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バレンタインの血盟

作者: 白紙撤回

 午前七時十五分――

 部活動の朝練はすでに始まり、一般の生徒が登校して来るには少し早い時刻。

 昇降口の二年生の下駄箱の前に、一人の女子生徒の姿があった。

 扉付きのボックスの一つ一つに掲げられた使用者の名前を指で追っている。

「……二年B組……おがわ……おがわ……」

 ショートボブの艶やかな黒髪。

 何かに驚いているみたいな、ぱっちりと大きな眼は生まれつき。

 リボン結びにした白いマフラーで、ぷっくらした桜色の唇が見え隠れしている。

 美人というより可愛いタイプだが、同じクラスの男子を問い詰めれば最低二人は彼女のファンがいるだろう。

 一年A組、小川千代子おがわちよこ

「……おがわ、あった」

 自分と同じ『小川』の名前が掲げられたボックスの扉を開ける。

 中には薄汚れてくたびれた上履きが一足。

「ふふっ……ふふふふ……」

 マフラーの下でほくそ笑む。

 同じクラスの男子が見たら確実に「ドンびき」だろう。眼をぎらぎらと輝かせて。

 千代子は、ポケットから瞬間接着剤のチューブを出して蓋を開け。

 扉のふちと、ボックス側の縁に塗りたくった。

「うふふふぅ……これでよし」

 ぱたんと扉を閉める。

 そして一呼吸置いて、扉の把手に手をかけるが、もう開かない。

「うふふふふ……下駄箱に鍵をかけないお兄ちゃんが悪いんだからね……」

 蓋を閉めた瞬間接着剤をポケットに戻し。

 いま閉じたばかりの下駄箱のボックスの扉に手を当て。

 それを見つめる眼に熱を込め――

 顔を近づけ、ちゅっとキスをした。

「うふふふ……グロスの跡、残っちゃったかな? まあいいよね」

 下駄箱の前を離れて、

「次は教室……お兄ちゃんの机は窓際だから場所はわかってるよ……外から覗けるものね……ふふふ……」

 つぶやきながら、二年生の教室に向かって歩き出した。

 

 

