かえるの恩返し
―あるいは、かえるはいかにして呪いを解かれたか―
既定の就業時刻を3時間ほど回ったところで、康信はついに席を立った。今日はもう、かえる。
今週は死ぬほど忙しかった。確かに、毎月この時期は忙しくしているのだが、それにしてもこの一週間は異常だった。一般によく、死ぬ気になれば何でも出来るなどと言う。確かに、一日二日であれば“死ぬほど”がんばって乗り切ることも出来るだろう。がしかし、それが1週間も続くとなれば比喩表現が現実の物となりかねない。今週中にする予定だった仕事はまだ三割がた残っているが、する予定でなかった仕事は九割がた片付けたので、差し引き六割がた仕事が進んだのだという事にして、今日のところはかえってしまおう。週末じっくりと休んでから取り掛かったほうが、仕事の効率も良いに違いない。
そうと決めたら善は急げ、とばかりに康信は机の上を片付け席を立った。
「お疲れ」
まだダラダラと仕事を続けている同僚にそう言い放つと、逃げるように部屋を飛び出す。向かいの席の同僚が何か言いたげに口を開けたのが見えたが、この一週間仕事らしい仕事をしていない奴の事なんかかまっていられない。多分、仕事が片付いたなら少し手伝ってくれ、とでも言うつもりなのだろう。アイツがこの時間まで残っているのは自業自得というものなのだ。手伝ってやる義理はないどころか、そもそも給料分の仕事をしていないのだ。せめて週末ぐらい働きやがれ、と口の中だけで呟く。俺はもうかえるのだ。
仕事から解放された喜びと、同僚より早くかえる優越感から自然と緩む唇を戒めながら、康信は会社を後にしたのだった。
電車は何の問題もなく、自宅の最寄駅に到着した。康信の家は都心から少し離れたところにあった。最近は随分と開けてきたがそれでも駅の周辺は薄ら寂しく、遊びにくる友人達には「ど」が付くほどの田舎だとか言われることもしばしばだった。しかし、康信は満足していた。交通の便は皆が言うほど悪くはない。家賃は安めで部屋は広め。夜に開いているお店などはほとんどないが、その分静かですごしやすい。買い物にしたって車があれば困ることなど全くない。何しろ、妻がここを気に入ってくれている。ならば何の不満があるだろう。
問題が起きたのは、駅の改札を抜けて少し歩いたところだった。
「あのー、すみません」
突然声をかけられ康信は足を止めた。前には誰もいない。きょろきょろと辺りを見回してみるが、人影らしきものは全くなかった。
「ここですってば」
もう一度同じ声。確かに前の方から聞こえた。しかも随分と低い位置から。ふと見れば、康信の足元に何かがいた。街灯の明かりに照らされたそれは、色といい形といいこれ以上ないというくらい、ガマガエル以外の何者でもなかった。
「なんか、カエルが喋ったような気がしたな。そんな幻聴聞くなんてやっぱり疲れてるんだよな」
康信は独りごちてカエルをよけて歩き出そうとした。
「幻聴じゃないってば。喋ってるんだってば」
足元のカエルは咽喉を膨らまし器用に飛び跳ねて見せた。どうも怒ったらしい。
「ガマのクセに飛び跳ねるとは奇特な奴め。さては、新種か」
そう言ってすばやくしゃがみ込んだ康信は、まだ飛び跳ねているカエルをむんずとつかみ、手を引っ張り足を引っ張り、ひっくり返してお腹をさすり、元に戻してから手のひらの上でまじまじとみた。その間カエルはグェッと苦しそうな声をあげ、びろーんと言いぐいーんと言い、くすぐったいとひとしきり笑った後、澄ました顔で手のひらの上に鎮座した。
「むむ。四六のガマとは珍しい。しかも腹にハッチがないところを見ると電気ヒキガエルでもないようだ。お前、筑波の山奥からこんな東京の田舎まで一体全体何をしにきたんだ」
「なにを言ってんだ。ガマガエルがヒキガエルの俗称だと知っているような人が、カエルの前肢は基本的に四本指だということを知らないなんて、カエル通が聞いて呆れる。前肢が五本指のカエルなんて日本じゃ奄美大島あたりのオットンガエルくらいだ」
「誰がカエル通か。確かに俺の奥さんはカエルが好きだが、俺はそんなに好きじゃあない。それより今なんていった?カエルの前肢は普通四本指だと?」
