帰りの電車で――あの子の横顔(1)――
空気が乾いて日差しが強い日の午後――。
俺は駅のホームに立っていた。
帰り道の違う緑奈、小葉子と別れ、一人で電車を待っていた。
相変わらず一緒に行動するような男友達は居ない。
というより、もうあきらめかけている。
同じ制服の生徒もちらほら見かけるが、その中に、見知った人物が居るのに気づいた。
ポニーテールの結び目にクリーム色のリボンが目立つ女の子。
水沢さんだ。
ホームの最前列、黄色い線の手前に立ち、気だるそうにカバンを肩にかけている。
汗ばんだ額が気になるのか、指でよじるようにして、前髪をいじっていた。
「水沢さん」
俺が声をかけると、「わっ。……なんだ永堀君か」と、びっくりしたように胸に手を当てた。
「な、永堀君も今帰りなんだ?」
視線を合わせたり外したりしながら、水沢さんが言う。
思いがけない場所で俺に出くわして、やや緊張気味だった。
「水沢さん、同じ電車だったんだね。しかもこんな時間に帰り道で会うなんて、少し意外かも」
今はまだ午後三時前。
授業が終わってすぐ帰らないと、こんな時間に電車には乗れない。
「そう、私も同じ電車だったんですよ。実は帰り道が一緒だっていうのも珍しいことじゃなくて、一年生の時、永堀君を同じ車両で何度か見かけたよ」
水沢さんは、ですますで喋ったり、タメ口で喋ったりする。
同級生だからタメ口でいいんだろうけど、本人が話しやすいなら、そのままでいいとしよう。
「んー、一年の時か。いつも一人だったとは思うけど、同じ車両に乗る生徒とか、気にしたことなかった」
「だよねー。永堀君、降りるまで漫画本ばっか読んでて周りなんか見てなかったもの」
水沢さんがくすくす笑いながら言う。俺は「うぉー、見られてたのか!」と頭を抱える。
「でもやっぱ、水沢さんの帰りって早いよね。部活とかやってなかったの?」
「吹奏楽部ってのに入ってみたんすけどね。チームワークとか苦手で、二日で辞めました」
水沢さんが「V」と二本の指を立ててニッコリ笑う。
「早っ……なんて、俺もひとのこと言えないよ。部活見学はしたんだけど、結局どこにも入れないで帰宅部。まあ、早く家に帰って趣味の時間を持つのも悪くないしね」
「だから今まで女の子にも縁がなかったんだね、永堀君」
緑奈や小葉子と同じで、水沢さんまでそういうことはサラッと言うんだな。
微妙に傷つくというか。
いや、当たってはいるんだけど。
やがて電車が来た。
同じ沿線に位置する私立中学の制服も見えて、車内は混んではいないが座れるほどではなかった。
水沢さんと並んで吊革につかまる。
はめ殺しの窓から強烈な西日が差した。のどかな平日の昼間だった。
考えてみると、教室と違って二人きりというシチュエーションは緊張する。
俺は四つ先の駅で降りるけれど、それまで何を話せばいいか。
「あのさ……」
喋り出したのは水沢さんだった。
緑奈より少し背の高い彼女は、俺と目線がそう遠くなかった。
「チューの噂っていうのは、本当のところ、どうなの?」
やはり水沢さんの関心は、俺とあの二人――塚地緑奈と能見小葉子との関係にあるらしい。
新学期が始まってすぐ、俺と小葉子がキスをしたという噂が生じた。
本当はする真似だけというか、小葉子がなぜか俺にキスを迫ってきて、結局しなかったんだが、遠くから見ていたひとにはしているように見えたのか、そういう噂が広まってしまった。
教室でその話を水沢さんが振ってきた時、もちろん俺は否定した。事実じゃないんだから。
でも小葉子が「した」と嘘をついたことでややこしくなり、緑奈が間に入って口論になった。
水沢さんは学年で一、二を争う美少女の緑奈と小葉子が、俺との「キス」をめぐって対立している構図に興味を持ったらしく、報道記者のような演技までつけて、俺によく質問してきた。
俺は緑奈、小葉子だけでなく、水沢さんとも二年生になるまで面識がなかった。三人ともが、まだ知り合って間もないのだった。
春休み中は家にこもって恋愛シミュレーションゲームをやったり、ライトノベルを読み耽ったりしていた俺にとって、こんな新学期は夢にも想像できなかった。
「今日は……」
俺が控えめな声で言うと、水沢さんは「ん?」と首をかしげて微笑を浮かべた。
「取材用のマイクとか、出してこないんだね」
水沢さんは噂の真相について俺に質問してくる時、いつもどこからか小型マイクを出してきた。
そして高いテンションでつっかかってくる。
「えっとあれは……今日は持ってないっていうか、今は電車内だからみっともないっていうか、他のみんなが見てないわけだし」
水沢さんが視線を泳がせながら何個もの理由を挙げた。
他のみんなが見てないって理由はなんなんだろう。
でも電車内だからってのはその通りだ。
「まあ、事実をそのまま言えばね、噂はただの噂だよ。あれはデマ」
ガタンゴトン、という電車の鳴らす音がはっきりしてきた。
駅が近づいて、電車が速度を落としているのだった。
「じゃあ、あの噂が流れた時、永堀君は能見さんとも塚地さんとも、その……チューはしてなかったんだね?」
水沢さんの問いに、俺はうなずいた。
しかし、噂が事実でなくても、キスをしたのは事実かもしれなかった。
その噂が流れてすぐに、本当にその後すぐに、俺は誰かにキスをされた。
図書室の机に顔を乗せ、うとうとして、眠りかけている時だった。
頬に伝わってきた、柔らかくて甘酸っぱい感触。
耳に触れた誰かの吐息と、ささやきかける「好きだよ」の言葉。
俺は目を閉じていたし、相手の声を聞いても、小さ過ぎて誰のものだか分からなかった。
最初は夢かと思っていた。
しかし現実であることに気づき、机から顔を上げたが、そこには、棚の陰に消えるライトブルーのスカートが見えただけだった。
俺は今でもその時のことを思い出すと、胸がドキドキする。
そしてあの感触を思い出そうと、頬を撫でていると、
「……あ」
すぐ横に、俺をじっと見つめる水沢さんの二つの目があった。
バッチリ目が合ってしまい、俺は慌てて顔をそむける。
少し赤くなっていたかもしれない。
「と、ところでさ。緑奈や小葉子って、一年の時からあんな感じだったの?」
恥ずかしさから、俺はやや早口になっていた。どうせなら話題を思い切り変えればよかったと後悔する。
「知らないよ」
意外な答えを、水沢さんはあっさり口にした。
「そうなの? 水沢さん、やたら二人のことに興味津々だし、もっと知ってるかと思ってた」
「あの二人、有名だからね。でも詳しいことは知らない」
水沢さんが窓の外を見ながら言う。
無表情で何を考えているのか分からなかったが、不機嫌ではないように見えた。




