クロードの焦燥
マーレの夏の夜は、海風が心地よく吹いている。だがクロードはそんなものを楽しむ余裕もなく、転移陣のある軍の駐屯地から屋敷までの道を焦りと共に駆け抜けた。
ソフィアやレナードに挨拶する事すら忘れて、クロードは靴音を響かせながら談話室に飛び込む。
「本当に寝ているだけなのか!?」
そのまま綾の部屋に突進しようとするクロードを、ソフィアが拘束魔法で縛り上げ、ソファーの上に転がした。床に転がさなかっただけ、慈悲深い所業である。魔力の鎖でぐるぐる巻きにされた領主の存在を、使用人達は空気のように扱う。なんせ幼い頃には日常的な光景だったものだから、古参の者ほど動揺しない。若い使用人はこの場にはいないので、誰もソフィアの行動を止めたりしないのだ。
「私がこっそり確認したから大丈夫よ」
優雅に紅茶を飲みながら、カップを傾ける母親は、ちょっとやそっとじゃ動じない。知っている、こう言う人だと。
「でも、夕食にも姿を現さずに部屋に閉じこもったままなんて…」
縛り上げられた情けない姿で、クロードはソフィアを見詰めた。
「兄上、ブランの長から正式な謝罪の手紙が届いているし、その後の処置も後日報告するとあったでしょう?それにその場面を見ていたチェスターが、さっき城で詳細に報告したんでしょう?他に何が心配なのさ?」
レナードの冷静な言葉に、クロードは苛立つ。
「全部だ!!」
「全部って、アヤは子供じゃ無いんだから…精神的にはショックを受けてるかも知れないけど、『鑑定』も弾いたし、弱点を晒した訳でもないし、身体は無事だし」
どうも母上と父上に育てられた三兄弟は、他人の弱さに無頓着な傾向があるのだ。身体が無事なら、大丈夫だとか脳筋的な考え方だ。でも王立学園に通って自分達の教育環境は、一般的ではないらしいと痛感したクロードである。だから心配なのだと何故わからないのか!
「その精神的なショックが心配なんだろう!?」
「だからアヤはいい大人なんだから…」
「心配して何が悪い!こんな事になるなら、会うのを阻止すれば良かった!」
ついクロードの本音が漏れてしまって、ソフィアに睨まられる。
「カマルはずっと紳士だったわ。今のあなたよりずっとね!」
ぐっ!!ソフィアは息子への、精神的な攻撃も容赦ない。
「………でも、アヤは傷付いた」
「そうね。だけど、これは予測不能の出来事よ。阻止なんて閉じ込めてしまわなければ無理だもの」
ソフィアの言い分は分かる。分かるが納得したくても出来ないのだ。
勝手に召喚されて勝手に排他されるなんて、綾に何の責任もないのに!どうして?何故?とクロードの心が叫ぶのだ。何故周りの勝手な我儘で、綾が傷付かなければならなかった!?何故?
「クロードもそれが現実的じゃないのは分かっているでしょう?閉じ込めて、誰にも会わせずに監禁でもするの?傷付かないようにする為に?そうやって、彼女の自由を縛るの?」
違う!ただ、クロードは守りたかっただけだ。守れなかったのが悔しいだけだ。
「レナードの言うとおり、アヤは大人です。自尊心を傷付けてはいけないわ。起き上がれなかった時だけ、手を貸せば良いの」
タンザナイトの瞳が鋭くクロードを見据える。
そんなふうには割り切れない。それが他の誰でもない、綾だからだ。
「拘束魔法の期限を三十分にしました。その間に、少し心を落ち着けなさい」
レナードや使用人を連れて、ソフィアは席を外す。一人きりになった部屋で、クロードはガックリと項垂れた。
ソファーに転がされた状態で、クロードは考える。
独身女性の部屋に一人で向かうのは、世間体的にも駄目だとクロードも理解しているのだ。昨日はマーサに付いてきてもらったし…。だが、母上も使用人もクロードに付いてきてはくれないだろう。それならどうしたら良いのか?
拘束魔法を使われていても、魔法は使える。遠くから様子を見るだけなら許されるだろうか?遠見の魔法は空間を繋げる魔法なので転移魔法と原理は似ているが、消費魔力は少なくて済む。場所が近いなら、ほんの僅かの魔力消費で済むだろう。
クロードはソフィアを思い浮かべて、この魔法も覗き見に当たるから怒られそうな気がしてきたが…。…でも、ソフィア自身もこの魔法で綾の様子を確認した筈なのだ。
「…バレないように隠蔽魔法を重ねがけして…魔力漏れを防いで…」
ブツブツと呟きながら、クロードは簡単な遠見の魔法に高度な魔法(ソフィアにバレない為)を展開していく。無駄に高度な魔法展開でソフィア対策を施して、綾の様子を覗いてみた。
綾はベッドに今朝見た格好のまま、丸まって眠っている。手に何か握っていてそれがクマの顔だとクロードは気付いた。何処かで見た事がある気がして目を凝らす。
「ああ、魔力圧感知の…ジルにブレスレットにしてもらった後も、持っていたのか…」
何だが、胸がムズムズして頬が緩む。気に入ってくれていたなら、嬉しい。そう思って綾の目元を見たクロードは、途端に胸が苦しくなった。魔力が多く付着しているのに気付いたからだ。
「…泣いたのか。…無理もない」
何かクロードに出来ることはないのだろうか?クマたんと目が合った気がしたクロードは、クマたんに付与魔法を掛けることにした。ほんの僅かな時間しか保たないだろうが、安眠と癒しの付与をクマたんに施す。魔力の光がクマたんを包み込んだ瞬間、綾の瞳が薄っすらと開いた。ドキドキとクロードの心臓は、早鐘を打っている。綾の瞳がまた閉じて、クロードは安堵から大きく息を吐き出した。
魔法を修了した瞬間、談話室の扉がバンッと大きく開かれて、クロードは失敗を悟る。折角バレないように気を付けていたのに、別の魔法を使ってしまった事でソフィアに感付かれてしまったのだ。
ドス黒いオーラを漂わせたソフィアが目が笑っていない笑顔で、クロードを見下ろしている。タンザナイトの瞳は冷ややかで、蛇に睨まれたカエルのような心地で、クロードの背中に冷や汗が流れた。
クロードは教育的指導という明日の早朝訓練が、地獄の様相を呈することになるのを覚悟して項垂れるのだった。