「ああそうだよ。いいかい、カエルっていうのは前肢に四本後肢に五本指があるのが普通なんだ。ガマの油売りの口上は、そこいら辺にいる普通のガマガエルにありがた味を持たせるためにデッチ上げたものなのさ」
「なんてこった。五六のガマってのが実はいないのか。騙されたぜって待てよ。今、後肢は五本って言ったな。やっぱり四六のガマは特別なものじゃないのか」
「それが素人のアカサタナ。ガマガエルの六本目は実は指のように見える突起なんだ。だから四六のガマってのはごくフツーのガマガエルのことなのさ」
「うるさい、ウンチクたれのハマヤラハ。突然俺に声かけたのは、自分のカエルまめ知識を披露する為か。それだったら悪いが、俺はかえらせてもらう」
康信はそう言って手をはなした。カエルは落ちまいと慌てて康信の右手の小指にしがみついた。
「わわ、待って待って。実はあなたに頼みがあったんだ。あなたが変なことを言うからつい脱線ちゃったんだ」
「何だ俺のせいか?まあいい。カエル豆知識を教えてくれた礼だ。簡単な頼みなら聞いてやってもいいぞ」
カエルを持ち直した康信はそのまま顔の高さまで手を持ち上げ、その目を覗き込んだ。カエルは、えへんと器用に咳払いをし、語りだした。
曰く、彼は名をゲロックス・ガマ・イースタントードといい、この世界とは平行関係にあるカエルの国の王子だそうだ。この世界へは見聞を広める為に宮廷魔法ガエルの力を借りてやってきたのだが、実はその魔法ガエルは反体制派の手先で、彼に呪いをかけてこの世界に置き去りにしたという事らしい。そして、その呪いの力によってカエルの国の王子としての力は封じられこんな醜い姿になってしまったのだと言った。
康信は無言でゲロックスを大きく振りかぶった。
「やめてやめてやめて。一体何が気に食わないんだよう」
「全部」
そういいながら左足を高くあげる。
「ううそじゃないよう。ちゃんと証拠を見せるからお礼もするから」
お礼の言葉に康信の投球モーションが止まる。やや待った後目だけでゲロックスを見る。
「礼とは何だ?」
「絶対損はさせないから。お願いだから協力してよう」
そのつぶらな瞳に大粒の涙を湛えながら懇願するゲロックスを見て、康信は少し可哀想になった。カエルのお礼というのも気にかかることだし。
「まず、証拠とやらを見せてもらおうか」
「私の呪いを解けば本当の姿が見れて、あなたも納得するでしょう。それが証拠です」
もう一度投球モーションに入る康信。今度はセットポジションから。
「人が土下座して頼んでるのに何をするんだ。弱者を苛めるのがあなたの信条ですか」
「その格好はカエルの基本姿勢だろうが。それに、呪いを解かなきゃ証拠が見れないなんて、詐欺もいいとこだ。成敗してやる」
「お礼はいらないらしいね」
ぴたっと止まる康信。
「まあ冗談はこのくらいにして、本題に入ろうじゃないか。その呪いとやらがどうすれば解けるのか教えて欲しい。それとまあ、お礼とはどんなものなのか、もね」
「全くゲンキンなんだから。お礼については後でゆっくり話すとして、呪いの解き方は古代から受け継がれる伝統的な方法があるでしょう?アレですよ」
そう言ったゲロックスの目がキラリッと光った。
「む、お姫様のキスって奴か。しかし、俺は生憎と男だ。ということは、さてはうちの奥さんが狙いだな。そういう魂胆だったらお断りだ。たかがカエルとはいえ、いやカエルだからこそ奥さんの唇をくれてやる訳にはいかん」
「まま、早まってはいけません。キスというのは正解だけど、お姫様だの美女だのというのは欲求不満な男達が作ったフィクションです。だって、そんなだったらみんな喜んで、それこそ押し倒してでも唇を奪いに行くに決まっているじゃないですか。そんな嬉しいことを、呪いを解く鍵にする訳ないじゃないですか」
なるほどその通りだと康信は妙に納得をした。では誰のキスが必要なのかと聞こうとして、すでに答えが出ていることに気が付く。ゲロックスの顔を見ると、彼は大仰に頷いて同意した。
――同性、男、中年親父――
これに『冴えない』がつけば完璧だと、したり顔のゲロックス。康信は空を仰いだ。
