彼のとまどい(1)――少年にとってキスはそれはそれは重いもの――
俺たち三人は職員室で、こってり絞られた。
「学校というのはね、社会に出る準備をする場所なんです」
そう説教するF先生の教員用机には、例の黒くて細長いステッキが置かれていた。
「あなたたちは学校を出た後、社会の一員となってこの国を支えていかなければなりません。この国は世界で最も少子高齢化が進んでいる国なんです。いわば子供の一人一人が貴重な人材なんです。あなたたちは、自分の立場が分かっているのですか? それなのに、こんな不健全な遊びに夢中になるなんて……」
F先生は頭を抱えて「こんな卑猥な物、没収する気にもなれませんよ」と溜息を吐いた。
問題を大きくしないため、俺たちは早々に許されて職員室を跡にした。
三人とも無口になり、教室までカバンを取りに行く。
先生の言っていることが正論過ぎて、愚痴る気にもなれなかった。
もう放課後だった。残った生徒はまばらである。
「ふぅー……」
俺は溜息を吐く。
また一人で図書室に逃げていた。
基本的に私語禁止なため、一人で落ち着くには良い場所だ。
それにしても小葉子のやつ、あんなキャラだったっけ。
初めて会った瞬間から変わったひとだと思ったが、発想がなんていうか、卑猥というか、変態というか。
あれが、あいつなりのエロの基準というか、男女の関係の在り方なのかもしれないが。
ほんとに、どれが正しいのか、どれが普通っていうのか、分からなくなってきた。
頬にキスされたぐらいでいつまでもドキドキしている俺。
あるいは水沢さんの知人みたいに、彼氏ぐらいは「居るのが当たり前」と思っているひと。
多くのひとが、これに当たるかもしれない。
または小葉子みたいに、ブルマだとか、SMだとか露出プレイだとか(そこまで言ってないか)、そういう発想にいってしまうひと。
小葉子だけでなく、緑奈もそうだ。見た目は恋愛シミュレーションのメインヒロインをリアライズしたような美少女なのに。
小葉子の変態的なノリに、案外普通に合わせられている。
っていうか実際、緑奈と小葉子にとって、「頬キス」ってどれくらいの重さがあるんだろう。
くちびるのキスさえしたことない俺にとっては、決して軽いものではないのだが。
「……永堀君?」
静かな図書室で、不意に自分の名前を呼ばれた。
振り向くと、そこに立っていたのは水沢さん。
同じクラスだが、会話をするのは今日の朝、下駄箱からブルマが雪崩のように飛び出てきた時以来だ。
「永堀君は放課後まで図書室に残って勉強かな?」
「いや、そういうわけじゃなくて……。ただの現実逃避かな」
「現実逃避って、あの二人のこと?」
俺は返事をにごした。
今の言い方では、俺が緑奈と小葉子をウザがっているみたいだ。
ゲームやラノベで憧れた、美少女と一緒の学園生活。
それが今、現実となっているはずなのに。
ここからまた更に現実逃避なんて。
今のこの状況は、俺が望んだ状況ではなかったのか。
緑奈と小葉子のうち、どちらかは、俺にキスをした張本人でもあるはずなんだ。
今でもはっきり覚えている、キスをされた瞬間の甘酸っぱい感触。初恋の味。
それなのに、どうして俺は今の状況から「逃避」なんてしたいんだろう。
「塚地さんと能見さん、昇降口で永堀君を待ってたよ」
落ち込んでいる俺に、水沢さんが優しく言った。
「待ってた? あの二人が?」
「うん。だから私、永堀君ならここに居ると思って、呼びに来たんですよ」
「そっか……」
俺の頭の中には、俺を待っていてくれている、二人の姿が浮かんだ。
「ふふ。永堀君、今でも図書室とか好きなんだね」
俺の気持ちが落ち着くと同時に、水沢さんがやわらかく微笑んだ。
「今でも? 高校生になってからの話じゃなくて?」
「なってからもそうだけど、中学生の頃は、よく地元の図書館で見かけたよ」
「嘘? 俺、見られてた?」
「うん、見られてた。ラノベを予約検索して、十冊くらいまとめて借りに来てたね」
水沢さんが思い出したようにくすっと笑うと、俺は急に恥ずかしくなる。
そうなのだ。
最近はライトノベルも図書館で取り扱っていて、予約なんかしておくと、全巻まとめて借りることができる。しかも無料で。
「ごめん。俺、覚えてなくて」
水沢さんばかり俺の過去を覚えていて、なんだかずるい気がする。
中学の頃の俺は、周りが見えていなかった。周りの人間に興味がなかった。
俺もその頃の水沢さんを思い出せればいいのだが。
でも昔の自分を知ってくれている女の子が居るというのは、なぜだか安心する。
さっきと比べて、気分も楽になってきた。
「分かった。俺、帰るよ。あの二人が待ってくれているなら」
俺はカバンを手に取り、席を立った。
「嫌ではないの?」
水沢さんが、俺の背中に声をかける。
「嫌ではないよ」
そう。さっきみたいなことがあると嫌になるが、二人が俺を好いてくれている事実は無駄にしたくない。
俺はゲームやラノベに夢中になって、現実に恋をしなかったこれまでの人生を後悔しているんだ。
キスの相手を見つけ出して、幸せになりたい。
「俺、あの二人のうち一人のことが、すごく気になってるんだ」
水沢さんと一緒に図書室を出て、俺たちは廊下を歩く。
「そう……なんだ」
横を歩く水沢さんが、どんな表情をしたのか分からなかった。
でもその声は、あまり明るいものではなかった。
「気になってる相手というのは、塚地さんですか、能見さんですか」
「どっちか分からない。今の時点では」
俺の言葉に、水沢さんは「えっ!」と驚いた。
「まだ決まってないのですか? 選考中ですか? あれですか、オーディションってやつですか?」
「ご、誤解しないで。どっちかよさげな方を選ぶとか、そんな偉そうなつもりはないよ。俺の中では既に決まっているんだ。そのひとの雰囲気というか、波長というか、それをあの二人のうちどちらかが持っているはずなんだ。俺はその相手を探している。もうちょっとで、見つけ出せると思うんだ」
俺は早口で説明する。
しかし、こんな説明で分かるだろうか。
相手の顔は知らないのに、雰囲気や波長を覚えていて、そのひとを探しているだなんて。
だが横を歩く水沢さんは、やはり表情は見えないが、さっきより明るい、納得したような声で言った。
「そっか。その相手に、出会えるといいね、永堀君」
俺は「ああ」と軽く返事して、それっきり二人は黙って校舎を跡にした。




