綾の過去5
車が走り始めてすぐ、まずコンビニに寄って、彼が飲み物を振る舞ってくれた。他の女性達が笑顔でお礼を言う中、綾もそれに倣い丁寧な礼を言った。
「石黒さんは、コーヒー、ブラックだったよね?」
そして手渡されたコーヒーを受け取った綾だったが、彼の手に綾の手が触れた瞬間、彼の笑みが深くなる。それがただただ、綾は怖かった。
車の中で他の販売担当の女性達が、彼と気安く話をしているのに相槌を打ちながら、綾は不安を顔に出さない様にするのに精一杯だった。それを隠すために、綾はコーヒーを数口飲む。自分だけが過剰に反応している気がして、気が滅入った。本当にただの親切心だったなら、自分は何て狭量なのだろうか…。
車のエンジンが止まった音で、目が覚めた。どうやら疲れて少し眠っていたらしい。警戒していたはずなのだが、自分の警戒心がそこまで低かったなんて…と綾は愕然とした。何処かの駐車場の様だが、ここは一体何処だろうか?何故かぼんやりと意識が、霞がかっていて、とても眠い。
「あれ?起きたの?」
不思議そうに彼が言う。その言葉は意外に思った様な声音で、綾は怪訝に思った。
「…薬の量が…少なかったのかな?」
ぼそっと彼が呟く。
薬とは何だ?と綾が疑問に感じ、意味を理解した瞬間、背中にぞくりと悪寒が走った。彼から手渡されたコーヒーを、数口飲んでしまっていたからだ。睡眠薬か何かが混ぜられていたのだろうそれを、綾は全部飲まなかったから、今意識があるのかも知れない。恐怖で眠気が吹っ飛んだのは良いのだが、こんな状況に陥りたくなかった。
「…他の人は?」
恐る恐る綾は彼に話しかける。すぐに逃げられる様になるべく音をさせずにシートベルトを外そうとしたが、結構大きな音がしてしまった。
「心配しなくても、先に送って行ったよ」
綾もその時に、起こして欲しかった。
「何故私だけここにいるんでしょうか?」
出来るだけ平静を装って、綾は話しかける。ドアの取手の位置をチラリと確認するのも忘れない。
「君にはまだ用事があるからだよ」
「もう仕事は終わりましたが…」
「君には用事があるって言ったでしょう?ここが何処か分かるなら、察して欲しいかな?」
そう言って楽しそうに笑う彼が、…怖い。綾は辺りを見渡し、看板が目に入った途端、顔を青ざめさせた。ここはラブホテルと言われる場所だと、気付いたからだ。
「ははは、察した?もしかして、誰かと来たことあったかな?」
「…何をする気だったんですか?」
「ここに来てする事って、一つじゃない?」
クスクスと笑う彼が、怖くて綾は身体が震える。
「私は同意していません!」
綾はキッパリと拒絶する。この状況で、やんわり断るなんて無理だ。
「うーん、失敗だったな。まさか、目が覚めるとは思ってなかったからさ」
「これは、立派な犯罪ですよ?」
さっきから、綾は足の震えが止まらない。逃げなくてはいけないのに…!
