綾の過去4
そしてやって来た展示会の前日、搬入作業を綾は頑張っていた。慣れない作業だったものの、こうやって展示会の準備をするのだと知ることが出来て、綾は興味深く感じる。広い会場には、ブースごとに作業している人達がいて、他のブースのインテリアなどを見るのも楽しかった。こんな機会を与えてくれた、師匠に感謝だ。
販売担当の人達は親切で、綾の質問にも丁寧に対応して教えてくれて、感謝しきりだった。そして何とかなりそうだと少し自信を持って、綾は本番に臨むことが出来たのだった。
そして展示会当日、慣れないパンツスーツを着て、出勤した綾だったが、一つ誤算だったのは、社長息子の彼もいた事だ。彼が居る事自体は、決しておかしい訳ではないけれど、他の人から聞いていなかったので驚いてしまった。
一度会社に出勤してから、皆で会場に社用車で向かう予定だったのだが、二台用意された社用車の内、一台は彼の運転だった。
「石黒さん、こっちに乗ってね」
彼の言葉に、綾の肩が跳ねる。ひらひらと手を振ってる彼の顔は、どこまでも笑顔だった。気のせいかも知れないが、綾にはその笑顔が何故か怖く感じる。
「…はい」
彼に助手席に乗るように促され座った綾だが、緊張で体が強張る。他の人もいるから大丈夫だと、綾は心の中で自身に言い聞かせた。
会場に到着し車から降りようとシートベルトを外した時、綾は彼から腕を掴まれてぞわりと肌が粟立つ。
「これ、着けて?」
そうして手渡されたのは、剥き出しのままのルビーのネックレスで…。
「…これは?」
綾は困惑顔で、彼を見た。
「展示会でも発売する、新商品。着けて欲しいなって」
そう言って、にっこりと彼は笑う。
「自分のアクセサリーがありますので…展示会の責任者の水田さんからも許可をもらっていますし…」
綾は首筋のネックレスを示す。自分の父から母に贈ったダイヤモンドの婚約指輪をリフォームしたものだ。
「…アクセサリーのリフォームも、立派な我が社の業務ですし…その宣伝にもなればと…」
「でも、展示会だし、新製品の宣伝も重要だから」
そう言って笑う彼は、綾が何を言ったところで引き下がる様子はない。溜息を噛み殺し、綾は彼に頷いてルビーのネックレスを受け取ったのだった。
仕事中は他の販売担当の方もいるので、彼とのそこまで接点は多くない。普段から二人きりにならない様に気を付けていたので、いつもと同じ様にするだけだ。綾は露骨過ぎない様にではあるが、避けに避けまくった。
その甲斐があって、休憩時間も別で快適に会場を見て回れ、師匠の言葉通り勉強になったと思う。定期的に来て、流行りのデザインを知るのも良いかも知れないと綾は思った。
催事期間、三日間のうちの初日だけの手伝いの綾だったが、無事に仕事を終えることが出来て綾はほっと胸を撫で下ろす。
現地解散なので、後は自宅に帰るだけなのだが、そこで彼に捕まってしまった…。
「今から会社に戻るけど、途中までで良ければ送るよ」
そう、皆に声を掛ける彼は、やっぱり笑顔だった。
「本当ですか?是非!地下鉄の出入り口までお願いします!」
一人の女性が手を挙げ、もう一人の女性も名乗り出た。全く警戒した様子もないので、綾だけが過剰反応している様で嫌になる。
「石黒さんも、同じ方向だったよね?」
女性の一人が綾に話し掛けてきた。親切のつもりなのだろうが、今の綾には地獄への誘いに等しい。
「私は…一人で…」
帰りますと続けるつもりが、途中で言葉を遮られた。
「遠慮しなくて良いよ?」
そう言った彼は、にこにこと笑っている。その彼に合わせて、遠慮せずに送ってもらおうと、女性達は綾を誘う。断りきれず、綾は頷いてしまった。内心頭を抱えたが、他の皆もいるから…と綾は自分に言い聞かせた。