綾の過去6
変な時間に目が覚めた綾は、自分が玄関で寝ていたのだと気付いた。室内とはいえ、廊下は冷えている。慌てて時計を確認すると夜中の二時だった。
11月末ともなると、朝晩は冷え込むし、コートを着ていたので多少はマシだが、この格好を着替えなければと怠い身体を引き摺るように立ち上がった。
のろのろとした動作で風呂をの栓をし、スイッチを押す。お湯を張る間に食事にしようかと思ったが、気持ちが沈んで食欲はなかった。明日と明後日は休みだが、あんな事があったのに、もう、仕事を続ける気力はない。何かが綾の中でポキリと折れてしまったかのように、無気力な気分だった。
何より彼と顔を合わせるのが、凄く怖いのだ。思い出すと、震えてしまうぐらいの、恐怖の感情が綾の中で湧き上がる。
結局未遂だったのだから…そう思いはするものの、あの時目覚めなかった場合を想像すると、恐怖で喉の奥が詰まって言葉が出てこなくなる。この怖さを、他人にわかってもらえるとは、思わない。結局人は、自身が経験した事がない事を、想像で埋めるしか出来ないのだから…。
退職届の書き方をネットで検索しなければ…直接行くのも嫌だし、速達で送ろう…などと考えながら、綾は重大な事に気付いた。
「ああ!道具類が会社にあるじゃない!どうしよう?!」
大学時代にアルバイトをしながら、少しずつ揃えていった道具類なので、思い入れがある。このまま置き去りにする手法を、選ぶ気にはなれない綾だった。
…師匠にだけは、事情を説明するべきだろう。本当は会って話したいが、会社に行きたくないので、電話か手紙でいいだろうか…。出来たら道具を送ってもらえるように、お願いしてみよう。ざっくりとした予定を決めたら、ほんの少し不安が遠退く気がした。
そこからの綾の行動は速かった。退職届を書き、ついでに社長息子にされた事、言われた事を、冷静に書き記したものも添える。これは一種の意趣返しであり、握り潰される覚悟で入れた。綾も怒りを感じているのだから、これくらいは許されるだろうと思って。ルビーのネックレスを入れて封をすると、速達で送った。会社はこれで良い。
電話で冷静に話せる自信がなかったので、師匠にも手紙を速達で送る事にした。…いや、それは言い訳だろう。わかってもらえなかった時に、傷付きたくなかったからだ。実際には、未遂で何も起こらなかったわけだが、『そんな事で辞めるのか』とか言われたら、綾は間違いなく傷付く。綾は師匠と向き合うことから、逃げたのだ。
実際は、そんな言葉を言われなかったし、綾の為に部屋に来てくれて、涙を流してくれた。『止めるな』と言ってくれた言葉は、綾の宝物になったのだ。工具類も持って来てくれたし、社長からふんだくってやったと、宝石類を送ってくれた。本当に頭が上がらない。
そんな事を綾は、ダリアやマーサ相手に喋っていた。でもその話を聞いていたのはこの二人だけではなかった事に、綾はこの時気付いていなかった。
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短くてすみません!
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