寝耳に水の話
綾は自分が第二王子に確認されていた事など何も知らないまま、次の日を迎えた。朝食の席で聞かされた時は、数秒固まったが知らない間に終わったのだと思えば、悪くないかと綾は前向きに捉えてパンを口に運ぶ。焼きたてのパンはふわっとモチっとしていて、今日も美味しい。
綾の食生活は半分和食、半分洋食が占め日本にいた頃と変わらずバランスが良い。中華料理も作りたいが、材料が足りないのであまり作っていない。誰かオイスターソースをください!
とそんな感じに衝撃の事実を受け流していると、レナードが口を開いた。
「綾は明日から、元の仕事に戻ってもらうことになったから」
「え?まだ先の予定でしたよね?」
「それが、避暑にバドレーの領地を訪れた貴族家から冬の社交シーズンの注文が、予想以上に入ってるらしくて…」
レナードは苦笑しつつ、肩を竦めて見せる。
「アヤさんを戻すように、クリストフがうるさいのよ」
ソフィアが補足して説明してくれる。何だか、綾は少し嬉しくなって頬が緩む。猫の手でも借りたい状況なのかも知れないが、少しは戦力として見てくれているのかもと考えてしまうのだ。
「あらあら、アヤさんは嬉しそうね?レナードの相手は、嫌だったのかしら?」
「いえ!そうではなく、必要とされた事が嬉しくて…」
綾は彫金師なので、彫金師として必要とされるのに喜びを感じるのだ。
「僕も必要と思ってるよ!?」
レナードが慌てながら綾に言う。
「振られたわね!でも良い頃合いかも知れないわ…クロードが寂しがっているから!」
ソフィアの言葉に、綾の顔は朱に染まる。いや、冗談だろうけど…と思いつつも、綾もクロードに会いたかった。そう、会いたいと思ってしまったのだ。
綾は平静を装いながら、黙々と朝食を口に運ぶ。そんな綾をソフィアが可笑しそうに見詰めていた。
「今日の休みは何するの?アヤさん」
笑顔で綾に問いかけたソフィアは、今日もタンザナイトの瞳が美しい。
「特に決まっていません」
「じゃあ、ダンスレッスンしない?」
「ダンスは得意じゃないので…」
バリバリの文化系なので、学校の授業でしかダンスなどした事ないので、心から遠慮したい綾だ。
「でも、必要になると思うんだけど?」
「?…彫金師には縁のない技能だと思うんですが?」
「でも、冬の社交シーズンまでに数曲ぐらいは踊れた方が良いと思うけれど?」
「舞踏会への出席予定はありませんよね?」
「だって、今年のクロードのパートナーになってもらわないと…ダリアとジルに悪いもの…」
「へ?」
意味が分からず困惑を隠せない綾に、レナードは説明し出す。
「父上が爵位をクロード兄上に譲ってから、社交シーズンのパートナーを努めてくれていたのが、ダリアなんだ」
「ダリアさんって、ジルさんと夫婦ですよね?何で、社交シーズンのパートナーなんてやってるんです?適役は他にいくらでもいるんじゃ?」
「クロードは、モテるんだけど…誤解されて面倒な事になるのが嫌だって、譲らなかったの…」
もしかして勘違いされて、面倒な事になった経験でもあるのかしら?と綾は思いながらソフィアの話に、相槌を打つ。
「それで、ダリアさん…」
ダリアは娘や孫までいるが、魔族である彼女はいつまでも若々しいし、美人だし、彫金を推しているバドレーの広告塔にもピッタリで、適役なのだとか。
「あの二人も、それが原因で別居してるし…もうそろそろ解放してあげたいのよ!」
別居!?って普通に寮の部屋なだけじゃ…と綾が思っていたのを察したレナードが、夫婦や家族で使える部屋もあるんだよ?と苦笑した。知らなかった!
「え?あの二人、喧嘩中だったんですか!?」
いつもにこやかに会話してますけど!?
「喧嘩というよりは、ビジネスな関係とはいえ、他の人のパートナーになるのダリアを、ジルが止めなかった事が原因ね。クロードは女性が苦手だし、仕方ないとジルは譲ったのだけど、ダリアは止めて欲しかったのよ。乙女心は複雑なのよね…」
そんな話を聞いた後だと、本気で断れない雰囲気なんですが!?
「何故私なんです!?広告塔なんて無理ですよ!」
ダリアみたいな、ナイスバディな美女ではない綾は、ブンブンと首を振る。
「あら、アヤさんはダリアにはない可憐な魅力があるわ!清楚な雰囲気だし、これから養殖真珠を売り出していきたいバドレーには、ぴったりだと思うわ!」
「でも、クロード様は、誤解されるのが嫌だって…」
それは、私が誤解されようもないくらい、安全な存在だという事だろうか…。ちょっと自分で考えていて、悲しくなってくる。あれ、何で悲しいんだろう…?
「兄上は、誤解でも何でもされたいと思うなぁ…外堀埋めるチャンスだし?」
ぼそっと呟いたれなの声は、綾には聞こえてない。
「クロードを助けると思って、引き受けてくれないかしら!?」
ずいっと前に身を乗り出して、頭を下げるソフィアを前に、綾は頷くことしかできなかったのだった。