部屋から出たマリー
深夜の実験棟はどの部屋も煌々と明かりが灯っていた。人影は少なく、時折誰かしらが夜食を調達しに別錬の食堂へと歩く姿がちらほらとある程度だった。
「おや、こんな時間までいたのかい。もう帰ったかと思ったよ」
実験準備室に入ってきた博士は、実験器具の前で腕を組み頭をひねる人型アンドロイドの助手を見つけてそう声をかけた。
「ああ、博士。実は考え事をしていまして」
人とは見分けのつかない合成音声を発する助手に、博士は自分に何か手伝えることはないかと申し出た。なんといってもいまや博士のチームで一番の活躍をしているのはこの助手だった。この助手に研究テーマを与えればいつも何かしらの成果が上がる。実によく働く助手だった。
「ありがとうございます、是非博士にもご助力願いたいのです。マリーの部屋という思考実験がありまして」
助手の嬉しそうな声色を聞いて博士は軽く目頭を押さえた。また再発した。この助手は研究熱心ではあるものの、いささか試行意欲が高すぎるのが問題だった。いつも考えなくてもいいような、それこそ哲学の問題に入れ込む困った性格の持ち主だった。
「あー、またかい。いや仕事が終わった後に何をしようと君の勝手ではあるがね。いやまあいい。そのメリーの部屋という問題が解ければいいのかね」
明日以降の実験スケジュールに支障を来たさぬ様、どうにかしてこの助手の興味対象を哲学問題から研究テーマへと持って行かねばならない。どうやって助手の機嫌を取るかが最近の博士の一番の懸案事項となっていた。
「博士、メリーでなくマリーです。『マリーの部屋』というオーストラリアの哲学者が提唱した思考実験についてです。もっとも、この問題に関してはメリーだろうがマリーだろうが名前はどうでもいいのですが」
助手はそう言いながらそそくさと急須にお湯を入れだした。どうやら博士と自分の二人分用意するつもりらしい。これは長引きそうだと博士は腹をくくった。
「最近は哲学的な話を君と良くするせいか、そのなんちゃらの部屋の話は私も知ってるよ。確かアレだ、白黒の部屋で育った女の子が外に出たときどう感じるかって奴じゃなかったか」
「そうです。どう感じるかという部分は私の聞いた話とは違いますが」
助手はそう前置きをして話を続けた。
「聡明なマリーは白黒の部屋で白黒のモニターを通して世界を観測調査しています。彼女は視覚に関する神経生理学者であり、我々が世界を見たときに感じる色彩に関する情報を全て知っているという前提です。物理学的な情報も、神経学的な情報もです。また、赤や青といった言葉も知っており、どんなときにどのようにその言葉が使われるかも知っています。赤い色を見たときに脳がどのように反応するかも把握しているのです」
「それで、部屋を出たときどう感じるか、だったね。簡単さ。ワーオって言うだけだよ」
博士はさっさと話をまとめようと試みた。
「いえ、正確には『何か新しいことを知るだろうか』という問いです」
助手は湯飲みを博士の座る椅子の前の机に置きつつ訂正した。
「似たようなものさ。初めて色つきの物を見たらその色の感じだって初めて体験するんだから、知識として増えるだろうね。『新しいことを知った』と言っていいんじゃないかな」
助手はそれを聞いてなにやら考え込んでいるようだった。自分の的確な説明が功を奏したようで、博士は得意げだった。これでまた一週間くらいは哲学問答から解放される。
「となると、博士はクオリアの存在を信じるのですね」
ふと顔を上げて投げかけてきた助手の言葉に博士は目を細めた。
「クオ、クリオネ?」
「それは巻貝の一種です。そうではなくて、クオリアです。前にお話したでしょう。質感とか、感覚質といったあの――」
ああ、そうだったと博士は助手の言葉を遮った。
「確かに前にもそんな話は聞いたよ。あれだ、あの、赤いとか青いとか痛いとか甘いとか、とにかくその感じる感じというか、なんというか。正直よくはわかっていないのだが、なんだか抽象的なやつのことだっけ」
「まさに抽象的と言えます。個々人で感じ方も違うでしょうし。それで博士は、クオリアはあるとお考えなのですね」
助手に念を押されて博士は、あると思う、と不承不承頷いた。
「そうなると博士は物理主義に否定的なお立場であるということになります」
「また出たか物理主義。君はなんでそう物理主義にこだわるのかね」
この手の話をしだすと、最終的に助手は物理主義の信奉者として熱弁を奮うことになる。博士がここ半年の間に知りえた経験則である。
「博士、私はアンドロイドです。現代物理学の集積とも言えるこの私が物理主義を唱えて何がおかしいのですか」
またしてもややこしい事になりそうな予感に博士はたじろいだ。このままではいけない。博士は知恵を絞った。
「まあ、待ちなさい。クオリアがあるとは言っても、それがそのまま物理主義の否定にはならないと思うよ。クオリア自体を物理的な性質として説明できれば、それはすなわち物理主義の勝利と言えるのではないかね」
博士の言葉に助手は目を丸くした。
「博士、そんなことが可能なのですか」
博士は大仰に頷いた。
