綾の過去1
ジェンデ子爵と合同演習の最終打ち合わせを終えたクロードは、足早に彫金棟へと急いでいた。
たまには、クリストフと夕食を共にしようとしたのである。クリストフはソフィアが居ない場合、大抵彫金棟で食事を済ませてしまうので、クロードが出向く方が早いのだ。ジェンデ子爵との最終打ち合わせも終わったので、合同演習の報告も兼ねている。
ただそれだけが目的ではなく、クロードは綾の顔が見たかったのもあった。嫌われてはいないだろうが、押しが弱いと皆から言われ続けた結果、もう少し距離を近付けたくなったのは確かだ。せめて、自分の好意が、綾に伝われば良いと考えての行動である。
食堂に顔を出したが、まだクリストフは来ていない様だった。それに綾の姿も見えない。それなら、工房の方だろうと踵を返すと、案の定、工房の窓からは煌々と灯りが漏れている。工房のドアをノックしても返事が返って来ないのはいつもの事と割り切り、クロードはドアノブを回して中に入った。本日の業務は終了したはずだが、何人かは残って作業しているのだろう。
一番手前のブースが綾に割り振られた場所である。そこをそっと覗くと綾が作業の手を止めて、カップを両手で包む様に持ち、ぼんやりとしている姿が見えた。クロードは作業中でないのなら…と思い、カツカツと靴音を響かせ綾の肩に手を置いた瞬間、綾のカップがガシャンと音を立てて床に落ちた。
磁器の破片と中身のコーヒーが床に散らばり、クロードは目を見開く。そして、震える肩で綾が振り返ると、そこには怯えた黒曜石の瞳がクロードを見ていたのだ。クロードは思わず綾の肩に置いた手を、引っ込めて謝る。
「…すまない、驚かせてしまった」
クロードが綾の瞳に見たのは、怯えを含んだ感情だ。それはクロードが、初めて見る表情だった。
「……ち…違うんです…これは…」
綾が狼狽える様子を見せて何か言いかけたが、カップの割れる音に何か異変を感じたのか、クリストフが駆けつけてきた。そしてエメリックも工房のドアを開けて、入ってくる。綾の様子が普通でないことに気付いた二人は、鋭い視線をクロードに向けた。
「何かされたの!?アヤ?」
「違うんです!驚いただけで…」
「正直にいって良いんだぞ?何をされた?」
氷点下の声音でクリストフが綾に問うが、綾は違うのだ目に涙を浮かべながら何度も訴え、首を横に振るだけだった。
クロードの胸には、重い何かがのしかかり、動くことも出来ない。クロードが、何か怯えさせる事をしてしまったのは、事実なのだ。それが何か分からず、しばらく呆然として自身の手を見つめる事しか出来なかった。
やがて駆けつけて来たダリアに連れられ、綾は工房を出ていった。
残されたクロードに、クリストフとエメリックは尋問を繰り返すが、クロードも何が何だか分からないまま、先程あった事を話す。二人はやがて首を傾げて場所を移そうと応接室に行く事を提案し、クロードも了承してソファの深く座り込んだ。グッタリとしたクロードの対面に、クリストフとエメリックが座り重い空気が流れた。
「…アヤの様子が変だったのは、みんなの意見が一致しているんだよね?」
エメリックが問うと、クリストフもクロードも頷く。
「…何かいつもと違う事ってある?」
エメリックは首を傾げるが、クロードは上手く頭が働かず、何も言葉が出て来なかった。それ程、自分は衝撃を受けたのだと、今更気付く。
「…クロード、お前臭くないか?」
唐突に、クリストフはそんな事を言う。
「…は?臭いって…」
今はそれどころではないと、クロードは眉を顰める。
「…ああ、ジェンデ子爵の煙草の匂いが染み付いてるね」
エメリックもそう言うと、浄化魔法をかけたら?とクロードに提案した。
「…煙草の匂い?」
クロードは自分の腕に鼻を近づけて嗅いでみると、確かに煙草の匂いがした。うっかり浄化魔法を掛け忘れていた事に気付いたが、だからと言って綾の様子との関連性は見出せない。それでも気になったから、浄化魔法で匂いを消し去ると、ほっと一息ついた。
「ああ、ジェンデ子爵に会った後は、浄化魔法は必須だぞ?ソフィアも嫌がったからな…私も気をつけていた。アイツは愛煙家でさえ無ければ、非の打ち所のない領主なのにな…」
クリストフが頷きながら、ジェンデ子爵の評価を述べる。クロードも同意見ではあるが、今はその話は関係ないだろうと思う。
「そんな事より、アヤの様子ですよ」
「クロード…そんな事ではない。女性は匂いで遺伝子を嗅ぎ分ける生き物だぞ?臭い男なんて、見向きもされんのだ」
ことのほか、真剣な顔でクリストフが話す。
「いや、今は…そういう話をしているわけではなく…アヤの様子が…」
クロードはそんな話を、今したいわけではないのだ。
「あ!」
急に大きな声で、エメリックが叫んだ。
「何だ?エメリック」
クリストフがエメリックを促す。
「アヤが煙草の匂いに、何か嫌な記憶が呼び起こされた可能性は!?」
エメリックの言葉に、クロードは息を呑む。…もしそうなら、クロードを嫌いになったわけではないのだろうか…?
「ダリアが付き添っている。そのうち理由が分かるだろう…」
クリストフの言葉に、クロードは頷いた。
いつもお読み頂きありがとうございます!
ちょっと、クロード視点か、綾視点か、書くのを迷いまして、遅くなりました。ごめんなさい!
ではまた⭐︎あなたが楽しんでくれています様に♪