 午前八時二十五分――

「……ああっ、くそっ! 朝からロクな目に遭わねえっ!」

 小川克彦かつひこは教室の自分の机に突っ伏した。

 その足元は担任から借りた来客用のスリッパだ。

「久しぶりに一人で気持ちよく目覚めたと思ったら時計が三十分遅れてやがるし」

「ふむふむ」

 前の席の桃山記信ももやまのりのぶが苦笑いで相槌を打って、克彦は髪を掻きむしり、

「こんな日に限って妹のヤツは先に出かけてやがるし」

「ほうほう」

 記信が相槌を打ち、ぱたりと克彦は力を抜いた手を投げ出して、

「いつも布団に潜り込んで来たり、濡れた布切れ顔に押し当てたりロクな起こし方しねえくせに」

「それは何で濡れたどんな布切れだろうね」

「知るか。たぶん台所のふきんだろ何か匂ったし。ったく肝心なときに使えない妹だ」

「そうかな? 朝昼晩と料理はするし洗濯も掃除もしてくれるし話を聞く限りよくできた妹さんに思えるけど」

「大掃除とかほざいて勝手に俺の部屋の押入れ漁ったり、晩メシにホットケーキ焼いたりしなけりゃな」

「ホットケーキはべつに悪くないだろう」

「よくねえよ。たっぷり生クリームまで添えやがって」

 克彦は顔を上げ、恨みがましい眼で記信を見て、

「それがメインディッシュだぞデザートじゃねえぞ? ちなみにデザートはオレンジムースだ、あり得るか?」

「でもちゃんと食べてあげてるんだろう?」

「食うよ、ほかに食うものねえし食わなきゃもったいねえし」

「いいお兄さんだな克彦は」

 記信は克彦の肩を叩いた。

「いつか千代子ちゃんの想いも君に届くだろう」

「そりゃ逆だろ。俺は兄貴として妹が真人間になってほしいと願ってるんだ。いや千代子の話はともかくだ」

「ふむ?」

「ぎりぎりバスに飛び乗って学校に着いたと思ったら下駄箱にイタズラだ。俺いつからイジメられっ子?」

「確かにやりすぎだね、接着剤で扉を開かなくするなんて」

「担任のアホは遅刻遅刻わめいていくら説明しても理解しねえし」

「それはさっき謝りに来たじゃん先生も。職員室に帰りがけに昇降口に寄ったら克彦の言う通りだったって」

「けらけら笑いながらな。バレンタインにとんだプレゼントだなとか何とか……くそっ!」

 どんっ! と、克彦は机を叩く。

「どこのクソ野郎だ、ぜってえ許せねえ。俺への嫌がらせ自体はこれが初めてじゃねえけどな」

「そうだっけ? ほかに何かあった?」

「あっただろ一学期の初め頃にはさ、俺が妹にラブラブのシスコンだとか妙な噂が流れたこと」

「それ一年近く前じゃん」

「いや噂自体は二学期まで尾を引いてたぞ、文化祭で一年の知らねえ女子に指差されて変態呼ばわりされたし」

「お気の毒様」

「気の毒ってもんじゃねえぞ。千代子まで巻き込むなんて許しがてえ」

「やっぱりいいお兄さんなんだな克彦は」

 よしよし、と、頭を撫でてきた記信の手を、克彦は払いのけ、

「いや俺が腹を立ててんのはそういう噂が千代子を調子づかせることだよ、面白がって俺にベタベタしてきて」

「お昼のたびに教室に押しかけて来てたねそういえば。でもそれが有効な反撃だと言ってたんだろう?」

「本当に仲がいいところを見せつければ悪い噂を流したヤツは悔しがるだろうって、どこまで本気なんだか」

「その一件と今回の件が繋がってるのか僕には何も言えないけどね」

 記信は言って、鼻をひくつかせ、

「それより何か匂わないかい?」

「……え?」

 克彦も辺りを見回しながら、くんくん匂いを嗅いでみる。

「そういや……何だこれ小学校の掃除のときよく匂ったような」

「ちょっとごめん」

 記信は克彦の制服の袖を引っぱり、その匂いを嗅いだ。

「克彦のほうから匂うよ。制服じゃないみたいだけど」

「俺がクサいってか? 新手のイジメかそれはまた?」

 克彦は自分の周りを見回し続け――

「……ああっ!」

 机から何かをつまんで引っぱり出した。びしゃりと湿った音を立て、それが床に落ちる。

 記信が眼を丸くして、

「なに、雑巾?」

「牛乳染み込ませた雑巾だ! 匂うわけだよ、くそッ!」

 克彦は腹いせに机を蹴りつけた。

 

 