「というか、そもそも君の存在自体で説明できるではないか。君だって赤や青といった色の識別はつくし、温度も食べ物の味だってわかるはずだ。目や舌のセンサーで感じ取った光の波長やら化学物質の含有量といった物理的な要素を数値化して、その信号を脳のニューロチップへ流し込んで処理している訳だろう。我々人間となんら遜色ない動きだ。そして君のチップだって研究者が四苦八苦して作り上げたものなんだから、物理的だ。ほら、物理の勝利だ」
「ちょっ、ちょっと待ってください。最後のほう、だいぶ説明をは端折ってませんか。人間の脳も私のニューロチップも物理的なものであることは分かりますが、それだけでは少なくとも人間の心的因果を否定できていません」
待ったをかける助手の物言いの言葉に博士は内心舌打ちした。そろそろ中途半端な誤魔化しではきかなくなってきたようだ。
「なんだねその心的因果とやらは。私は工学博士で工学的に物を見る。心なんて言葉に惑わされたりはせんよ。よしんば心というものを説明しろと言われたら、それは脳の反応に他ならない。どうにも哲学者は悪しき因習を引きずり続けているようだ。彼らは心とかわけの分からない手のつけられないようなものをわざわざ定義して議論したがっているだけのように思える。脳は活動している。その反応の仕方に名前を付けるのは哲学者の勝手だ。だが、厳然たる事実として脳は物理的なものでしかない。我々はハードウェアの上に成り立って思考している。それだけなのだ」
「流石です、博士! 私は博士のその言葉を聴きたかったのです!」
目をキラキラさせている助手の顔を見て、博士は先ほどの考えを改めた。どうやらまだ適当なトートロジーでもぶちあげれば切り抜けられそうだ。博士はさらに駄目押ししておこうと判断した。
「ほら君、そこのデスクトップコンピュータを見なさい。年代物の奴だ。昔はPCなんて呼んでいた。これなんかまだシリコンベースのチップを使ったものだが、これにだって心と呼べるものはある。ほら、このOSのプロセス一覧を見なさい。色々動いているだろう。このOSこそが我々の言う心だ。マウスやキーボードの動きを検知しようと常に動いている。いざ動かされたらそれに反応して的確な反応を返す。例えばこのPCにくっついているカメラで、そこにある湯飲みでも写そう。するとカメラの光学レンズから入った光は受光素子にあたり電気信号へと変換される。それをさらに通信用の信号に加工してケーブルを通じてPCにまでくる。PCのOSは信号を受け取ったら適当な画像解析ソフトを立ち上げてソフトにその信号を送る。ソフトはその中の画像に映ったものを既存のデータベースと照合してラベルを貼る。ラベルを貼られた画像データはOSを介してディスプレイに表示される」
そこまで言うと博士は自分の飲みかけの湯飲みをカメラで写した。ほどなくPCのディスプレイにはコップとラベリングされた画像が表示された。
「一連の流れのうち、OSと画像解析ソフトの動きこそ哲学者の言う心そのものだ。クオリアというのは、画像ソフト内で既存データベースから該当項目にマッチするか判定する際に使われるプログラム内のオブジェクトに相当する。このPCの中でなされる詳細な動きは、きっと情報工学に精通している者なら事細かに説明できるだろう」
助手は何か言いたげだったが博士はさらに続けた。
「先ほどのマリーの部屋だったか、あれもそっくりそのままこれで説明できる。自分が記憶していない新たな情報が加わったら、それをどうするかはOSや画像解析ソフトに依存する問題だ。人間であるならとりあえず記憶して、その情報に新たになにがしかの名前でも付けるのさ。わざわざマリーの部屋なんて考えなくても、例えば私がいまこの瞬間からいきなり紫外線を検知できる目を備えた場合にどうなるのかを考えればそれで済む。感覚器である目からいままでにない信号がくるだけだ。視覚や味覚などは物心付く頃にはみんな備わっているから、新たな感覚を知るという経験は小難しいことを考える時分には忘れてしまっているのだろう。そんなものは子供が始めてジェットコースターに乗ったときの無重力の感じでも聞けば済む話だ。誰だってわかる話なんだよ」
そこまでまくし立てた博士だったが、助手を見るとうなだれていた。どうしたと聞くと、助手は寂しそうに応えた。
「私は生まれたときからこの体で、感覚情報もみな備わっていました。博士の言う新たな感覚情報を得るという体験をしたことがないのです。きっとそこが私と人間との違いなんですね」
肩を落としたまま湯飲みを片付ける助手を見ながら、博士はどうしたものかと考えた。ようやく帰る気になってくれたのはいいが、どうにもよろしくない方向に持っていってしまったのかもしれない。元気のない状態では人間だろうとアンドロイドだろうと仕事の能率も上がらないだろう。
博士は、洗い物を済ませて帰ろうとする助手を引きとめた。そして、何事かと首をかしげる助手のその首の付け根のジャクにコードを刺した。
「このカメラは高性能で赤外線もいくらか写す事ができる。その信号を送るよ。これで君はいままで見たことのない不可視光を見ることになる。これぞ君の知りたがっていたマリーの部屋の答えだ」
博士はカメラのスイッチを入れた。先ほどとは違い録画モードで作動したデジタルカメラは助手に向けていつもとは違う信号を送った。それを受信した助手は一言こう言った。
「ワーオ」
以前に公開した『哲学ゾンビからの華麗な逃げ方』の後日譚になります。