綾の知らないこと
綾がフィリスと楽しく談笑している、丁度その頃。ちょっとした騒動が起こっていた。
クロードが、綾と朝食を一緒に摂ろうとメッセージの蝶をエリスに送ると、綾がいないから返事ができないと返信があったのだ。
「何?アヤがいない!?まさか、出て行ったり…?」
最悪の想像をして血の気がひく思いで、クロードは自室を出た。カツカツと靴音を響かせながら、長い足を動かし早足で歩く。実は心配していただけなのだが、すれ違った警備の騎士が、眉間に皺の寄った不機嫌そうなクロードを見て驚いていた事も、彼は気付かないままだった。
悪気はないとはいえ、自分のしでかしてしまった事がぐるぐるとクロードの頭を駆け巡る。
工具の事で怒らせてしまったのは、記憶に新しい。昨日の夜で、トドメの一撃を与えてしまって、嫌われてしまったのかも知れない…。綾が何も知らないのを良いことに、魔力回復薬を飲ませたのは、意地悪が過ぎた気がしないでもないし…。エリスやアルフィから、馬鹿だのアホだの、浮かれ過ぎだの散々言われたが、確かにその通りだと思ってしまう。
気遣いや遠慮など…何故、他の人に出来ることが、綾を前にすると出来なくなってしまうのか…。クロードには、それが不思議でならなかった。
慌てて綾の滞在している客室を訪れたクロードは、エリスの呆れた表情に一瞬怖気付いたものの、意を決して確認する事にした。
「アヤがいないとは、どういう状況なんだ?」
「どうもこうも、ただ状況をそのままお伝えしただけですが?」
「暫くは、目を離さないようにしていたのでは?」
「四六時中監視しているわけではありませんよ?この数日で、自殺したいくらい落ち込んでいたなら、そうしたでしょうが、彼女は前を向いていましたから。実際監視したなら、息が詰まって仕方なかったでしょうし」
「…そうか」
「…昨夜も寝る時間が少し遅くなってしまったから、長めに寝させてあげようかと思っていたのです。休日でもあることですし」
昨夜も遅くなってしまったのは、クロードのせいである。棘を秘めたエリスの言葉に、クロードはぐっと堪える。
「…何故エリスは、それ程落ち着いているんだ?」
「朝の散歩だと思いますから、問題ありませんよ。警備の騎士が、散歩に出る綾を確認していますし」
「出て行ったのではないのか?」
「…だから、心配ないと申し上げております。騎士にも笑顔で挨拶していたようですしね」
「…だが」
「出て行かれるような事を、した記憶でもおありで?」
「…………」
クロードは心当たりが多過ぎて、何も言えなかった。二日続けての周囲からの説教は、精神的にくるものがある。…自業自得ではあるが。
「今日の朝食は遅くなりそうですので、お一人でお願い致しますね」
「…………アヤは、怒ってなかったか?」
恐る恐る、クロードはエリスに訊ねる。
「さぁ?私には何とも言えませんね」
エリスの返答は、相変わらずそっけない。相手に反省を促す場合は、二人だけでそばに誰もいないにも関わらず、必要以上に立場の違いを明確にし、敬語を使ってくるので正直怖い。エリスを娶ったアルフィは、ある意味勇者に違いない。
「……エリス、私はどうしたらいい?」
「ご自分で、お考えくださいませ」
恥を偲んで、クロードは問いかけてみたものの、エリスの返答はそっけないものだ。自覚はしているが、クロードは女性の心の機微に疎い。頼りになるのは、異性の親友であるから、クロードも簡単には諦めない。
「…思いつかないから、訊いている」
こうなれば、我慢くらべだ。どちらかが折れるまで、問答は続くだろう。だが、クロードは引き下がるつもりはなかった。じっとエリスを見つめ続けると、エリスの眉尻が徐々に下がっていくのが見えた。
「………はぁ、いい?クロード、相手の望む事を考えるのも必要な事なのよ?」
長い沈黙の後、大きな溜息を吐いてエリスは、やっと折れてくれた。困った子を見る様な眼差しを受けながら、クロードは内心安堵の息をつく。
「…魚が好きで、仕事が好きくらいしか思いつかない」
正直に言ってみたものの、知らない事が多過ぎて内心愕然とした。クロードは綾の望む事など、大して思い浮かばない。綾との会話は楽しいが、クロードの質問した事に綾が答える感じだったので、綾の家族構成すらクロードは知らない。
「…まぁ、そこも良いけど、履き違えてはいけない事があるでしょう?貴方は誰よりも真っ先に綾の望みを聞いたはずよ?綾が望むのは、中央へ行く事なく、安心して暮らせる居場所を得ることでしょう?領主としてのアヤへのサポートは、貴方にしか出来ない仕事なのよ?そこのところを良く考えて、さっさと指示を出しなさい!」
「……ああ、そうだった」
クロードは急に視界が開けたような心地で、エリスを見た。エリスはそんなクロードを見て、苦笑する。
「狼狽えるクロードを見て楽しめるのは、仲が良い私達ぐらいよ?領主が狼狽えている姿を晒すのは、どうなのか…考えるまでもなく理解できるわよね?」
「…以後、気をつける」
隙を見せれば、侮られる事もある。そんな当たり前のことに気付かずにいたなんて…。やはり自分は、綾の事になると冷静になれない部分が表に出てしまう気がするとクロードは思った。
「…クロードの心配は杞憂だわ。アヤは、そんな些細な事を気にするタイプじゃないわよ?貴方に恩を感じているからこそ、貴方の粘着質な質問攻めにも答えてくれたんだから」
粘着質とか微妙に皮肉を効かせてくるエリスは、悪意はないだろうが…なんて言うか私の扱い結構酷くないだろうか…とクロードは思う。前半がクロードへの気遣いだっただけに、素直には喜べず口元は引き攣った。
「だからって、自重しないとすぐに嫌われちゃうかもだけど」
釘を刺すのも忘れない。エリスはやはり、クロードにとって闇の女神なのだろう。
落ち着いて客室を後にしたクロードが、自室に引き返している時、ふと思った。
向こうの世界で、綾に恋人がいたかどうかも、クロードは知らない。家族や大切にしている人などを訊ねたこともない。
領主として彼女の信頼を得たならば、話してくれるだろうか?クロードは立ち止まり、窓の向こうの、朝靄の中に沈む庭を見下ろした。黒髪の女性を探している自分に気づいて、焦り過ぎだと自嘲する。
もう一度歩き出したクロードは、領主の顔に戻っていた。