 午前十時十分――

「……粋なことしてくれるよね先生も」

 千代子は、にこにこしながら言った。

「せっかくのバレンタインだから調理実習は手作りチョコに挑戦、なんて」

「溶かして固めるだけで何が調理だか」

 桃山千晶ちあきは仏頂面で、

「見ろよ男子どものモノ欲しそうな顔。あいつら女子の誰かに試食させてもらえるもんだと期待してやがるぜ」

「クラスの男子なんて男同士で試食し合えばいいのよ」

 にこにこ笑顔のまま千代子はきっぱりと言った。

「せっかくの手作りだよ。しかも試食という口実なら恋人未満の本命候補に渡しやすいでしょ?」

「んな相手いねーよ」

「いないならお兄さんに渡せばいいじゃない? きっと喜んでくれるよ可愛い妹からの手作りチョコ」

「勘弁しろ。これ以上、アイツを誤解させてどうすんだ?」

 千晶は吐き捨てる。

 一、二時限通しの調理実習の時間。

 その終わり近く、生徒たちはチョコレートが冷蔵庫で固まるのを待っているところだ。

 並んで席に着いている千代子と千晶は、小学校から一緒の親しい友人同士だ。

 千晶は塩素で黄色く焼けたベリーショートの髪に、艶やかに日焼けした褐色の肌の水泳部員。

 つけられているあだ名は「孫悟空」。

 しかし長身で顔立ちは凛々しく異性からも同性からも人気が高い。

「バレンタインなんて去年ので懲りてるんだアタシは」

 千晶は苦々しげに言った。

「中学の水泳部の後輩たちからもらったチョコ、アタシ甘いのダメだからアニキにやったら何を勘違いしたか」

「妹からの本命チョコと思って大喜び」

 くすくす笑いながら千代子が言って、千晶は眉をしかめる。

「どう誤解したらそう思い込むんだ? アニキと妹だぜ、おかしいだろ? しかも数人分まとめて渡したのに」

「一人でたくさんチョコ渡しちゃうくらい深い愛情と思ったのかな?」

「やめろキモイこと言うの。血迷ったアニキに抱きつかれたときはマジ貞操の危機覚えたぞ」

「……ちっ、あと一息だったのに記信さんってば」

「小声でなに言ってやがんだ千代子テメェ。アタシそういうアブノーマルなネタは受け入れられねーんだ」

「とか言ってBLは大好きなくせに。ウホッなアニキは許せても実のお兄さんはダメなんて記信さん可哀想」

「千代子こそどうするんだ? さっき『LOVE』って書いたやつ試食させるの、やっぱ兄貴に?」

「うちは渡せば素直に食べてくれるからね。その意味でありがたくも物足りなくもあるけど」

「妹のアブナイ冗談を大らかに受け止められるほどオトナってことだろ」

「まっすぐな愛情に気づかない鈍感な子供ってことだよ」

 千代子が言ってのけたところで、生活科の教師が手を叩いて生徒たちに呼びかけた。

「そろそろ固まったと思いますので、一斑から順に冷蔵庫にチョコレートを取りに行ってくださーい」

 

 