「中年にはまだ早いんだけどなぁ・・・・・・」
「大丈夫。それぐらいなら譲歩できるから」
遠い目をする康信にフォローにも何もならない発言をするゲロックス。そんな意味ではないと怒鳴りそうになるのを理性で押さえ込み、替わりに康信は、獲物を見つけた蛇のように睨みつけてやった。
その時、ふとある疑問が頭をかすめた。
「なあ、何で俺なんだ」
「袖擦り合うも他生の縁って言葉、知ってます?」
さらっと答えられてしまった。つまりは誰でも良かったということか。いまコイツを地面に思いっきり叩きつけたらどんなにか気持ちがいいだろうと、康信は想像した。想像の中でのその行為は本当に素晴らしいものだった。想像するだけでこんなに素晴らしいのだから、実際に実行に移したらとても幸せになれるだろうということは容易に想像できた。がしかし、康信はついにそれを実行に移すことはなかった。
なんだか、一気にどうでも良くなってしまった。こんなことはサッサと終わらせて、奥さんの顔を見ながら一杯やりたいと思った。はっきり言えばヤケクソになっていた。
「わかった、早くやっちまおう」
そういって康信はゲロックスの両脇を両手でつかんだ。あたかもハンバーガーにかぶりつこうとする時のように。
「ああ、まって」
とはゲロックス。一体全体今度は何だと眉をひそめる康信にむかって、お礼を決めてないと言った。
「そんな事もうどーでもいいよ。」
「良くはないです。カエルの王子としての沽券にかかわります」
「カエルの股間のことなんか知ったことか。俺は一刻も早くかえりたいんだ」
「なるほど、早く家にかえりたいのですか。判りました。簡単なことです。任せてください」
「そんなこと言って、実は会社が潰れました、首になりました、これで会社に行く必要すらありませんって落ちだったら御免だ。お礼なんかしなくていい。とっとと終わらせて、俺はかえる」
「ご心配はもっともですが、大丈夫。カエルの国とこの世界は互いに影響しあってます。私の力を持ってすれば、あなたの会社の人事異動を操作する事など造作もないです」
ほんとかなぁと、さらに怪訝な表情を強めた康信だったが、一刻も早くこのバカらしい茶番劇を終わらせたい一心で、じゃあお願いするよ、といった。
任せてくださいと瞳を輝かせたゲロックスは、両手を胸の前であわせ目を閉じた。気分を出すんじゃない、と口の中だけで毒吐いた康信は目を閉じずに、恐る恐る口づけた。
その時、あたりは煙に包まれた。ぼん、という小気味よい破裂音と共に。
軽くむせ込んだ康信が手元を見ると、晴れ行く煙の向こうにすっかりと姿の変わったゲロックスがいた。
まず、真紅のマントを着ている。首のところに純白のファーがついている高級そうな奴だ。そして彼の頭には、絵本に出てくる王様がかぶっているような、しかもおそらくは純金の、冠がちょこんとのっかっている。もはや普通のカエルとは思えなかった。どこからどう見ても、いたずらっ子に王様の仮装をさせられたガマガエルにしか見えない。
康信は、今度こそゲロックスを地面に叩き付けようとした。その気配を察してか、彼は器用に身をよじり康信の手を逃れると、すとん、と地面に降り立った。二本足で。
「ありがとう、これで国にかえれます。あなたは大恩人です」
そういってゲロックスは、深々と、芝居がかった礼をした。そして、さっとマントを翻すと風に吹き飛ばされる木の葉のように、その場から姿を消した。
「お礼、楽しみにして下さい。」
そんな言葉が何処からか聞こえたような気がした。
康信は肩をすくめると、我が家を目指して歩き出した。決して振り向くことはしなかった。
しばらくして、康信の会社では異例の人事異動が行われた。康信の同僚の、大して仕事をしない男は閑職に回された。替わりに入ってきたのが、年下ではあるが仕事ができる奴だったので、康信の負担が軽減された。その新人と息が合った康信は、次々と仕事の改革に取り掛かり、効率化に成功した。その功績が認められ臨時ボーナスが出た上に昇進も早まるのだが、それはまた別の物語。
それはともかく、そんなこんなで康信は残業もせず、早く家にかえれるようになりましたとさ。
とっぴんぱらりのぷう