影の権力者
クロードとの朝食を終えて、綾が客間に戻るとエリスが待ち構えていた。もしかしたら心配してくれていたのかも知れない。
昨夜は話が終わってお風呂でほっとしたら、急に涙が溢れて止まらなくなってしまった。交渉を終えて気が抜けたのもあるだろう。戻れないことを知った事で、家族や友人、師匠に会いたくてたまらない。どうして会いに行ける距離の時に、会いに行かなかったのだろうと、綾はどうしようもない後悔を抱き、それは涙となって零れ落ちた。
綾は知っている。涙を流し切ってしまった方が、精神的に落ち着くことを。だけど長風呂を心配して声を掛けたエリスに、泣いていた事を気付かれてしまっただろうと思う。風呂から上がった時には綾の目は赤くなってしまっていたからだ。
エリスは何も言わず綾の世話を焼き続けた。布団の中でも泣いてしまったのだが、何も言われないのは有り難く、付かず離れずの距離感は、心地良いと感じていた。
「領主との朝食は如何でしたか?」
「クロード様のご厚意で、治癒魔法を施して頂きました」
治癒魔法は、温かくて優しい魔法だった。綾自身も誰かの為に魔法を使ってみたいと思う。練習したら出来るようになるだろうか?
「クロード様は無愛想ですから、気を使われたのでは?」
「無愛想だとは思いませんでしたけど?」
仕事だとしても、親身になって綾の話を聞いてくれたし、昨日も、今朝も、気遣ってくれていた印象しかない。それとも、この国の基準が、綾のものとは違うのだろうか?
「そうですか?」
エリスは首を傾げる。
「乗馬を覚えたら、海に連れて行ってくださると約束してくださいました」
「…海へ?クロード様が?」
エリスは、今度ははっきりとトパーズの目を丸くしていた。そして何やら考え込んだように黙る。綾は気付いていなかった、手で覆っていたエリスの唇が、弧を描いていることに。
「あの、エリス様、私は貴族ではありませんし、職人として雇ってもらう一般人です。その様な丁寧な言葉遣いは不要です」
昨日の自己紹介で綾は知ったのだが、エリスの実家は伯爵家らしい。丁寧な態度をとられると、こちらとしては居た堪れない気分になる。
「……あなたがエリス様呼びをやめてくれたら、そうするわ」
エリスはにっこりと微笑む。
「でも貴族と平民ですけれど?」
「私は個人的に、あなたと友人になりたいと思っているの」
適度な距離を保ってきたのに、急にその距離を詰めてくるエリスの意図が分からず、綾は戸惑ってしまう。
「ど、どうしてでしょう?」
「ーー面白そうだから」
エリスは蠱惑的な笑みを見せた。それは個人としての綾への興味だけでなく、クロードとの関係性まで含んだ言葉だったのだが、綾は知る由もなかった。
エリスは現在27歳。実はクロードとアルフィも同じ年齢だと、綾はエリスに教えてもらった。それもそのはず、エリスとアルフィとクロードは、王立学園の同級生であり、友人同士であったのだった。
年上を呼び捨てにするのは抵抗があるので、エリスさんと呼ぶことに決める。エリスは少し残念そうな表情を見せたものの、了承をもらえたので綾はホッとした。
異世界人が珍しいだけで、特に深い意味は無いのだろうと気を取り直し、綾は気になっていた事を話してみた。
「この髪用の美容液、凄いですよね。ツヤツヤサラサラになるので驚きました!肌用の化粧水も美容液も使い心地良いですし」
艶の増した髪を触りながら感想を述べると、エリスは得意そうに胸を張る。
「ふふふ、王都で今流行ってるのよ。実は私の私物でね、クロード様に言って買って来てもらったの」
あ、あれ?私の気のせい?領主様をパシリにしていると聞こえたのだけれど?!
