紅い月、夜の城。
その夜の月はシェードランプの様な淡い赤だった。
険しい峠道を上ると城の尖塔が現れる。それは満月に照らされて影を落としていた。
ざわざわ、
ざわざわ、と
木枯らしが樹々の枝葉を揺らす。
それはまるで樹々がひそひそと私の噂話を立てている様な錯覚におちいらせる。
法衣に身を包む私の姿は、なるほど山道を進むには似つかわしく無い。旧い大樹達が眉をひそめるのも頷ける。
やがて私の足は固く閉ざされた城門の前で止まった。秋の夜気に身体が震える。
重々しい鉄扉を前にすると、つかの間途方に暮れた。
人一人で開けられる様なものでは無い。
城門から城まではそれなりに距離があるのが見てとれる。
……はたして扉を叩いて聴こえるものだろうか?
私が躊躇している内に重い音を立てて城門が開き始めた。
城門を開ける者の姿は無い。
私たった一人に対して巨大な鉄扉は大きく開かれた。
ざわざわ、
ざわざわ。
城門の中に足を踏み入れる際、またも森の古老がざわめく。
私を引き止める様に。
意を決して足を踏み入れた私の視界は暗かった。月明かりが前庭に城の影を落とし、暗黒の異界へ入り込んだ様な思いに囚われる。
心臓の高鳴りに足がすくむ……
……と、炎が。
赤い炎が城の入口へと続く道に沿って、次々に列をなして燃え立った。
見れば松明立ての明かりだ。
私には誰が火を点けてまわったのかも解らなかった。目に見えない者の仕業なのか、はたまた城の住人が噂に聞いた風の様な動きで点けてまわったのか。
赤い炎の案内で、城の扉にたどり着くと、叩く前にまたも扉が開く。
私は聖印を握り締め、足を踏み入れた。
広間は黒を基調にした大理石の造り。
暗い荘厳さを感じさせる広間のあちらこちら、幾人かの集団が思い思いに硝子の杯を手に談笑をしている。
皆が皆、大理石の広間に溶ける様な黒い衣装に身を包み、その肌は蒼白く仄かに光るかの様だ。
ただ。
滑らかに濡れた唇だけが……
……紅い。
黒と白だけの世界にあって、鮮やかな紅が官能的に歪む。
私を無視した様に振る舞いながらも、秘かに視線を絡めている。
笑みに歪んだ唇は紅い下弦の月。
豪奢な衣装に身を包み、高貴な立ち振舞いをしながらも、この広間に集っていたのは牙を隠した肉食獣の群れだった。
私は一歩も動けなくなっていた。
冷気に包まれる広間の中で、汗が滴るのが感じられた。
広間に足を踏み入れて僅かな間しか経ってはいないだろう、しかし私には一年も立ち尽くした様に感じられた。
狼達の寝床に間違って潜り込んだ兎の様に、私は動けなくなっていた。
「ようこそ!」
階上から声が響いた。
見上げれば十人程の蒼白い者達を従えた若者。話に聞く城の主だろう。
取り巻き達が黒一色の姿なのに対して、唯一人白い装束を纏っている。誰がこの肉食獣達の長、魔物の主であるかを示す様に。
彼は肌のみならず、豊かな髪も、柔らかな瞳も白かった。
そのにこやかな唇だけが、あ……
……あ、あ、紅い。
あぁ……
「貴女が麓に赴任された司祭殿ですね?事前に報せてもらえば迎えの馬車を用意したのですよ」
あ……あ……。
城主の一言一言が身体中に染み込んでいく。
「さ、こちらへ。ろくなもてなしも出来ませんが、麓の様子などお聞かせください」
城主の誘いに促され、私の足が前に出た。
霞のかかる思考。
私の眼には城主の紅い唇だけが映る。
城主が言葉を紡ぐ度に滑らかに動く紅。
私の耳は城主の声をまるで大神殿に響く楽の音の様に聴いている。
「…に来訪され……御用…何でしょう?」
「ら……来訪?」
「えぇ、司祭殿。何かありましたか?」
「あ……あ…赤児が……拐われ…て」
「……なるほど、陳情にいらしたのですね」
ぼんやりとながらも私の頭に、この城に来た理由が思い出された。少しづつはっきりしてくる。
麓の村で赤児が拐われたのだ。
村の者達は領主の手下が拐ったのだと噂していた。
その真偽を質す為に一人峠道を進んで来た。
「すぐにお調べ下さい!赤児の両、親…が……」
「不安に感じている、という事ですね司祭殿」
「はい領主様…どうかお調べ……お、おし?不安……ふ」
城主の白い瞳が私の視線と絡み合う。
私はまた彼の紅い唇だけを……
「あ、あぁ……あ、あ、あ…ああぁ!」
私の喉が淫らな喘ぎを響かせる。
領主様の唇が…首筋に触れるたび、微かな痛みと共に快楽の波が私を襲う。
全身の力が抜け、村への献身も神々への信仰も忘れ、領主様の紅い唇をせがむ私がいた。
……紅い。私の血で更に紅くなる。
翌朝、渇きと共に目覚めた。
「朝食の用意が出来ました」
侍女に案内されて席につく。
全身の気だるさに目眩を感じるほど。
空腹感で何も考えられなかった。
「さ、どうぞ」
私の両手に渡されたものに口をつける。
一口で夢中になった。
貪る。
貪る。
貪る。
貪る。
抱えた両手はどんどん軽くなっていった。
私は城門の前にたたずんでいた。両腕に軽くなったものを抱えて。
「……ではお気をつけて」
侍女に見送られ峠道を下りていく。
私は他人事の様に感じていた。
「御報告します。新任の司祭は予定通り自らの行為を告白、領民どもの手で火炙りに」
「その様な些末な話はいい。それより赤児を拐った愚か者の首をはねろ。領民の前に晒して『正義』が行われた事を示すのだ。それでこの騒動も収まる」
「直ちに、御主人様」
領主は夜空を見上げた。
昨夜より少し欠けた月が赤く紅く────
秋の夜空に冷え冷えと彼の城を照らしていた。
───────終