 午前十時二十五分――

 調理実習室前の廊下で、千代子・千晶たち一年A組の生徒と、克彦・記信たち二年B組の生徒がすれ違う。

「あれえっ、千晶?」

 最初に相手に気づいたのは記信だった。大きく手を振り、自分の存在をアピールする。

「おおいっ、千晶ぃ! それにチョコたんも!」

「恥ずかしいだろデカい声出すな記信おまえ……っつうかチョコたん呼ばわりやめろ、ひとの妹を」

「あっ、お兄ちゃん! それに記信さん!」

「ったくバカアニキ……」

 ツッコミ入れる者、手を振り返す者、頭痛を感じたように額に手を当てる者。

 周りの生徒が二組の兄と妹を見て、くすくす笑う。

「まさかお兄ちゃんたちのクラス、次が調理実習?」

 千代子が訊ねて、克彦は仏頂面で頷き、

「チョコレート作りだと。女子は盛り上がってるけど男には空しいぞバレンタインに自分でチョコ作れなんて」

「うちらのクラスの男子は女子の誰に試食させてもらえるかでアホみたいに盛り上がってた」

 千晶が言って、記信は朗らかに笑い、

「で、千晶は誰かに試食させたの? まだ残ってるなら僕も味見……」

「全部食べた」

「……え?」

「少し千代子にあげて、あと全部自分で食べた」

「そ……そっか……」

 記信は笑顔を引きつらせながら、ちらりと千代子を見た。

 千代子は苦笑いで詫びるように片手で拝んでみせる。

「そっか。せっかくの千晶の手作りチョコ、食べたかった男子も大勢いただろうに、残念がってるだろうなあ」

 記信は爽やかな笑顔を窓の外の空に向けた。

「僕のチョコは家まで持って帰って、千晶に味見してもらおうかなあ」

「アタシが甘いのダメなの知ってんだろ? 自分のは我慢して食ったけど」

「そっかそうだっけ……あはははは」

 記信は顔は窓に向けたまま頭を掻く。

 その瞳が潤んでいることに気づいたのは千代子ひとりだ。

「……お兄ちゃん」

 千代子は克彦に向き直った。にっこりと笑顔で、

「今朝は先に行っちゃってごめん。でもちゃんとお兄ちゃんのお弁当は千代子が作って持って来てあるから」

「そうなのか? 弁当無しのつもりで昼に学校抜けて牛丼屋に行く約束したぞクラスの奴らと」

「それと同じことやってついでにパチンコ行ったのバレて停学になった人いたでしょ、こないだ」

「俺らはパチンコまで行かねえよ金もねえし」

「でも学校抜け出すだけで疑われるよ」

「わかったよ。牛丼屋はキャンセル。弁当あるなら食わねえともったいねえしな」

「いいお兄さんだなあ……克彦は……」

 空を見上げたまま記信がつぶやき、千晶がしかめ面で、

「チョコ断ったアタシに当てつけかよ」

「それと、これ」

 と、千代子はアルミホイルに包んだ何かを克彦に手渡した。

「お昼の前におなか空いたらこれ食べて。ほかには間食しちゃダメ。せっかくのお弁当が美味しくなくなるし」

「おまえの作ったチョコ?」

「うん。試食して」

「まさかハート型で『LOVE』とか書いてあんの?」

「『FROM』と『TO』は書いてないから誰かに見られても平気でしょ」

「いや他人の眼も問題だけどそれ以前に妹から『LOVE』なハートチョコもらうなんてどうよ」

「妹以外からは義理チョコさえもらえる見込みのない人は贅沢言わないの」

 にこにこ笑顔のまま千代子は言って、克彦は渋い顔になり、

