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夢と現実

 夢を見た。


 昔飼っていた『銀』という名のシベリアンハスキー。アクアマリンの様な涼しげな瞳が、綾をじっと見詰めていた。何年も前に死んでしまった愛犬は、まさに家族そのものだった。その美しい瞳の色も、お日様の様な匂いも、毛並みの触り心地もハッキリと覚えている。

 ああ、夢なのだと気付いて懐かしくて嬉しくて。温もりまで感じる夢なんて最高だなと、綾は幸せな心地で目が覚めた。



 天井は、見えなかった。薄暗い視界の中、布が掛かっているのだろうか、まるで天蓋の様だとぼんやりと寝ぼけた頭で考える。綾は、はっとして目を見開き、今度は完全に覚醒して半身を起こし辺りを見回す。自身がカーテンの様な布で四方を囲まれた広いベッドの上に、横たわっているのだ。清潔そうな真っ白なシーツはさらりとした心地良い肌触りで、枕や布団に至っては絹の様な滑らかさを感じさせる。それだけではなく、よく見てみると緻密な模様が刺繍されていて、ホテルの部屋にしては豪華な気がして首を傾げた。

 どこだろう?私は自宅にいたはずだと、綾は記憶を手繰り寄せたものの、全く何の心当たりもなく徐々に不安が積もってくる。服装は朝着替えた時から変わらない、ニットのセーターにロングスカートというシンプルなものだ。仕事用のエプロンもしていないし、シュシュで髪を纏めていたはずなのだが、何処にも見当たらなかった。

 ただ男性用の香水のような匂いが、自分の服から微かに香るのを不思議に思う。


 サイドテーブルの上に、ガラスのランプがあったのだが、電気コードがなくてスイッチもないので、綾にはどうやって点けたら良いのかわからない。トレイの上に乗せられた水差しと伏せられたグラスがある。その側に呼び鈴が置かれているのに気付き、綾は鳴らしてみようかとチラリと考えたものの、もう少し状況の整理をしてみたいと思い留まった。


 仕事をしていた。いつもの様に、自宅で。それで…と考え、そしてはっとする。不可思議現象に遭遇したのではなかったか!?

 そう考えた上で、この状況だ。真っ先に『神隠し』という言葉が綾の頭に思い浮かんだ。まさか…ね?

 あの光の文字のようなものは何だったのか?床に沈んで飲み込まれる様な感覚を思い出し、背中がブルリと震えた。綾はベッドの上で蹲るように自身の腕をさすり、速くなった呼吸を整えながら、落ち着け、落ち着けと繰り返す。

 まずは現状を確認しなくては…。夢で見た『銀』に元気を貰えるように祈りつつ、綾は顔を上げてベッドの淵に移動した。


 ベッドから降りようとしたものの、靴がない。靴もスリッパもないのに、床を歩き回るのも気が引ける。綾は傍らの呼び鈴にもう一度目を向けた。

 …うん、大丈夫。とって食われることはないはずと、綾は自分に言い聞かせる。


 恐る恐る呼び鈴を手に取り、鳴らしてみた。

 ーーチリンと金属の澄んだ音が辺りに響く。


 ドキドキしながら待っていると、耳を澄ましていないと聞こえない様な絨毯の上を歩く微かな足音がする。

「失礼します」

 凛とした女性の声が聞こえた。ふわりと丁寧に開けられたカーテンの向こうには、明るいトパーズの双眸、落ち着いたオレンジ色の髪を後ろで一つに結い上げた女性が立っている。紺色のシンプルなドレスに白いエプロンをしているのだが、ヒラヒラとした装飾はなく、メイドと言うよりは、知性的な女官のような雰囲気を纏っている気がした。紺色のドレスの生地が、上等の物だったからかも知れない。

