新学期の朝――塚地緑奈――
四月十日――。
その日は新学期初日だった。
春休みを俺は家に引きこもって恋愛シミュレーションゲームやライトノベルに没頭することで過ごし、夜ふかしの悪い癖も直らないまま、寝不足の体を無理やり起こして家を出た。
久しぶりに浴びる爽やかな朝日に目がくらみそうだった。
(まずいー! 新学期初日から遅刻だ!)
俺は心の中で叫びながら、およそ二週間ぶりの通学路を走った。
学校近くまで来たのに同じ制服をちっとも見かけない。これは完全に遅刻ペースだ。
細い路地を抜けて、全速力で広い通りに出た。
瞬間――。
「うわっ」
「きゃっ」
目の前に女の子が見え、そのまま勢いよくぶつかってしまった。
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
俺は胸にドスンと衝撃が走ったくらいだが、相手は女の子だから後ろに転んで尻もちをついてしまっていた。
同じ学校の女子だというのは制服を見てすぐ分かった。
白地に薄くライトブルーのラインが入ったセーラージャケットに、同じくライトブルーの無地のスカート。
胸もとのリボンが赤なのを見ると、学年も同じだ。
「いたたたた……わたくしの方こそ、急に飛び出してきてごめんなさい」
尻もちをついたまま、その女の子が顔を上げた。
花がパッと咲いたみたいだった。
羽のように繊細で美しげな顔。
黒くてきれいに伸びた髪に、黒いフリルがあしらわれたカチューシャが映えている。
そんなちょっと子供っぽい髪かざりが全く自然に見える。
まるでゲームの中の清純ヒロインを切り取ってきたようだ。
「わたくしがぶつかったせいで、ネクタイがずれてしまってますよ」
女の子は立ち上がると、俺のネクタイを直しはじめた。髪からほのかに甘い香りがした。
「あ、ありがとう……」
本当は俺が朝あわてて家を出てきただけで、ネクタイは初めからずれていたと思うのだが、しばしの間、幸運に身を任せた。
登校途中に曲がり角で女の子とぶつかるなんて、ゲームの世界だけじゃなく、本当にあるんだな。
これは朝からついてるぞ……。
「はっ。そうだ時間! ねえ、君も遅刻しそうだったんじゃないの?」
「あ、そうでした! いっけない!」
信号をひとつ渡った先が俺たちの通う明花高等学校の敷地内だった。
昇降口の前に新しいクラス分けの書かれた看板が立てかけてある。
俺は二年何組なんだろう。F組まであるから、自分の名前を探すのも楽ではない。
「すみません。もしよろしければ、わたくしの名前を見つけたら教えてくれませんか?」
息を切らして一緒に走ってきた女の子が、またもや俺に声をかけてきた。
「え? いいけど……」
「ありがとうございます。わたくしの名前は塚地緑奈っていいます」
「緑奈さんか……良い名前だね」
「まあ、良い名前だなんて」
女の子は嬉しそうに頬を赤くした。べつに、お世辞とかではないんだが、俺にしてはちょっと気障なセリフだったろうか。
「あなたの名前も見つけたらお教えしますよ」
「俺は永堀フミヤっていうんだ」
「フミヤさんですか。そちらも良い名前ですね。ではわたくしは向こうの端から見ていきますので」
「うん。じゃあ俺はこっちの端からね」
二手に分かれ、塚地さんはF組から、俺はA組のプレートから見ていく。
A組に俺たちの名前はなかった。B組もだ。
それにしても、こうして同級生の名前を上から下へと見てっても、友達と呼べるやつが全然いないのな。
もっと社交的であるべきだったか。それとも俺の人間性に何か重大な欠陥でもあったのか。
ダメだ。C組にも名前がない。次はD組……っと。
「「あっ」」
二人の声が重なった。
横を見ると、塚地さんのおどろいたような表情と目が合う。
「永堀フミヤさん、名前ありました」
「塚地緑奈さんもある。ってことは俺たち」
同じクラス。二年D組だった。
「わたくし、一年生の時、友達らしい友達ができなくて、二年生になってもうまくやれるか不安だったんです。永堀さん、よければわたくしの話し相手ぐらいにはなってくれますか?」
塚地さんは照れくさそうに横目で俺を見ながら言った。
「も、もちろん! 塚地さんさえよければ!」
俺も新しいクラスに馴染めるか不安だったし、初日から話し相手ができるのは心強い!
「あの……よければ下の名前で、緑奈って、呼んでもらえますか?」
「えっ。いいの?」
「はい。わたくし、自分の名字ってあまり好きじゃないんです。それに『つかち』ってちょっと言いづらいし」
「分かった。じゃあえっと……緑奈……ちゃん?」
「もうっ。呼び捨てでいいですったら」
緑奈……が恥ずかしそうに顔を手でおさえた。
「わたくしも、あなたのこと名前で呼んでもいいですか? フミヤさんって」
「うん。なんだか照れくさいけど、そっちの呼びやすい方でいいよ」
「そっちとか、お前とかじゃなくって、緑奈って、名前で呼べるようになってくださいね!」
「分かったよ、緑奈」
ぽろっと、その名が口をついて出た。
女の子の名前は、声に出してみるだけでも、なんだか甘く響くかのようだった。
俺にとって、小六くらいで思春期に入って以降、女の子とこんなにお喋りしたのは、初めてのことだった。