「でも、何も証拠なんてないよね?」
その自信は何処から来るのか、彼はニヤニヤと綾を見る。
「…ドライブレコーダーがない方の社用車を使ったのは、この為ですか?」
「ふふふ、正解!今時こんな古い社用車使ってるのって、貴重だよね?それだけじゃないよ?君さぁ、誰にも話してないでしょう?僕と業務後、よく一緒に居たのにね?」
綾はその時、自身の失敗を悟った。彼との事を誰にも相談しなかった事が、今裏目に出ているのだ。
「証拠は何処にもないわけだ。君の証言と僕の証言、どちらが説得力があるだろうね?」
一従業員に過ぎない自分と、社長息子の彼とでは、あまりにも綾に不利な状況だろう。真実を言ったとしても、信じてもらえる保証はない。綾は自分の迂闊さに、唇を噛む。
「でも君もさ、僕のネックレス受け取ったよね?男が下心無しで、女にアクセサリーなんて贈ると思う?首輪みたいなものでしょ?独占欲の塊だと思うけど?そんなの、作ってる君が一番良く知ってる事じゃないの?」
「あ…あれは、新製品の為にお借りしただけです!貰ったつもりはありません!」
綾はガサゴソと自分の鞄を探って、ネックレスを取り出した。こんなものを持っていたくはない。綾が彼に突き返そうとした手を、ネックレスごと握られた。綾より大きな手が、綾の右手を両手で包み込んでいる。ねっとりとした彼の視線が、綾の身体を探る様に見ていた。
「裸の君にそのネックレスだけの姿、見たかったんだけど…」
背筋がぞくりとして、綾は震える手を自分に引き戻そうとしたが、強く掴まれていて振り解けない。怖くて瞳に涙が滲む。きっと、喜ばせるだけだから、泣きたくなんて無いのに…。
「何で…何故、私なんですか…?」
好きだとかでは絶対に無い。そんな感じでは無いのは、綾ははっきりと分かる。
「君、結構美人だし、肌質ももっちりしてて好みなんだよ。胸も結構あるよね?もう少し軽い感じだったら、僕も楽だったのに…」
「…そんな理由で?だからって薬まで使うなんて…」
信じられないと綾は思いながら、だけど言っても通じるとは思えない。それが通じる相手なら、こんな事はしないだろう。
「欲しくなると、我慢出来ないんだよね。一回ヤッたら飽きると思うから、付き合ってくれないかな?一回自分のものになったら、満足すると思うし?ネックレスは、その対価だと思ってくれて良いよ?」
理由もだが、言ってる事が最低過ぎて、綾は吐き気がしてくる。
「お断りします!だからって、こんな方法間違ってます!」
振り解こうにも、力の差でそれが出来ないのが歯がゆい。どこかで隙を突かなければ。
「そんな正論、響かないよ。君も彼氏いた事あるんだし、処女でも無いんでしょ?そこまで拒まなくても良くない?」
綾にとっては好きな相手と以外したくない行為だが、目の前の男はそうではないらしい。そこからして、相容れない。
「それに、君がいなくても、会社の業務に影響ないし?君の代わりなんて、掃いて捨てるほどいるからねぇ。だから、躊躇いなく、手を出せるってわけ。理解した?」
ニヤニヤと笑う男は、綾の手をねっとりと撫でてくる。人が傷付く言葉を使いながら、笑顔でいる男が心底怖い。嗜虐趣味があるのではないだろうか?
綾の堪えていた涙が溢れて流れる。滲んだ視界には、振り解けない自分の手を包む大きな手が映っている。無力感と悔しさで、目の前が暗くなってしまいそうだった。
綾だって、自分の代わりなどいくらでもいる事は理解できている。一番若くて経験も足りない自分が、居なくなっても会社に影響など与えられない事も。だが、自分で理解しているのと、人から事実を突きつけられるのは、違う。主に心へのダメージが。
「泣いてる顔も、良いね?そそる…」
自分の頬に手を伸ばした男を見て、綾は肩をすくめる。
その手が触れる直前で、プルルル…と電話のコール音が、車の中に響いた。
男の注意がそちらに向いた一瞬の隙を突いて、綾は男の手を振り解き、ドアを開け社用車から転がり出た。男が何か叫んでいるが、どうでも良い。ドアも閉めずにただただ走って逃げる。
自分の身体と心がチグハグで、気持ちは速く走りたいのに足が追いつかないもどかしさを感じた。振り返る事も怖くて出来なかったので、ただ走って遠くに行く事だけを考えて…。
途中でタクシーを拾い、綾は安堵の息を吐く。
家に帰ってドアに鍵をかけた後は、玄関に倒れ込んだ。逃げている時の記憶は朧げだが、そこで気が緩んだのか薬の影響なのか、綾はそのまま意識を手放す。
手に握っていたルビーのネックレスが、シャラリとその手からこぼれ落ちる音が玄関に響いた。
言った早々、遅れてすみません!