プロローグ
師匠は言った、『止めるな』と。
『辞めるな』ではない事は、解った。
綾が、退職願と、社長の息子に渡されたルビーのネックレスを会社に郵送してから、数日後の夜だった。チャイムが鳴り玄関のドアを開けると、数日会っていない彼が立っていた。その時に吹き込んだ外気は冷たく、冬の寒さが身に沁みる。綾の家までわざわざ出向いてくれた師匠には自然と頭が下がった。学生時代から、今まで育ててくれたのに…私は恩知らずだと綾は忸怩たる思いだ。
師匠に出会ったのは、綾がとある美術大学のデザイン科の学生をしている頃だった。興味があった講義を履修して、彫金師という職業を知った。ジュエリーデザイナーとしての一面を持ちつつ、職人として制作する姿に感銘を受けたのだ。あっという間にただの金属が、魅力的な宝飾品になる様子に、綾は魔法の様だと思ったのを覚えている。ただデザインだけをするのではなく、それを自らの手で創り出す。そこに大きな魅力を感じてしまった。
それから、興味の赴くままに技術に関する質問を繰り返し、どうやったら同じような職業につけるのかを熱心に教えてもらう。もう、その時の綾は、彫金師になることを心に決めていた。胸に湧き上がる望みのままに行動し、数回の講義を受けたある日、綾は弟子にしてください!と彼に直談判したのだ。すぐにでもと焦る綾に苦笑いしながら、師匠は『良いよ。でも卒業はちゃんとしなさい』と言った。
職人として育ててもらったのは学生の頃からだから、六年程の付き合いだ。彼と同じ会社に就職し、技術を磨いてきた。
コーヒーの香りと湯気が、ゆらゆらと二人の間に漂っている。一人暮らしの部屋は狭い。
退職願の理由を訊かれたから、なけなしの勇気を振り絞り綾は今までの事を話す。そんな事で辞めるのかと言われる様な気がしたのに、「そうか…」と一言。「戻る気はないか?」と訊かれたけど、首を横に振る。あの時のことを、思い出すだけで鼓動が速くなり、息が浅くなる。自然と手が震えて、「…怖いんです」そう絞り出す様に告げるだけで精一杯だった。
「…気付いてやれなくて、悪かった」
頭を下げる師匠の顔は悔しそうに歪み、目には涙が滲んでいた。こんな姿は見たくなかった。その原因が自分にある事に、胸が締め付けられる。相談出来なかったのは、今の状態が壊れるのが怖かったから…自分が弱かっただけだ。
我慢すれば良いと自分に言い聞かせ続けたのは、会社を辞めたくなかったから…。ずっとここにいたいと思っていたから。
「師匠は、悪くないです」
…だから、そんな顔をしないで欲しい。いつもの様に、自信に溢れた顔で笑って欲しい。あなたは、私が誰よりも尊敬してやまない人なのだから。
「私は大丈夫ですから」
本当は、不安で仕方ないけれど、何とか綾は笑顔を顔に貼り付ける。これが自分に出来る精一杯の虚勢だから…。
「…止めるな」
暫くの沈黙の後、そう言って顔を上げた師匠の目には、強い光があった。綾は思わず気圧されそうな強い思いを感じて、息を呑む。
「誰に何を言われても、お前はお前だ。自分だけは見失うな。続けていれば、いつか、日の目を見る日が来る。お前は俺の弟子なんだから…。だから止めるな」
「…はい、私は彫金師ですから」
師匠は、綾の工具を置いて部屋を出て行った。見送った後も、ぼんやりとドアの前で佇むことをやめられない。自然と頬を伝う温かいものは、別離の寂しさと、自分への情けなさと、師匠の言葉の温かさからくる感謝で溢れ出たものだろう。
涙が止まったら、前を向こう。
それまでは…、今だけは…感情の赴くままに泣きたかった。
『私は彫金師ですから』そうは言ってみたものの、瞬く間に日々は過ぎていく。だけど師匠との約束だけは、守りたい。細々と作品を作ってはネットサイトで売る生活。
アルバイトをしなくても何とかなったのは、師匠が素材を贈ってくれたから。師匠が綾の部屋に訪れた数日後、『石』と書かれた送り状が貼り付けてある荷物が届いた。これは金額にしたらいくら分なのだろうか…。宝石も石には違いないけれど、郵送でポンと届けて良いものではない筈だ。師匠は現金じゃなければ良いと思っている可能性大だが、現金より高価なものなのに!と慌てて電話をしてしまった。師匠曰く、社長に掛け合って慰謝料がわりにふんだくってやった!との事で、綾は恐縮しつつも感謝しかない。
宝飾品は、ただ良いものを作れば購入もらえるわけでは無い。凝ったものは時間がかかるし、値段も高くなる。技術を磨くためにそういったものを多く作りたいのに、シンプルなデザインの方が、売れ筋だったりするのだ。そんなジレンマを抱えつつ、仕事に没頭する。買ってくれる人がいないわけではないし、信用を積み重ねていけばいつか凝った作品も多く売れるはず…。一歩ずつゆっくり前を向いて進んでいければ良い。
そんな日常がこれからも続いていくと綾は思っていた。今日までは。
シンプルな机は木目こそ美しいが、作業机らしく飾り気がない。手元をLEDライトが照らす中、コンコンと槌を打つ音が響く。サイズ棒で時折サイズの確認をしながら、綾は指輪を作り上げた。
次に取り掛かろうと金属板を手に取ったところで、突然光の文字らしきものや図形が自分を取り囲み、視界がぐらりと揺れた。
「え、何!?」
視界が揺らいだのは、自分の身体が椅子ごと床に沈み込んでいるからだと綾は気付く。助けを呼ぼうと口を開くが、困惑と恐怖が入り混じり、喉が張り付いた様に動かない。
強い光に包まれて思わず、ぎゅっと目を閉じる。そして浮遊感と共に、強引に何かに飲み込まれる感覚がして、綾の意識はそこで暗転した。
初めましての方も、お久しぶりの方もよろしくお願い致します!
少し文体を変えましたが、上手くいくでしょうか?ファンタジーは初めてなので、頑張ります!
読んで頂いて、ありがとうございます♪