「いやおまえそう言っていつもバカにするけど俺だってなあ……」

「何度かラブレターもらったことあるのは知ってるよ。妹ラブな噂が流れる前の一年生の頃に」

 千代子は言って、にっこりとする。

「でも待ち合わせ場所に行ったらすっぽかされたり、ヤンキーの皆さんが待ち構えてたりと全部イタズラ」

「うわあ古傷を抉ってくれるわあ。でも中学の頃は……」

「彼女がいたこともあるけど最後は理由も告げられずに振られたんだよね?」

「傷口に塩まで擦り込みやがりますかこの妹は。チョコにも砂糖の代わりに塩を混ぜてねえかおまえ?」

「心配だったらちゃんとお兄ちゃん自身で試食してね。一人で全部、誰にも分けないで」

「わかったよ。おまえも手作りチョコ渡す本命の相手はいないってことだろうし」

「可哀想に思うならお兄ちゃん本命になってよ。千代子はいつでもオッケーだよ」

「どぎつい冗談マジ勘弁しろ。せっかくシスコンの噂も収まってきたのに」

「じゃあ、またお昼にね」

「あ、待ておまえ、弁当なら俺が取りに行くぞどうせ調理実習の帰りがけだし」

「それだと余計に噂が広まるよシスコン兄貴が妹の教室まで押しかけたって」

「おまえがうちのクラス来ても一緒だろ。というかおまえの目的は俺らと一緒にメシ食うことかもしかして?」

「そうだよだってお兄ちゃんが千代子の教室に来てもお弁当を受けとったらすぐ帰る気でしょ?」

「おまえのそういう行動があらぬ噂を助長するんだぞ」

「千代子はブラコンの噂が立っても困らないのに、どうしてお兄ちゃんばかり後ろ指差されるのかね?」

 にっこりとして千代子が言って、克彦は仏頂面で吐き捨てた。

「知るかよ。同じ兄妹で俺だけご先祖様の因縁が祟ってるわけでもねえだろうし」

 

 

 午後十二時十分――

「そろそろチョコが固まったと思いますので、一斑から順に冷蔵庫に……」

 と、生活科の教師が言いかけたところで、教頭の声で校内放送が流れた。

「(ピンポンパンポ~ン)……二年B組の小川君、小川克彦君。至急職員室まで来て下さい……」

 調理実習室じゅうの生徒たちが克彦に注目する。

「えっ……俺?」

 克彦は自分の顔を指差しながら席を立った。

 

 

 その数分後――

「……失礼しまーっす」

 と、克彦は職員室に入った。

 まだ四時限目の授業が終わっておらず、広い室内に四人ほどの教職員の姿しか見えない。

 奥の行事予定記入用の黒板を背にした机に向かっていた教頭が克彦に気づき、手招きした。

「小川君か? きみ宛てに電話が入ってるんだがとりあえずこっちに来てくれないか」

「俺に電話……ですか?」

 克彦は教頭のそばへ行く。

 電話は受話器が机の上に置かれ、保留メロディーが流れていた。

「きみのお父さんの勤め先の方とおっしゃってるんだが、ご両親はいま海外だったね?」

 教頭に訊かれて克彦は頷く。

「商社……っつっても食品専門の小さい会社ですけど、そこに勤めてる親父が長期出張でお袋も連れて」

「電話の相手の方はご家族のことで至急きみと話がしたいとおっしゃってるんだ」

「俺だけですか? 妹には?」

「それは何もおっしゃってない。私も事情を訊ねてみたが相手の方はまずきみと話がしたいと……」

「電話に出てみます。出なきゃしょうがないですもんね」

 克彦は受話器をとった。教頭が電話機に手を伸ばし保留解除のボタンを押す。

 

