい?』と。
一度大きく目を見開き、何度も瞬きを繰り返したフィリスの顔は、その後泣きそうな笑顔になった。
ウェインがそんな事を思い出しながら、神殿に足を踏み入れた瞬間、フィリスが興奮した様子で彼に走り寄った。大人しいフィリスが頬を赤らめ、瞳を輝かせる珍しい様子に、ウェインは驚きを隠せない。ここ最近、見た事のない満面の笑みだった。
「何か良いことでも、ありましたか?」
「はい!とっても良いことです!でも、機会が貰えただけなので、自分次第なのですが…」
ウェインが詳しく話を聞くと、順を追ってフィリスは話し出す。ウェインは内心驚いていた。これこそ、神の思し召しではないかと…。
「黒髪の女性ですか…存じ上げませんね」
「この国に来て、まだ数日しか経っていないようです」
神話の事も知らないなんて、どこの僻地出身なのだろうかと、ウェインは首を傾げる。南方の国でも、神の呼び方が違うことはあっても、神話の内容は似通っているのに…。
「金色の小鳥は…魔法ですが、その様な高度な魔法を使う者は限られます。名前は覚えていますか?」
「確かアヤは、『エメリック』と呼んでいました」
「『エメリック』…領主の手足として動いている、魔族の名前だったと記憶していますが…。高度な魔法を使っているので間違い無いでしょう」
「え、魔族なのですか!?」
「大丈夫、怖くはありませんよ?」
ウェインは苦笑する。魔族への偏見はいまだに根強い。間近に接してみれば、怖さなど感じないのだが、何せこの国には魔族が少ないのだから仕方ない。知らないものは、怖いという気持ち自体は自然なものだが、偏見も生んでしまうのだ。
「前侯爵夫人が魔族なのは知っていますね?城内には多くはありませんが、魔族が働いているらしいですよ。例え見かけたとしても、人間と見分けはつかないと思いますが…」
「そういえば領主様も半分は、魔族の血が流れているのでしたね」
ウェインが神殿でチラリと見かけた領主様は、銀色の髪をした逞しい身体つきの美丈夫だった。巫女達がうっとりと見つめてしまうのも、納得できる。
「ええ、長きにわたる戦争を終結させた、前領主様と前侯爵夫人の恋物語は有名ですからね」
「ああ!巫女様達から聞いたことがあります!」
そのような気配はないが、フィリスも領主様に恋とかしてしまうのだろうか?恋に恋する年頃だし…心配だ。噂では『エメリック』も美形の少年らしいからな…。フィリスの兄として確認は必要だと思う!
「馬場に行く時間には、送って行きましょう!」
「一人で行けますけど…?」
フィリスは首を傾げる。
「神官として、挨拶は必要でしょう?」
どんな人物なのか、兄として確認しておく必要があるったら、あるのだ!妹に近付く男は、特にね!
「そうですね。お願いします」
フィリスの言葉に満足そうに頷く、ウェインだった。




