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猫の字一つ

 鍋島元茂は、佐賀藩の中でも三支藩と呼ばれている小城藩の江戸屋敷に住んでいた。

 元々鍋島家の長男であったにもかかわらず、父である勝茂が関ヶ原の合戦で西軍についたことにより、徳川家康の姪と結婚をせざるをえなくなり、その間に生まれた忠直を嫡男とすることになったことで家を継げなくなった男である。

 元和三年(1607)に支藩の一つである小城の初代の支藩主となってからは、本藩の江戸上屋敷から出て、自分の屋敷を所有するようになっていた。

 屋敷に戻ると、元茂はすぐに一人の男を呼んだ。

 祖父の直茂から与えられた傍侍の一人であり、もともと龍造寺に連なるものであった。


「なにごとでございましょうか?」


 戻ってきたばかりの殿様にいきなり呼びつけられれば、誰でも疑問を持たざるを得ない。

 元茂は近習を下がらせ、男に聞いた。


「おまえ、又一郎殿の遺児・こま姫について知っておるであろう?」

「……こま姫さまでございますか? はっ、殿もご存知のように、手前はもともと龍造寺一門の端に連なるものでござりますゆえ、姫さまのことについてはよう存じております。姫さまのことで手前に何か?」

「こま姫については、いい。知己のものが大勢おるようだからな。わしが知りたいのは、かの姫についているという忍びのことよ。―――おまえは知っておるか?」


 男は眉間にしわを寄せた。

 殿さまのいうことをよく吟味しているのだ。


「忍びでございますか? もしや、猫乃介ともうす下人のことでございましょうか?」

「それだ。確か、猫乃介でよいはずだ。知っておるようだな」

「面識はございませぬが、噂ていどならば幾つか」

「……噂か。佐賀に忍びが残っているとは、わしは聞いたことがないぞ」

「佐賀に忍びがいないという訳ではございませぬ。龍造寺隆信さまが柳川城に立て籠もった玉鶴姫に差し向けた忍びなどのように、かつての龍造寺は数十人の手際のよい忍びを飼っておりました。その猫乃介というのは、その裔でございます」


 元茂にとっては初耳だった。

 もっとも十二歳の頃には人質として江戸に送られ、成人するまでほとんど佐賀に帰らせてもらえなかった彼に、故郷の事情など把握できているはずもない。


「で、腕の方はどうなのだ? わしは忍びというものには出会うたことがないが、まさに巷で人外の化生などと言われておるような化け物なのか?」

「残念なことに、手前の知る限り、龍造寺で飼われていたものはかつての戦国の世に跋扈した忍びとは程遠い、ただの身軽な下人でございまする。猫乃介も、腕を見込まれて姫の下人となった訳ではありませぬし……」