 ――つーっ、つーっ、つーっ……

 

「……電話、切れてますけど……」

「そうかね? 相手は携帯のようだったし声も遠かったから切れてしまったのかな?」

「お袋の携帯にかけてみます。電話借りていいですか?」

 克彦はポケットから自分の携帯を出して登録済みの母親の携帯番号を調べ、学校の電話を使ってかけた。

 呼び出し音。やがて相手が出た――

 

 

 午後十二時二十五分――

「……イタズラ電話ぁ?」

 記信が眼を丸くした。二年B組の教室。

 机に突っ伏した克彦は、頷くようにぴくりと頭を動かし、

「お袋に確認しようと思って電話かけたら大目玉。オペラ鑑賞中だったとか知るかこっちも大迷惑だっての」

「学校まで巻き込むなんて、さすがにやりすぎだよね……」

「下駄箱の件もあるし教頭に真顔で心配されたぜ。きみイジメに遭ってるのか悩みがあれば相談に乗るぞって」

「克彦は何て答えたの?」

「チョコレートコレクターの俺に嫉妬した誰かの嫌がらせでしょうワッハッハ」

「……それ自分で言ってて空しくなかった?」

「イジメられてますとか認めるよりマシだろ。っつうかマジ殺す誰か知らねえけど殺す犯人を」

「その意気込みがあればイジメの標的になることはないだろうね克彦は」

「……だけどわかんねえことがあって」

 克彦がつぶやくように言って、記信は訊き返す。

「え?」

「学校に電話して来たの若い女らしいんだ。あとで思えば生徒でもおかしくないくらい若かったって教頭が」

「女が嫌がらせしてるっていうの? 男が誰か知り合いの女に頼んでるのかもよ?」

「あと親父の会社の名前も出してたって。うちの両親が海外にいるのは学校でも知られてるけどさ……」

「親父さんの会社がどこかまでは知らないだろうってか。でもそれは千代子ちゃんルートもあるし」

「千代子が話したのを聞いたって? そしたらそいつは千代子の知り合いだろ。何で俺に嫌がらせ?」

「例えばの話だけど、千代子ちゃんに片想いしてる男が克彦に嫉妬してとか」

「あいつがそんなにモテるのかよ」

「モテないと思い込んでるとしたらそれ克彦の油断だよ。そのうち千代子ちゃん盗られちゃうよ」

「むしろノシ紙つけて差し上げたいくらいだ。そしたらようやく俺の時代だ」

「千代子抜きのお兄ちゃんの時代って、それって氷河期?」

 いつの間にかそばに来ていた千代子が言って、克彦は顔を上げた。

「……おう、マイ弁当!」

 差し出された克彦の手から、携えて来た弁当の包み(何故だかデカい)を遠ざけて、

「お兄ちゃん、まずチョコの感想は?」

「食ってねえよ食う暇あるわけねえ」

「え?」

 眉をしかめた千代子に、記信が笑って、

「学校にイタズラ電話がかかって来て呼び出されたんだよ克彦。四時限目が終わる間際に放送が流れたろう?」

「千代子トイレ行ってたから知らない」

「トイレ? まだ授業中だったのに?」

 訊き返す克彦に、にっこりと千代子は微笑み、

「女の子の事情だよ。でもなんだお兄ちゃん千代子のチョコも食べなかったんだ?」

「実習の終わりに周りがみんな試食してるとき俺も食おうと思ったんだけどな目立たねえように」

「堂々と食べてくれればいいのに可愛くできた傑作だよ」

「だとしたら余計に恥ずいだろ『LOVE』なハートチョコなんて」

「まあいいか、いまここで食べてもらえば千代子の見ている前で」

 にこにこしながら千代子が言って、ぎょっと克彦は眼を剥いた。

「教室でかよそれは勘弁しろ」

「食べてくれないなら晩ご飯抜きだよ。お弁当のあとのデザートでいいからさ、はいこれお弁当」

 千代子は克彦の机に弁当を置いた。

 包みを広げると中身は三段重ねの重箱だ。

「ちなみに千代子も一緒に食べるからお弁当箱は一緒にしたよ。ごはんはおにぎりだから二人で分け合おうね」

「一緒に食うのは仕方ねえけど弁当箱は別々でいいだろうに」

「それじゃ洗い物が増えるでしょ。家事をする身にもなってよね」

「三段の重箱のほうが洗うの大変じゃねえのか?」

「……あのー、ところで千代子ちゃん」

 記信が手を上げながら、恐る恐るといった様子で口を挟む。

「千晶は連れて来てくれなかったの?」

「千代子が教室に帰ったときはいなかった。千代子とお昼一緒じゃないときはいつも水泳部の女子部室だよ」

「あ……そう」

 がっくりとうなだれた記信に、くすくす千代子は笑って、

「いまごろ女子部員の仲間からチョコレートのプレゼント攻勢かも。上級生にもファンがいるからね千晶には」

「僕……女の子たちに嫉妬していいかなあ?」

「嫉妬の対象が違うだろ。チョコもらいまくりの千晶ちゃんが羨ましいんじゃなくて?」

 克彦が呆れ顔で言った。

 

 

