異世界からの訪問者
紺碧の空にはうっすらと刷毛で描いたような雲がかかっている。隣国クラデゥス帝国との境界ウラール山を背負うように、小高い山の頂上にバトレーの領城が聳え立っていた。
かつて要塞だった頃の名残を残す堀に囲まれた城壁は、玄武岩を積み上げたもの。それらはぐるりと領城を取り囲み、堅牢な印象を人に与える。それもそのはず、難攻不落を誇るその姿は、見るものを萎縮させるような威圧感があった。上から見下ろすと八角形をしている城壁の中は、有事に民を囲い込み護れるように広場があり、かつて何度も使用され戦禍を潜り抜けた事をバトレーの領民達は知っている。
花々が植えられた庭園は美しく整備され、現在では城内で働く者の憩いの場となっていた。鑑賞用の花もあるが、見るものが見れば、薬効のあるハーブや果樹が多く植えられているのに気付くだろう。それは代々、華美よりも実を重んじる領主たちの手によって増やされ、守られてきたものだ。
その中心部の城は城壁よりも若干明るい灰色だ。一見すると無骨な印象だが、窓は大きく光を取り込むように優美な曲線を描き、レリーフの精緻な模様が控え目に窓枠や柱を飾っている。濃灰色の屋根は華やかではないが、剛健実直を誇りとする領主らしいと民たちは誇りに思っているのだ。
領城の三階にある領主の執務室、派手さは無いが曲線と木目が美しい瀟洒な執務机に書類が積まれている。
いつもの様に書類に目を通していたクロードは、はっと顔を上げた。アルフィが怪訝そうにこちらを見つめているのを目の端に留めながら、今は外に意識を集中させる。
ーーこれは只事ではない。かなり強い魔力反応だ。魔物か、大規模魔法か…。東の森から反応を感じるのを確認し、席を立つとアルフィに視線を投げた。
「どうかされましたか?」
執務中のアルフィも何事かと席を立つ。
「東の森に強い魔力反応だ。馬の用意をしてくれ」
アルフィは足早に扉に近づき、外に控えている騎士に馬の準備をする様に告げている。その間にクロードは、マントを無造作に引っ掴んで肩にかけ、長剣を腰に差した。部屋の中を抜け、扉を開けて廊下を早足で歩く。
「お一人で大丈夫ですか?」
外に続く廊下の途中で追い付いてきたアルフィは、眉根を寄せて問う。
「ーー多分他の者も気付くかも知れないが、時間が惜しいので先に行く、あとは任せた」
なぜか胸騒ぎがする。一刻を争う事態かも知れないと気が急く。
「いってらっしゃいませ、応援が必要ならご連絡を」
「ああ、行ってくる」
東門を抜けるとそこは石畳の街道がある。と言っても主要な街道ではなく貴族達の別邸や森に行くための道で、馬車がすれ違えるくらいの広さしかない。進むにつれ、いつの間にか剥き出しの地面の道になり、木々の密度が増す。景色だけを見れば、麗かな春の森は萌葱色が生命力を感じさせ、咲きはじめの花々が所々に彩を添えてとても美しい。だが今はその美しい景色を堪能する余裕はなく、馬を駆って目的地に急いだ。
すると自分の後ろから追いかけてくる魔力反応がある事に気付く。馬の速さから、心当たりの人物だと解ったが、現地で合流すれば問題ない。
それよりも、近づく度に異常な反応だと言わざるを得ない。同じ場所で留まっているので、魔物では無さそうだが…。
ほとんど横並びに近付いてきた馬に跨っているのは、エメリックだ。金髪に赤い瞳が印象的な16歳程にしか見えない少年は、珍しく真剣な表情をしている。
「変、だよな?」
「ああ、変だ」
この感覚を共有できる人物は少ない。森に入り、道はとうに無くなって樹々が邪魔なので、自然と馬の速度は落ちる。
「ーー光ってる?」
生い茂る木々の葉で影を落とした地面には木漏れ日が差しているが、全体的に薄暗い。それなのに森の奥が光を放っている。二人で顔を見合わせ一つ頷くと、そっと馬を降りエメリックとは別の方向から対象に回り込む。
それは初めて見る異常な光景だった。2メートル程ある大きな魔法陣の中に人が浮いている。女性と思しき柔らかな輪郭と、珍しい色の長い髪に目を奪われた。魔法陣は光を徐々に弱めながら、地面にその人物を降ろすとすぅっと消えてしまった。下草の上、女性の漆黒の艶やかな髪が無造作に散らばり、力の抜け切った身体は無防備に地面に横たえられている。
「ーー驚いたな」
「ーーああ」
「どうする?」
「どうするも何も、連れて帰るしかないだろう」
このままでは魔物や野生動物に襲われるだろうし、襲われなかったとしても春の風はまだ少し冷たさを孕んでいて風邪を引いてしまう。それよりもあの異常な光景を見てしまったのだ、放置なんてとても出来ない。
「もしかして、例のアレかな?」
「恐らく、そうだろう」
ーー困ったことになった。クロードは思わず眉間に皺を寄せて、しかめ面になってしまう。こんな辺境に飛ばされてくるなんて予想外だ。予想外でも何でも、仕事はしなければならない。ただでさえ忙しいのに中央の連中に余計な仕事を増やされた事を、忌々しく思いつつ慎重に対象に近付く。
クロードは彼女の側に片膝を着くと、怪我などが無いか観察する。肌には傷一つないし、唇は紅く頬も滑らかで血色良く、健康状態も悪く無さそうだ。胸の部分が規則正しくわずかに動いている。靴は履いておらず、靴下が見えていた。