「では、どうして、今生では珍しい忍びが竜造寺の姫に仕えることになったのだ?」

「それは……」


 元龍造寺一門に仕えていた男は、これまでに見聞きしたことのある話を、殿さまに向けてわかりやすく語った。

 そもそもの原因となったのは、龍造寺又一郎の屋敷の奥でこま姫が侍女と戯れていたときの出来事である。

 どこからか入り込んだらしい一匹の鼠が、彼女たちのいた部屋を横切ったのだ。

 鼠にしてはブクブクと肥えた、いかにも人家の屋根裏に潜んでいそうな鼠であったという。

 こま姫は一目見ただけで腰を抜かし、侍女にしがみついた。

 鼠そのものはすぐに消えてしまったというのに、醜悪な生き物を目の当たりにしてしまった幼い童はただただ震えあがったという。

 こま姫はそのまま自分の部屋から一歩もでなくなってしまった。

 彼女の部屋も隅々まで白い紙で覆われ、二度と鼠が入れないように工作されてしまった。

 これに手を焼いたのは父親の龍造寺又一郎である。

 外から何度声をかけても幼女は顔を出すことはないし、仲の良い侍女が食事を運ばない限り、食べ物すら口にしようともしない有様であった。

 このままでは姫が一生部屋からでてこないのではないか、と誰もが頭を抱えた時に、又一郎の母であるまさがある提案をする。


『わたしに考えがある。―――こまの身の回りの世話をするために下人を一匹飼うのだ』

『例え下人をつけたとしても、こまが鼠ごときに怯えている状況が改善されるとは思いませぬが……』


 又一郎の反論はもっともであったが、政は歯牙にもかけなかった。

それどころか、二日も経たぬうちにどこかから一人の少年を連れてきたのである。

年の頃は十ニ・三。

こま姫よりも五つほど年上であることは誰の目にも明らかであった。

政は少年を皆の前に連れ出し、


「今日より我が家―――いや、こまに仕えさせることにした下男である。名は猫乃介。鼠族を嫌うこまのお守りに相応しい名であろう」

「母上、いきなりそのような得体のしれぬものを雇うなど……」

「素性はわたしが良く知っておる。だから良いのだ。……あと、この猫乃介は龍造寺に代々仕える忍びのもののすえであるが、おかしなことにこき使うことはこの私が許さぬゆえ、肝に銘じておくが良い。このものに下知を下していいのは、わたしと女主人となるこまだけであるぞ」

「……しかし、母上。そのような勝手な真似をなされては……」

「うるさいぞ、又一郎。―――よいな、猫乃介よ。そこの不肖の息子の言い分でさえもおまえは聞かずともいい。おまえはわたしとこまにのみ忠義を尽くせばよいのだ」

「は、お政さま」


 と、紹介し、家中のものの度肝さえ抜いたのである。

 こうして、佐賀では珍しい忍びの奉公人が誕生した。

 しかも、稚き姫に仕え、その命令のみしか聞く必要がないという特別な立場を許されているのである。

 事情を知っている龍造寺の関係者はみな仰天したという。

 これが忍びの猫乃介がこま姫に仕えることとなった逸話である。


「―――とまあ、これが、私が知る限りのこま姫と例の忍びの話でございまする」


 臣下の説明を黙って聞いていた元茂はむうと唸った。

 佐賀の女が強いことは彼も良く知っているが、龍造寺又一郎の母であるお政の行動力には一目置くものがある。

 きっかけそのものは可愛い孫娘のためであろうが、どこからともなく忍びの子供を連れてくるなど普通の武家の奥方にできるものではない。

 さすがは龍造寺政家に嫁いだ女だ。

 一筋縄にはいきそうもない。


「では、その忍びの素性については、そのお政しか知らぬということか?」

「拙者の知る限りでは」

「おまえはその忍びについて、何か噂の類いでも聞いたことがないのか?」

「まったくもって」


 元茂としては、剣の師匠である柳生宗矩が教えてくれた、「こま姫が鍋島勝茂の命を狙っている」という情報が確かであるのならば、こま姫には何事かの算段があるはずと考えていた。

 すぐ傍に飼いならした忍びがいるとしたら、それを手駒として用いて、暗殺を企むというのが一番手っ取り早い。

 だが、今の聞き取りによると、くだんの忍び自体はそこまでの腕利きではなさそうだ。

 少なくとも警戒厳重な江戸本屋敷に潜り込んで、父・勝茂を討つことができるようには思えない。

 ただ、名前に「猫」が入っていたから、鼠嫌いの幼女のお守りに任じられただけのようだった。

 素性が得体の知れないのは、佐賀では珍しい忍びだからだとしか言いようがない。


(しかし、その程度の忍びだけを連れて、こま姫が江戸まで上がってきたというのはまさに解せぬ。何か裏があるのではないか……。例えば、龍造寺一門による我ら鍋島の追い出しが始まっていることを伏せるための、体のいい囮役であるなどの……)


 まだ経験の浅い元茂にとって、これはすぐさま答えをだすことのできない難問であるようであった……。






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