「そ、そんなものを使わせてもらって良いのでしょうか?」
恐縮しつつ、綾が尋ねるとエリスは良い笑顔で頷いた。
「気にしないで!クロード様がお金出してるから!私の懐は痛んでないの!」
お…おう、まさかの貢物でしたか。二人がどの様な関係なのか、聞くのが怖い。エリスは影の権力者かも知れないと、脳内でパワーバランスの修正を行った綾なのであった。
エリスの淹れたお茶を楽しみつつ、お互いの家族構成などを話していると、エリスは既婚者で、4歳の女の子と2歳の男の子の母親である事を綾に教えてくれた。小さい子供がいるのに、夜に綾について居てくれたのを申し訳なく思っていると、仕事で慣れていると朗らかに笑う。エリスの夫も領城勤務らしく、仕事中に顔を合わせる機会も多いのだとか。
この国の女性は子供を子守りに預けて外に働きに出る事自体が、ステータスなのだと言う。それ程重要な仕事についている事の、証明だからだ。働く女の一人である綾は、それを好ましく思う。
「私は今日これから休みだから、侍女長が代わりに来てくれるから心配しないで?」
「そうなのですね、ゆっくり休んでください」
綾の為に時間を使ってくれるのは有り難いが、エリスは子供達と過ごす時間がちゃんとある様なので綾は安心した。
「あ、そうそう、今日の服については?クロード様に何も言われなかった?」
今日の綾の装いに自信があったのか、エリスが訊ねる。高い位置で括った髪には、小学生の時以来のリボンが結ばれていて少し恥ずかしい。スカートの萌黄色とお揃いのそれは、黒い髪によく合うとエリスは褒めてくれていた。
「え、特に何も」
「…あの、朴念仁め!!」
「エリスさん!?」
エリスは、貴族の男性は息をする様に女性を誉められなければならないのだと、綾にそれはもう切々と語った。クロードの評価が、ある一面において非常に低い事を知ってしまった綾は、思わず遠い目になった。た、大変なんだなぁ、貴族って。
「クロード様に、気の利いた言葉を期待してはいけませんよ。女性関係はからっきしなのですから」
綾が振り返ると、昨夜お茶の乗ったワゴンを運んできた年配の女性が、すぐ近くに立っていた。エリスと話し込んで、気付かなかったらしい。
明るい茶色の髪を複雑な結い方で一つに纏めていて、グリーンスピネルのような青緑色の美しい瞳は、優しく細められていた。まるで、子供を見守る母親のような慈愛に満ちた表情だ。
目尻に皺はあるものの、整った顔立ちで、若い頃はさぞやモテた事だろうと想像に難くない。所作は優雅で、立ち姿も美しく洗練された印象だ。綾に付けられていると言うことは、彼女も綾の事情を知る人物なのだと察する。
「私は侍女長の、パメラです」
そう言うと、パメラは優雅な礼をした。綾も慌てて立ち上がり、頭を下げる。
「石黒綾です」
いつもの癖で、姓も名乗ってしまった。あ、と思った時にはもう遅い。今朝クロードから教えてもらった事を思い出し、思わず手を口に当てる。
この国は、貴族以外は姓を持たない。姓は出身地を表すものでもあるらしく、その話を聞いた時、レオナルドダヴィンチみたいだと綾は思った。確か、ヴィンチ村のレオナルドさんみたいな意味だったと記憶していたからだ。
綾の失態に気付いたであろうパメラは苦笑いで、エリスは綾の肩をポンポン叩いて早く慣れないとねと笑う。ボロを出さずに過ごすのは、意外と難しいかもしれないと綾は落ち込んだ。
気落ちした綾を励ますためか、パメラはことさら明るく話す。
「買い物に行きましょうよ!街に出たら、気分転換になるわ」
「え、私も行きたいです!今日は私休みなんですから、明日にしましょうよ!侍女長!」
余程買い物に行きたいのか、エリスはパメラに必死な表情で訴える。たかが買い物に、必死になる意味が綾にはわからない。
「馬車の手配は当日でも出来ますけど、買い物なら荷物持ちも要りますって」
更にエリスは、明日の方が良いと力説している。
「そうねぇ、エメリックを貸してもらえないか交渉してみるわ」
綾の知らない所でどんどん予定が決まっていく。誰にも相談せず、勝手に予定を決めて良いのだろうか?パメラは何者なのだろう?
「買い物なら一人でも…お手数をおかけするのは心苦しいのですが…」
「こちらのお金の単位も、習慣も分からないのに?」
パメラは首を傾げて、冷静に現実を告げてくる。
…そうだった!ボラれる予感と、迷子になる予感しかしない!そもそもお金も持っていない!現実に打ちのめされて、思わず項垂れる。
「………」
でも良いのかな?上目遣いで綾がエリスとパメラを見上げれば、よしよしと頭を撫でられた。二人とも何とも言えない、慈愛に満ちた表情をしている。まさかの子供扱い!?この世界の基準では背は低いだろうけど、こう見えても25歳なのですが!?エリスとは二歳差なのに、この扱い…。
しかし異世界に来て丸一日も経っていない綾は、子供扱いでも仕方ないかも知れないと、思い直す。
「私達、暇なのよ」
ポツリと呟かれたパメラの予想外の一言に、綾は咄嗟に言葉が出てこない。
「…暇?侍女の、お仕事がですか?」
「そう、使えるべき女主人がいないから」
「女主人?」
「そう。クロード様は独身だしね。前領主夫人であるソフィア様も、この時期は留守にされてて」
メイドと違って侍女は、仕える主人の世話が主な仕事だ。お客様への対応もするけれど、主人が居ないと張り合いがないのだと、二人は綾に話す。
「クロード様もクリストフ様も自分のことは自分でする性質だし」
礼装の場合でも、侍従がいれば事足りるので、侍女の出番はない。
「そもそもバドレーは騎士家系だから、そういう教育方針なのよ」
ずっと戦争状態にあったこの地では、代々の領主は戦の矢面に立ってきた。武術や、攻撃魔法などを、幼少期から叩き込まれるのだ。いつ戦になっても問題ない様に、自分のことは自分でするのが普通で、他領の貴族のように、悠長に構えることが出来なかったのである。その危機管理の伝統が、現在も受け継がれているのだった。
「唯一の女性ソフィア様はマーレの別邸にいるし。私も別邸勤務が良かったけれど、家庭持ちだし。領都に住んでいるから、領城勤務なの」
「やっとやりがいがある仕事が回ってきたのだから、張り切らせてね」
パメラの一言で、買い物は明日の決定事項になった。陰の権力者はエリス以外にもいるようだ。綾の今、目の前に。
「よ、よろしくお願いします」
そう言う以外の選択肢は、綾にはなかった。