 午後三時十分――

 帰りのホームルームが終わって担任が出て行くと、入れ替わりに千代子が教室を覗き込んで来た。

 克彦の姿を見つけて、にこにこして呼びかけてくる。

「お兄ちゃん、帰ろーっ」

「……げっ、あいつ帰りまで押しかけて来やがった」

 渋い顔をする克彦に、記信が笑って、

「心配なんだよ、きょうは特に」

「は? きょうはって……」

「いやほら下駄箱のこととか電話のこととかいろいろあったから」

「んなもん千代子に心配されても仕方ねえだろ」

「そう言うなって。お兄さん想いの可愛い妹じゃないか」

「なあ、前から思ったけどおまえやたらと千代子の肩持つよな」

「えっ? そうかな……」

「おまえにお兄さんとか呼ばれるようになるのはくすぐったいけど、千代子に惚れてるなら俺に遠慮すんな」

「いやそれ誤解だから」

「そうだこの際、千代子とつき合って、シスコンの真似して千晶ちゃんからかうのは卒業しろ、なっ!」

 にやにや笑う克彦に肩を叩かれて、記信は苦笑いで、

「それも誤解なんだけどなあ……僕のは真似でも何でもなく……まあいいけど……」

「お兄ちゃん、早く早く! いまなら一本早いバスに乗れるよ!」

 千代子が大きく手招きしてみせ、克彦は手を上げて応えた。

「待ってろ、いま行くから」

 鞄を手に立ち上がり、記信の肩をもう一度叩き、

「いまなら千代子、本命チョコ渡す相手もいねえしマジおすすめ。そうだおまえが千代子と一緒に帰れ」

「僕は部活だって」

「ロクに活動してねえ新聞部だろ。いいじゃんサボっちまえ」

「遠慮するよ。千代子ちゃんとお兄さんの水入らずを邪魔するほど野暮じゃないから僕は」

「シスコン系のネタはヤメろ。きょうなら誰か殺せる気分だ」

「わかった悪かった、もう言わないよ千代子ちゃんのお兄さんを殺人犯にしたくないからね」

「テメェッ!」

「お兄ちゃんっ、バス間に合わなくなるよっ!」

 千代子が叫び、克彦は叫び返す。

「わかったいま行くからッ! ……記信テメェあした覚えてろよッ!」

 言い捨てて、克彦は千代子に駆け寄り、教室を出て行く。

 それを見送り、記信は苦笑いでため息をついた。

「やれやれ。鈍感な兄貴で千代子ちゃんも苦労するよねえ……って僕も他人の心配ばかりしてられないけど」

 記信はこれからクラブハウス棟にある新聞部の部室へ行くつもりだ。

 三年生が引退して部員は自分一人となったが、記信はほぼ毎日、放課後は部室で時間を過ごしていた。

 水泳部が活動を休む火曜日を除いて。

 冬場でも水泳部はプールサイドで筋力トレーニングを行なっていた。

 その様子が新聞部の部室から見渡せるのであった。

 つまり記信の目的は、水泳部の――いや水泳部員である妹の千晶の練習風景を観察すること。

 さらには千晶の姿を写真に撮ることだった。

 千晶本人に知れたら逆上されて半殺しの目に遭うことは必至の記信のライフワークだ。

 彼の写真技術は専門誌のコンテストに何度も入選して、写真部から勧誘を受けているほどである。

 残念ながらコンテストでの被写体は千晶以外だったが――妹からはモデルになる許可をもらえないから。

 鞄を手に教室を出て行きかけた記信は、戸口で一人の女子生徒と鉢合わせた。

「あっ、ごめん」

「いえっ、あのっ、ごめんなさいっ」

 ぺこりと頭を下げてから、その女子生徒は教室の中をきょろきょろ見回す。

 道を譲ってもらえないので記信は苦笑いだ。彼が温厚なのは克彦や妹の前だけの演技ではない。

 女子生徒が、ぴょこんと顔を上げて記信を見上げた。

 ずいぶん小柄な子だと記信は思った。髪形もお下げにして地味だが、よく見ると可愛い顔立ちではある。

「……あのっ、小川君はっ?」

「え?」

 怪訝に訊き返した記信に、女子生徒は赤くなった顔を伏せ、

「あっ、あのっ、あたし美化委員会で小川君と一緒でっ、委員会の件でちょっと用事がっ……!」

「ああ」

 記信は笑って頷いた。

 確かこの女子生徒はD組の丘野彩おかのあやとかいう名前だったと思い出す。

 しかし美化委員で克彦と一緒だったとは初耳だ。克彦から彩についての話を聞いたこともない。

 話題にするほどの感心を克彦は彼女に払っていないということだろう。

 とはいえ、バレンタイン当日の放課後にわざわざ彼を訪ねて来るとは……

(泥棒猫、かな。千代子ちゃんに報告してあげないと……)

 笑顔は崩さないまま、記信は胸の内でつぶやく。

 千代子と記信は志を同じくする盟友だった。

 すなわち、近親相姦を禁忌とする社会通念を乗り越えて。

 千代子は兄への、記信は妹への、一途な想いを遂げること――

「克彦は妹さんと一緒に帰るって一年の教室に迎えに行ったよ。話があっても、きょうは無理じゃない?」

 記信が穏やかな笑顔で言うと、彩は顔を伏せたままでさらに肩を落とした。

「そうですかぁ……失礼しましたぁ……」

 ぺこりとお辞儀するように顎を引くとくるりと背を向け、とぼとぼと廊下を歩き去って行く。

(可哀想に……惚れた相手が克彦でさえなければよかったのに……)

 できれば早めに彩が克彦を諦めることを、彩自身のために願わずにいられなかった。

 

 

 午後三時半――

「盟友」と登録された差出人からのメールを読んでいた千代子が、ぱたりと携帯電話を閉じた。

 バスの車内。二人掛けの椅子に克彦と並んで腰掛けている。

「友達からか?」

 携帯電話のモバイルゲームをしながら克彦が訊ねて、千代子は「うん」と頷き、

「……お兄ちゃんっ!」

 兄の腕に抱きついた。

「わあっ、ばか!」

 操作をミスしたのだろう、克彦は舌打ちして、

「くそっ最高得点目前で……」

 ぶつぶつ言いながら携帯を閉じ、ポケットにしまい込む。

「なあ、おまえ離れろよ」

「周りの目が気になる? お兄ちゃんと千代子が兄妹だと知らなければ普通にカップルだと考えると思うよ」

「兄妹だと知ってたらどう思うよ」

「いまさら何とも思わないよ。仲が良くて微笑ましいなくらい?」

「くそっ。シスコンの噂を広めたの、おまえ自身じゃねえだろうな。だいたいおまえが入学してからだし……」

「さーて何のことかなーっと……ふふっ」

 くすくす笑って、千代子は兄の腕に頬ずりする。

「おまえっ、マジ離れろってっ!」

 叫びながらも妹を振り払うような乱暴はできない克彦に、

「大きな声出したら余計に注目されるよ。バス降りるまでこのまま我慢……ふふふっ」

 抱きついた腕に思う存分、頬ずりを続ける千代子。

 家に着けば、そこから先は完全に二人きり。

 今年のバレンタインは兄を泥棒猫から守りきって終わることができそうだった。

 

 

【終わり】

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