こま姫、悩む
いつも屋敷内にいるのはよくないということで、こま姫は下女のお巌に連れられて浅草観音に詣でた。
木々や草花が若々しく瑞々しい境内は、いつものように人と鳩で溢れかえっている。
お巌が用意した日傘をさして歩むこま姫の姿は美しいの一言に尽きた。
もともと龍造寺という家柄の姫であるということもあるが、彼女自身、故郷の佐賀においてはよく噂される美少女であったからだ。
ただし、かつての主君・龍造寺隆信の孫であるということもあり、積極的にはしたない付文を送りつけたりする猛者は藩内におらず、ある意味では禁忌に近い扱いを受けていた。
お参りを済ませて、仁王門から雷門を歩き広小路に出て、大川橋を渡った。
あとは彼女の住む屋敷へと戻るだけだ。
「駕籠を呼んでまいりますね」
お巌はひと声かけると通りに出ていった。
歩いて帰るにはやや遠いからである。
その間、姫はぽつんと突っ立っているだけであった。
彼女にとってはこの江戸という町はあまり住みやすい土地ではない。
ごみごみしていて、なんとも風通しが悪すぎる。
砂塵をあげる烈風でさえもなんとも息が詰まるように覚える。
(やはり、佐賀の方がいいわね)
田舎者と言われたらそれまでだが、こま姫の胸中ではさほど江戸に思い入れはなかったのである。
さすが天下人の拓いた町らしく所々で目を引くものはあったが、それもそこまでだ。
珍しいものはすぐに見飽きる。
何よりも臭いが良くない。
江戸前の水が腐ったような臭いが常に漂っている気がするのだ。
(猫乃介がいつも気だるげなのは、そのせいかしら)
彼女に小さなころから仕える下人の忍びは、佐賀の武士にもあまりいない野生の剽悍な気配を持っている。
あんな小姓のような見た目のくせに、時折放つ気配は数多いいくさ人の武士たちに伍するほどである。
ほとんどの場合、日向ぼっこをする猫のように怠惰で呑気な振る舞いばかりで通しているせいでわからないだけで。
ただ、そのだるそうな態度は江戸に来てからはさらに酷くなったと思う。
絶対に必要だから仕方のないところだが、猫乃介を我が儘をいって故郷からつれだしてしまったことは、こま姫としてはなんとも慙愧の念にたえないのであった。
「姫様、駕籠を呼んで参りました」
「ありがとう、お巌」
二丁の辻駕籠を呼んできたお巌の言葉を受けて、こま姫は現世に戻った。
彼女はもう江戸にいる。
父上の仇を討つという大義のもとに。
だから、もう故郷への郷愁と家臣への慙愧に囚われている時間はない。
……屋敷に戻ると、門の前に一人の武士が立っていた。
何度呼んでも家人が顔を出さないので困っていたのだろう。
お巌が話しかけた。
「どうなさいました、お侍様」
「……おまえはこの屋敷のものか?」
「はい、そうですが。あなたさまはどちらの家中の方でございますか?」
「わしか。わしは久納殿の知り合いだ。こちらに遥々佐賀より龍造寺の姫君が参っているというので、ご機嫌をうかがいに参上したのだ。なに、怪しいものではない」
すると、武士は二丁の辻駕籠を見て、もうひとりがそこにいることを悟ったのか、
「そちらにおわすのは、こま姫さまでございましょうか」
と聞いてきた。
こま姫としては特に否定する理由もないので、「その通りですわ」と答えて、駕籠の外に出た。
武家の娘がこのような門前で対応するのはやや慣例に反するところもあるのだが、下人と下女が一人ずつしかいない姫である。
屋敷で対応するともいえない。
「おお、又一郎殿の御遺児にお会いできるとは光栄でございまする。拙者、江戸屋敷詰めの堀内一学と申します。ご尊顔を拝せて在り難き幸せ」
「……堀内殿。申し訳ございませんが、わたくしがこの江戸にいることを久納殿にお聞きになられたのですか?」
「その通りでございます」
「では、今すぐに忘れてはもらえぬでしょうか。わたくしはある使命を帯びてこの町にやってまいりました。ゆえに、こまが江戸にいることはできる限り秘めておきたいのです。……お願いできますか」
「はは、それはもう」
平伏せんばかりに堀内は下手に出てきた。
江戸屋敷詰めということならば、佐賀藩の家臣である。
もともと佐賀藩自体がこま姫の祖父のものであったのであるから、かつての主筋に当たる。
遜るには十分な理由だ。
「……で、堀内殿。そなたは何の用向きがあって、このわたくしに会いにきたのですか?」
「それは先ほど述べたように、単に姫のご機嫌をうかがいに参っただけでございまする。わしも龍造寺に連なるものであったゆえ、かつての忠義の心が疼きましたゆえに」
「そうですか。わざわざ、こんな江戸の町の外れまでご苦労様でした。それでは茶の一杯も設けましょう。……お巌」
「いえ、振る舞いは結構でございます。お元気な様子を拝見できただけで、わしの望みは叶いました。これにて失礼させていただきます」
「そうですか」
堀内はこま姫の誘いを断ると、そのまま辻駕籠が去ったのとは逆方向へと歩き出した。
もう引き留めるにも機会を逃し過ぎた。
「では、屋敷に戻りましょうか。少し、疲れました。ぬるめのお茶を用意してちょうだい」
「はい、姫さま」
しかし、去っていく堀内一学を見送りながら、こま姫はやや疑問を感じていた。
まず、堀内の喋り方には佐賀人特有の訛りがなかったことである。
江戸勤めが長いものならば、上方の者どもに侮られることがあるとしてお国訛りを綺麗に消して見せるものもいない訳ではないが、同郷のこま姫と接する時でもまったく感じさせないというのは徹底しすぎている。
まるで、佐賀訛りを知らないもののようだ。
その他にも彼にはおかしな点があった。
(なぜ、駕籠かきたちとは逆の方向に向かうのかしら)
佐賀藩の江戸屋敷は麻布にある。
少なくとも途中までは駕籠かきたちと同じ方向に行かねばならぬはずだ。
わざわざ反対方向へ行く必要性は皆無に近い。
「江戸の地理を知らないのかしら」
だが、こま姫の頭に浮かんだそれらの疑問はすぐに消えてしまった。
基本的に疑い深い少女ではないだから、それも当然のことであるが。