マヴァール前公爵
レナードが応接室に入って来たその時、扉の開いたその奥の執務室に黒髪の女性がちらりと見えた。思わずジェラルドは息を呑む。努めて平静を装いながらレナードと挨拶を交わすが、閉められた扉の向こうの事が気になって仕方なかった。
なぜなら、蜘蛛に報告させていた女性であるからだ。ただ彼女は厳重に守られており、なかなか情報が上がってこない。しかし、このバドレーの領城の城下町で意外な情報が得られた。マヴァールの直営店である店舗から、黒髪の女性が商品を買っていたと報告が上がったのだ。黒髪はマヴァールで重要な意味を持つ。その女性はマヴァールの商品を嬉しそうに手に取り、決して安くない商品を複数、魔力払いで購入して行ったのである。
その情報を得て、ジェラルドは期待を抱いた。こうやってわざわざ自ら足を運んだのは、その期待ゆえだ。求めていたものが幸運な事にすぐ近くにある。神に感謝したい気分だが、ここは慎重に事を運ぶ必要があると分かっているので、腹に力を入れてどうやって接触しようか、頭の中フル回転で考えるのだった。
「レナード君、お連れの方がいるようだね。もしかして待たせてしまっているのかな?申し訳ないね」
「いえいえ、休憩がてら寄っただけなのでお気遣いなく」
レナードは穏やかに微笑んだ。
「そうだ、領地からお菓子を持って来たんだ。日持ちしないから今日中に食べてほしいのだけど、お連れの方も一緒にどうだい?そこの秘書官君も一緒にさ、丁度休憩を挟むのに良い時間だろう?」
ジェラルドはマジックバックから重箱に入ったお菓子を取り出す。
「でも彼女は…」
クロードが言葉を濁す。
「私と一緒だと緊張してしまうかな?でもお菓子は渡してあげて欲しいな?」
「それなら…」
クロードはアルフィを呼び、重箱を渡しながら綾とアルフィの分もあると伝える。アルフィはジェラルドに丁寧に礼を言った。
「執務室で取り分けてお茶の用意もして参ります」
「このお菓子には、このお茶が合うんだ」
ジェラルドが茶筒に入った茶葉をアルフィに渡すと、それを受け取ったアルフィは執務室に戻って行った。
暫くして戻って来たアルフィは、完璧にマヴァール式に盛られた牡丹餅の乗った皿と、淡い緑色が美しい汲み出しに入った緑茶を茶托の上に乗せてジェラルド達の前に差し出した。汲み出しを手に取り、ジェラルドは一口緑茶を口に含んだ。芳醇な香りと舌に感じる旨味は、緑茶の淹れ方を知っている者が淹れたお茶の味だった。温度も丁度良い。それに牡丹餅に添えられていたのはフォークではなく、クロモジだったのだ。
「さすがだな!完璧だよ!緑茶の淹れ方はコツがあるのだが、良く分かったね」
「…恐れ入ります」
笑顔の秘書官は、表情も完璧だった。
「君達も遠慮なくどうぞ」
アルフィに向かってそう告げると、ジェラルドに向かって彼は一礼する。
「では奥に下がらせてもらってから、頂きます」
アルフィが扉を開けて戻る時に、そっとこちらを覗いている黒髪の女性とジェラルドの目が合う。黒髪の女性は慌てて頭を下げたので、ジェラルドはにっこりと笑っておいた。
ジェラルドの直感は、このお茶を淹れたのは彼女だろうと確信している。緑茶はマヴァール以外では殆ど飲まれていないのだ。どんどん期待は高まって、あと一押しで核心に近付けそうな気配に気分が高揚してしまう。
ジェラルドはそれを表情には出さず、牡丹餅を口に運んだ。何度もマヴァールに足を運んだ事があるクリストフは、黙々と牡丹餅を食べているが、クロードやレナードはモチモチした食感が珍しいのか、ゆっくりと未知の味を味わっている。
「美味しいな。マヴァールにも長い事行っていないのを、これを食べて思い出した」
クリストフは満足げに牡丹餅を平らげ、緑茶を啜った。
「お、この味も久し振りだな」
「このお菓子にはピッタリなお茶ですね」
クロードも緑茶が気に入ったのか、一口飲んでほうと息を吐く。
「それにしても君の秘書官君は優秀だな!高温で淹れると風味が台無しになるんだ」
「お褒めに預かり光栄です」
皆が牡丹餅を食べ終え、少し歓談した所で、ジェラルドはこの場を去る事に決めた。これ以上の接触は難しいだろうと考えながら、次の一手を探す。
「そろそろ失礼するよ」
ジェラルドはソファから立ち上がる。それに合わせて、他の皆も立ち上がった。
「この髪飾りの修復は、私がやっても大丈夫なのか?」
クリストフが確認すると、ジェラルドは大きく頷いた。
「今年の社交シーズンに間に合う様に、修復を頼むよ。出来上がったら知らせて欲しい」
「了解した」
クリストフが請け負ってくれたので、ジェラルドは安心して帰れる。謎は残ったままだが。
ジェラルドが退室するため、扉に向かって歩きだそうとした時、執務室側の扉が開いた。アルフィと黒髪の女性が出て来たのだ。
「ご馳走様でした。大変美味しかったです」
アルフィがそう告げ、隣の黒髪の女性も頭を下げた。
「お嬢さんにも気に入って頂けて嬉しいよ。髪飾りの修復依頼なんだ」
ジェラルドはクリストフから髪飾りの入った箱を受け取ると、黒髪の女性に見せた。
「紅珊瑚の簪ですか、素敵ですね」
黒髪の女性はそう答えた。ジェラルドの心は歓喜に震える。今、確かに『かんざし』と言ったのだ。もう我慢は出来なかった。ジェラルドは黒髪の女性を見据え、決定的な一言を告げる。
「君は日本人だね?」
その場にいた誰もが息を呑んだ。
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