佐賀藩の混沌
江戸時代における佐賀藩は、常に鍋島家との関わりで語られている。
ゆえに、佐賀藩とは、イコール鍋島家のことだと言われてもほとんどのものが納得することだろう。
だが、もともとあの一帯を龍造寺家のものであった。
僧侶であったにも関わらず還俗させられて龍造寺家の盟主となった、一代の英傑である龍造寺隆信によって最盛期を迎えた名家である。
しかし、隆信のあとを襲った龍造寺政家の頼りなさと、その隆信自身の死去によってその隆盛は終焉を迎える。
天正十二年の春に、島津義久の弟・家久の三千の兵を討つために、最低でも二万五千以上の兵を率いたにもかかわらず、隆信は戦死してしまうのである。
その際、別動隊を率いていた政家は有利な形勢で戦いを進めていたにもかかわらず、本隊の壊滅と隆信戦死の報が入るやいなやさっさと逃げ出してしまう。
彼と共に軍を率いていた鍋島直茂は、自殺すら覚悟する敗戦ののちに、辛うじて落ち延びることに成功したほどであった。
この戦いの結果、政家の求心力は低下し、同時に隆信への忠義も薄れていった。
ただ時代はまだまだ戦国の世である。
強い統率者の存在が不可欠な時代であったが、政家の代わりに龍造寺藩を支えることができる人物などたった一人しかいなかった。
それが先ほど、自殺さえ覚悟したという鍋島直茂である。
もともと隆信の家臣団の中で常に先鋒役を務めるという武勇で知られた武将であり、かつ、政治においてもそこそこの能力を有していた。
政家では自分たちの将来が危ういと睨んだ龍造寺家の重鎮たちは、嫌がる政家を黙らせて、直茂を執権として両国の経営に当たらせることにしたのである。
それだけでは収まらなかった。
九州にまで手を伸ばし始めていた豊臣秀吉によって、政家は強引に隠居させられ、五歳の藤八郎高房が当主とさせられたのである。
この段階で、政家と直茂の間には露骨なまでの差が開いた。
続く朝鮮出兵にも、二人の武将は参加しているが、圧倒的なまでの直茂の手柄に対して、政家はほとんどいくさにも参加していないという始末だった
すでに二人には主従とはいえないほどの力の差が生まれてしまっていた。
そして、関ヶ原の合戦が過ぎてから、高房は従五位下・駿河守に任官され、江戸に出て二代将軍徳川秀忠に仕えることになる。
この出世そのものが直茂の尽力によるものではあった。
もっとも、高房自身は藩主でありながら江戸まで追放されているような状態に満足できるはずもなく、欝々としたものを抱えていたようである。
それが慶長十二年(1607)に爆発した。
高房は突然妻を切り捨て、その勢いで切腹してしまったのである。
命だけはとりとめたものの、検視としてきたものの目には高房が精神に異常をきたしていることは明らかであった。
そのため幕府は高房の佐賀への帰郷を許した。
江戸にはすでに直茂の息子である勝茂がおり、佐賀藩を黙らせておくための人質としての役割を解いても問題はなかったからだ。
むしろ、その当時の幕府にとっては、龍造寺一門の高房よりも、藩の実権を握り、関ヶ原で西軍についた鍋島直茂を抑え込む方が重要であったことから、その方が良かったということもある。
佐賀についた高房は、自分の一族である龍造寺一門がもろ手で歓迎してくれるものと疑っていなかった。
現実を知らぬ若者の夢想といってしまえばそれまでであるが、彼はそう頑なに信じ続けていた。
だから、佐賀に戻る少し前に催された馬術大会において、必要以上にはしゃぎまわり、切腹の際の傷が開く結果を招く。
その夜に高房は死に、嫡子の死に落胆したのか、一月後に後を追うように政家も死ぬ。
ここで龍造寺家の本流は途絶えた。
そして、慶長十八(1613)年に鍋島佐賀藩が確立する。
この物語は寛永九年(1632)、江戸から始まる……