クロちゃん3
「そう言えば、シリウスが帰ってきた様だな」
聴力を強化したクロは、屋敷の方に意識を集中させて呟いた。甘いコーヒーを飲みながら、ほぅと満足そうな吐息を漏らす。本当に可愛い。
「そうなのですか?」
綾が思わず、屋敷の方角に視線を向けると先程は無かった二頭立ての立派な馬車が見えた。紋章がバドレーの物では無い事を不思議に思いながら、クロに向き直る。
「マヴァール前公爵夫妻も一緒だ」
「ああ、お泊まりされてましたね。でもシリウス様なら転移魔法で移動されそうですけど」
綾はせっかちなシリウスの性格を考えて、意外だなと思った。
「荷物が多かったので、馬車を使ったらしい。前公爵夫妻も帰りの事を考えての事だろう」
「クロちゃんは、物知りですね」
「人の会話を聞くのが、暇つぶしになっておるのでな。呼吸する様に聴力強化を使えるのだ。さすがに防音魔法を使われると、無理だが。アヤも練習してみると良い、便利だぞ?」
「確かに、視力強化も聴力強化も気になりますね」
「目や耳に魔力を集めるイメージでやってみると良い」
綾は目を閉じて、耳に魔力を集めてみる。だが次の瞬間、喧騒の中に放りこまる様に雑多な物音が頭に響いて、集中が切れてしまった。
「…うぅ。頭割れるかと思った!」
一気に流れ込んだ音のせいで、脳が情報を整理出来なくなっているみたいだと綾は思った。
「初めてはそんなものだ。だが対象を絞ると他の音を聞こえなくしたりも出来る。喧騒の中でも、普通に会話出来るであろう?対象の音だけ拾う感じだな」
そう言ってクロは甘いコーヒーを飲み、チョコレートをパクリと食べた。
「これは訓練必須ですね…」
何でも一朝一夕に出来るはずがない。でも訓練は必要だろうと綾はため息を吐く。本当に異世界に来てから、学ぶ事ばかりだ。
「慣れも大事だろうて。アヤ、チョコレートとコーヒーの組み合わせは、素晴らしい!」
金色の瞳をキラキラさせながら、クロが綾に笑顔を見せる。
「気に入ってもらえて嬉しいです」
綾もクロに笑顔を返す。学ぶことも多いし、やる事も沢山あるけれど、私に出来ることなんて、限られたことだけだ。焦らず行こう…と綾は思う。だって私には味方が沢山いるのだから。
「…ほう、なかなか面倒そうな事になっておるの」
しばらく黙ってコーヒーとチョコレートを楽しんでいたクロが、綾を見て苦笑する。こうしている間も、クロはどこかの会話に耳を澄ませているらしい。おそらくシリウスやソフィア達の所だろう。
「面倒そうな事?」
綾はクロの言葉に首を傾げた。
「うむ、第一王子が、アヤを探しているそうだ…あ、ソフィアの伝令蝶でクロードが転移して来た。騎士団の転移陣を使わずに行くとは…クロードも腕を上げたな…。ああ、アヤの事だからか…ソフィア達が呆れている…ふふ、もう少し冷めた男と思うておったが、本命には形無しだな」
クロは楽しそうに笑う。綾はクロの様子を見て、本気で聴力強化の訓練に取り組みたくなった。盗み聞きは良心が咎めるが、綾にも関係のありそうな事を知るのは必要な事だと思うのだ。
もう少し待てば、誰かが綾に話してくれるだろうが、リアルタイムで知ることが出来るのは魅力的に感じる。
「うむ。合同演習中は他国の者も大勢ウラール地方に集まるであろう。アヤも気をつけるのだぞ?」
「模擬試合を見たかったのですが、無理なのでしょうか?」
折角チケットを融通してくれるとクリストフが言っていたのに、見られないのは残念すぎる。知り合いになった女性騎士、シンディの試合も見たかった。
「まぁ、何か策は考えてくれているだろう。一度言ったことを取り消したりはしないのが、クリストフだ」
「期待して待ってます」
綾は少し安心して、クロの皿にチョコレートを追加したのだった。