ちゃんと生きているのを確認し、安堵の溜息が漏れた。もし、死んでいたりすれば、責任問題になりかねないからだ。
肩にかけていたマントを外し小柄な彼女にそっとかけると、背中と膝裏に手を差し込み抱き上げる。ふわりと花のような甘い香りが、鼻腔をくすぐる。
「私は彼女を抱えてゆっくり帰るから、エリスに客間の用意をする様に言ってくれ。医者の手配も。ああ、大事にしたくないので、最低限の人数だけに知らせを」
エメリックは何事か呟くと、先触れとして魔力で手紙を空中に書いていく。ふっと息を吹きかけると、それは蝶に姿を変え空に消えた。
「可愛いからって、手を出すなよ?」
エメリックは馬に飛び乗り、揶揄う様な視線をクロードに寄越す。
「そんな外道な真似するか!」
気安い間柄とはいえ、揶揄われると腹立たしい。エメリックはニヤリと笑うと、風のように駆けてあっという間に見えなくなった。
気を抜けば意識のない彼女が馬からずり落ちてしまうので、片手で抱え込むようにしながらもう片方の手で手綱を握る。身体の温もりが、マント越しにも伝わってくるのを感じながら、ゆっくり馬を歩かせて木々の間を縫うように進んだ。
少し胸が騒つくのは、彼女から強い魔力を感じるからだ。恐らく公爵令嬢並の魔力を持ち合わせている。それはつまり、クロードの魔力と釣り合うと言う事で…。エメリックが手を出すなと揶揄ったのも、そこに由来している。
全く何を考えているんだ!思わずクロードは溜息を吐いた。彼女はすぐに王都に行ってしまうと理解しているのに…。チラリと腕の中の彼女を見遣る。睫毛は長く顔立ちも整っているから、恐らく四家ある公爵家の男の誰かが、彼女を確保するに違いない。もしくは王家の二人の王子にあてがわれる可能性も捨てきれない。王族は正妃の他に側妃を娶るのが通例だから。
運が良ければ侯爵家の我が家にも話が来るかも知れないが、魔力の多い女性は貴重だし本人が望まなければ、そんな話は湧き上がりさえしないだろう。
儘ならないものだな…。
伯爵位から父の代で侯爵位になったバドレー家は、侯爵家としては新参で他の侯爵家に侮られている。それにも関わらず我が家は母の影響で、総じて三人兄弟の魔力が多い。魔力の多い我が家はやっかみの種になるらしく、六家ある半数以上の侯爵は良く思っていないだろう。それこそ王族や公爵家並の魔力の多さだ。侯爵家の令嬢でも結婚できない事はないが、魔力の釣り合い的に女性に負担がかかるので、そんな婚姻は歓迎されない。
兄は運良く王立学園で、公爵家の姉上と恋仲になり結婚出来たが、女性が苦手な自分や恋より研究を第一に考える弟は難しだろう。
我が家が男ばかりなのは仕方がないが、領主という立場が付随すると、婚姻は逃れられない問題だ。兄上の子供に継いでもらう手もあるが、兄は近衛騎士団に所属しているし、中央の人間と言ってもいいくらいだ。その子供は王都で生活しているし、侯爵家とはいえ、田舎の領地など継ぐ気になってくれるかどうかすらわからない。
叔父上に相談すれば何とかなるかもしれないが、面白がって揶揄われるのは目に見えているので、却下だ。どうにもならない時の、最後の手段に取っておこうと思っている。
考え事をしていたからだろうか。僅かに彼女が身動ぎしたのに気付くのが遅れた。うっすらと目を開けた彼女と目が合う。長いまつ毛が縁取る黒曜石のような澄んだ瞳に、ドキリと心臓が跳ねた。
「ーー銀?」
誰かと勘違いしているらしい彼女に何と答えたら良いのだろうかと、視線を彷徨わせる。違うと答えて良いのだろうか?この状況をどう説明したものかと考えを巡らせていると、彼女はクロードの肩に寄り掛かかり、ふっと表情を緩めて瞼を閉じた。
心臓が早鐘を打ったかのように鳴っている。努めて冷静を装いながら、誰も見てはいない事に安堵した。
恋人か、家族か…。離れてしまったと知った時に、彼女はどんな反応を示すだろう?罪な事をするものだと中央の連中に怒りが湧き、心からの同情が胸に湧き上がる。先程までの自身の勝手な思考を申し訳なく思いながら、短い時間でも出来る限りのことをしてやりたいとクロードは思った。
領城の東門から中に入り、領城内に滑り込む様に入る。通達してあるので周りに人はいないが、廊下の途中で侍女長の年配の女性と、その補佐をしているエリスが待っていた。侍女長は表情一つ変えないが、エリスは興味津々の顔を隠そうともしない。クロードが客間まで女性を抱えて歩く様子を、珍しい光景だとでも思っているのだろう、先程からは口元に手を当ててニヤケ顔を隠している。全く隠れていないが。
ただの仕事だ!と声に出して言えたなら、こんなにイライラしないのに!
彼女をそっと客間のベッドに降ろすと、エリスに後の事を頼む。扉を閉めると緊張が解けたのか、溜息が漏れた。さっさと仕事に戻らなければ…。
早足で廊下を歩きながら、チラリと客間の方を振り返る。
何だか、これは序章に過ぎないような気がした。もっと何か起こりそうな…そんな予感が。
クロードの予感は、実は良く当たるのだ。
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