 その背後の窓の外の景色は、彼女の髪を思わせる夕暮れの色に染まっていた。

「お気付きになられましたか?体調は如何でしょう?」

 こちらを気遣う様な声音がして、綺麗な人だなと見惚れていた自分にはっとする。日本人ではない容貌なのに言葉が通じる事に違和感を覚えつつ、一旦その事は頭から追い出す。

「…体調は…問題ないと思います」

 何とか返事をしたものの、綾は声が上擦ってしまう。

「数時間程眠っておられたので、心配致しました」

 ふわりと花が咲いた様に綻ぶ顔が、眩しいくらいだ。

「お気遣いありがとうございます。…あの、ここは何処なのでしょう?」

 おずおずと問いかけると、予想していた答えなのか、彼女は一つ頷く。

「ここは、バドレーの領城ですわ。領主がお話を伺いたいと申しておりましたので、お時間を頂けますか?」

 領城ってお城?領主様!?何を話せば良いの!?と内心軽いパニックになっている綾に気付かず、彼女はニコリと微笑んで返事を待っている。思考が空転してどうにもならないまま沈黙する自分を、不思議そうに首を傾げて見詰める視線に気付き、綾は声を絞り出す。

「…それはもちろん構いませんが、領主様が私に伺いたい事とは何でしょう?」

「私からは何とも…」

 頬に手を当てて、困った様に微笑む彼女に内心で謝る。そりゃそうだよね、彼女は仕事で私の世話をしているに過ぎないのだからと綾は思った。それよりもここは何処なのか?領主がいる国って何処だろう?どうして言葉が通じるのか…。

 解らないながらも幾らかの可能性を考えて、思考に沈んだ綾は、心配そうにこちらを見詰める瞳にしばらく気が付かずにいた。

「…先程も心配して様子を見に来られていましたが、一向にお目覚めにならないので気を揉んでらっしゃるかも知れません。お顔を拝見するだけで、安心されると思いますわ」

「…そうですか」

 領主様、怖い人じゃなければいいな…綾は心の中で独り言ちた。



 オレンジの髪の女性はエリスと名乗った。侍女長の補佐をしている副侍女長らしい。彼女は部屋を歩ける様に靴も用意してくれたし、夕食を用意をしている間にお茶を淹れてくれる。芳しい紅茶の香りに癒されながら、綾は窓に目を向けた。整えられた庭と美しいヨーロッパの建物の様な街並みが夕日に映える。だけどそれは街ではなく、領城内で生活する人間が使う、施設や寮だったりするとの事。規模の大きさに目眩がしそうだ。

 くるくる動き回る彼女の邪魔をしない程度に綾が質問していると、時々不思議そうにしながらも丁寧に答えてくれる。

 残念ながら、今は西暦何年かとの質問には答えてもらえなかった。国の名前も聞いたことがなく、そこである程度予想がついてしまう。

 一日は24時間、四季もあり、太陽も月も星も存在する。景色だけを見れば一見地球の何処かの国かと思えるが、決定的な違いがあった。魔法が存在する世界、つまり異世界だったのだ。


 私は異世界に転移してしまったらしい。


 触れただけで光が灯るランプ、取っ手に手を添えると沸騰するヤカン。水差しは何処かと繋がっているかの様に、際限なく水が出てくるのだ。天井にはふわりと浮いた光源がゆらゆら揺れている。綾が一々目を見張っていたら、エリスは何やら察した様に仕組みなどを説明してくれた。もちろん魔法のなんたるかも知らない綾には、さっぱり理解できなかったのだけれど。


 ざっとこの国の事を聞いてみた結果はこうだ。

 それによるとここ、エナリアル王国は、その名の通り王政の国家だ。王族を中心に特権階級の貴族による治世を行なっている。

 首都パンテラは、国のほぼ中央に位置しており、地方の領地からは中央と呼ばれたりもする。このバドレー領はエナリアル王国の北方に位置し、隣国クラデゥス帝国との国境に隣接する国防の要らしい。

 ウラール山があることから、北方をウラール地方と呼ぶ。バドレー領はウラール地方の多くの領地を管轄する領地だとの事。騎士は例外だが、爵位というのは領地の責任者に付く称号で、爵位を持つ者はもれなく何処かの領主という事だ。簡単にいうと、爵位持ちの貴族は市町村長と考えれば分かり易い。それを束ねる知事兼市長がバドレー領領主となる。爵位は侯爵。

 偉いお方なのは理解出来た。貴族が存在しない日本とは違う事を、頭に叩き込む必要がありそうだ。


 ふっと綾が目線を落とすと、窓から差し込んだ西日が自分と先程まで寝ていたベッドのシーツの白を茜色に染め上げていた。こんな時は、不思議と切ない気分になってしまう。遠くに来てしまったという確信があるからだ。


 ーー私は、これからどうすれば良いのだろうか?

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