輪廻
私はいた。
今、『5006回目の死』を迎えていた。
私の『自我』は、罪を犯し、その償いのため、転移していた。
過ちは簡単には償えず、まだ63億回、死を迎えなければならない。
永遠の、螺旋。
そこをグルグル回っていた。
現在の私は(もう死ぬのだが)、佐々木大悟と言う。
すでに自分に与えられた名は、本当の名は、記憶から消えてしまっている。
たしか、何か『物』と同じ名前であったのだが、お世辞にもいい名前とは言いがたかった。
今、覚えているのはそれだけ。
佐々木大悟の記憶。
ここは病院のベッド。
何度死を体験しても慣れるものではない。
私は(多分)目を閉じているのに、天井が普通に見える。
小さな四角い天井を囲むようにして、青っぽい服にマスクと帽子をかぶった人たちが、私を見下ろしている。
すごく必死な顔。
音は、何も聞こえない。
海の中に3メートルくらい潜って、身体の力をふっと抜いた、そんな感じだ。
何か身体が軽くて、目の前の光景をただただ、口を開きっぱなしにして見続ける。
この不思議な感覚が続いた後、佐々木大悟は死んだ。
視界が暗闇と化す。
その暗闇は怖く、なぜか怖く、光がない。
そして、ふと、
「おかえり」
と暗闇に声をかけられる。
その言葉に安堵を抱きつつ、
「いってらっしゃい」
またすぐに出発となる。
『身体』を失った私が『身体』を受け取るのは、まだ先。
自我だけとなり、ほんとに何もない『時』を過ごす。
その『時』は、2年くらい。
次の私が入る人にもよるだろうが、どれだけ遅くても4年。
その間、気が狂わないように必死だ。
赤ちゃんは本能のままに生きている。
だから、自我なんて必要ない。
私は必要とされない。
すなわち、『無』の『時』を過ごす。
やっと、『身体』を手に入れた。
今の私の名は……いや、ただの63億人のうちの1人。
だから、私、でいい。
身体を手に入れたとはいえ、やることはない。
ただ、他の人たちと同じことをするだけ。
何か1つ、違うと言えば、前世の記憶があるということ。
これがどれだけ苦しいことか、分かるだろうか?
絶対に分からない、断言できる。
死の恐怖、正確には不思議、を体験したものにとって、死がどれだけ『嫌』か、分かってもらっては困る。
死は『恐い』のではない、『嫌』なのだ。
例えるとすれば、予防接種を受ける前、痛いから『嫌』、痛いけど『恐い』ではない。
目の前に狂気に満ちた人が刃物を持ってこちらに向かってきて、足を刺した。
これは、痛いが『恐い』、『嫌』ではない。
こんな感じ。
大人となり、年をとり、そしてまた子供として戻ってくる。
それは大人から子供という大きなギャップがありそうだが、そうでもない。
なんども『死』を体感したから分かる。
老いるにつれて、幼稚になってくるのだ。
だから、次に子供となるとき、思考が変わらない。
今の『私』は、佐々木大悟が生前、仲の良かった友達だ。
今、仮に住んでいるのは都心から離れた山梨。
本当の私は、北海道にいた。
ときに、海外へも『自我』としていったことがある。
そして日本、山梨へ戻った。
なぜ、私がこんな『自我』となってしまったのか。
それは、世界の人々全員がつながっている、ということを『私』に知らしめるため。
『私』にそうしよう、とした『私』が、咎を受けた。
結果、『私』は今の『私』となった。
すなわち、『私』はもともと、『私』ではない。
これが、以前の『私』の犯した罪。
以前の『私』の記憶などほとんどない。
徐々に消えていってしまう。
儚き、悲しいこと。
これも、『償い』の一部。
また、死を迎えようとしている。
今回の死は、早い。
交通事故だろう、担架に乗せられた時には、あの感覚に浸っていた。
そして、『闇』。
私は『5007回目の死』を迎えた。
そして、おかえり、いってらっしゃい、と同時に、『5008回目の死』が約束される。
私は回っている。
抜けることの出来ない螺旋で。
私はいた。
螺旋に入る前。
私は償いを終えたあと、『私』となれる。
私は償いを終えたあと、すべてを取り戻せる。
自分も、身体も、心も、記憶も。
そう、信じている。
だから、輪廻する。