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夢見の館  作者: トウリン
5/6

 ――捕まったら、終わりだ。終わってしまうんだ。


 無我夢中で脚を動かす晃一(こういち)の頭の中には、グルグルとそれだけが巡る。


 『何』に捕まってしまうのかは判らない。

 『終わった後』に何が待っているのかも、判らない。


 だが、とにかく逃げ続けなければいけないことは、判った。


 走って、走って、走って。


 自分がこんなにも走れることを、晃一は今まで知らなかった。

 廊下を駆け抜け、階段を上り、扉の先にある朽ちた家具の間をすり抜け、また階段を下り。

 けれども、どんなに走っても、どこにも行き着かない。

 最早、自分が何を求めて走っているのかも判らなくなっていた。

 また、扉だ。

 殆ど縋りつくようにしてそれを開けると、よろよろと部屋の中に転がり込み、ついに晃一は膝を突く。


(もう、無理だ。もう、走れない……脚が動かない)

 ゼイゼイと荒い息は、気管を通る度に焼け付くようだ。

 自分の呼気で埃が舞い上がるのも頓着する余裕なく、晃一は床に突っ伏す。耳に届くのは、自らの呼吸音のみだ。

 次第にそれも落ち着きを取り戻し、また、静寂が戻り始める。あのクスクスと笑う声も、聞こえてこなかった。

 最後の大きな息を吐き出し、晃一は顔を上げる。

 と、入ってきた時には気付かなかったが、その部屋には等身大――いや、それ以上の大きさの鏡が掛けられていた。普通、鏡というものは年月で劣化してくものだろうに、その表面はツルツルと輝き、曇り一つ、ヒビ割れ一つ入っていない。大きな鏡は部屋全体を映しており、まるでその向こうにもう一つの世界があるかのようだった。


 ――そこに入ってしまえば、もう追われなくて済むのだろうか。


 それは全然解決になっていないのだが、晃一の頭の中をそんな考えがよぎる。とにかく、ここがイヤだった――早く、ここから抜け出したかった。

「もう、何でもいいから、ここから出してくれよ……」

 半ば絶望的な思いで、晃一はそう呟く。


 と、その時。


 『クス……クスクスクス』


 また、耳に忍び込んでくる、その声。

 晃一はぎくりと身体を強張らせ、ハッと顔を上げる。

 視界に入ったのは、鏡の中の世界。

 研き上げられた鏡の中に映し出された戸口に、身体を半分隠すようにしてこちらを覗き込んでいる、少女の姿。真っ暗なのに、それは奇妙に浮かび上がって見える。

 その顔は、陰になっていて良く見えなかった。

 けれども、晃一には、少女が微笑んだことが判る。彼女は確かに、微笑んだ――嬉しそうに、ゆっくりと。

 晃一は瞬時に振り返ったが、そこには誰もいない。


(見間違い……? いや、そんな筈は……)


 もう、何もかもが信じられなかった。目に見えるものも、耳に入るものも。どれもこれも、信じたくなかった。

 今、自分は温かい布団にくるまれているのだ。

 そう思えたら、どんなに幸せなことだろう。

 きっと、一生、この世界の全てに感謝して生きていける。物凄い聖人君子になってみせるさ。

 そう、自分を嘲笑いながら、晃一は首を元に戻す。


 刹那。


「――っひ!」


 ひくついた彼の喉から、引きつった声が漏れた。思わず尻餅を突き、そのままずり這いで後ずさる。

 彼の目は、『ソレ』を捉えていた。つい一瞬前までは曇り一つなかった鏡面に書き殴られた、赤い文字を。


 『にげないなら、つかまえちゃうよ』


 まるで、たった今、書かれたのだというように、最後の文字から赤い雫が滴っていく。その『塗料』がいったい何なのかなど、知りたくなかった。


「――!!」


 声にならない悲鳴を上げながら、晃一は四つん這いのまま、戸口を目指す。ヨタヨタと不恰好な這い這いで数歩進み、つんのめりながらも立ち上がった。

「もう、イヤだ……誰か……誰か……」

 体力は、もう限界だった。もう、歩くことすら難しい。けれども、晃一は、走った――そうしなければ、捕まってしまうから。

 フラフラと、酩酊しているかのように壁にぶつかりながら、走る。

 廊下を駆け抜け、階段を上り、扉の先にある朽ちた家具の間をすり抜け、また階段を下り。

 何枚もの扉を数えるのもイヤになるぐらい、くぐった。

 いつまでもいつまでも変わらない光景。

 だが、そうして辿り着いたその部屋の窓から見えたものに、晃一は天にも昇る気持ちになる。大きく開け放たれた、外へとつながる窓。

 外から見た時には、全てにベニヤ板が打ちつけられていた筈だということは、頭の中から消え失せていた。彼の思考の全てを占めているのは、目の前にある光景のみ。


 窓の外、そこに見えたのは、白黒の車体に赤いランプの冠を載せた、確かにパトカーだった。


「やった……やった! 捜しに来てくれたんだ!」

 戻らない息子を案じた両親が要請したのか、古びた邸に入ったきり出て来ない友人に不安を覚えた伸介が呼んだのか。それはどうでもいい。

 迎えに来てくれたのだということのみが、重要だった。

(これで、ここから出られる……これで……)

 この際、ここ以外の場所であれば、もうどこでも良かった。

 警察に連れて行かれてこっぴどく叱られようが、なんだろうが、構わない。

 晃一は、転がるように窓辺へ駆け寄る――駆け寄ろうとする。


 だが、しかし。


 彼が部屋の中央辺りまで差し掛かった時、それは始まった。まるで彼の喜びを嘲笑うかのように、バン、バン、バンとけたたましい音とともに次から次へと窓の鎧戸が閉ざされていく。

 何とか追いつこうと力を振り絞って晃一は窓を目指すが、最後の一枚は、まさに彼の鼻の先で閉じられた。


「何で……何でだよぉ!! おい!! 俺はここだ! ここにいるんだ!」

 晃一は、力任せに鎧戸を叩き、声を張り上げる――何度も、何度も。声が嗄れ始めても、やめなかった。

「何で……何で気付いてくれないんだよ!?」

 鎧戸の隙間から覗いてみても外の様子は全く変わらず、外から叩き返される事も、安否を気遣う声が掛けられる事も無かった。

 部屋の中にいる晃一の鼓膜は、戸を叩く音で痺れきっている。それなのに、外にいる者は全然気が付かないのか。だが、そんな疑念が彼の胸中をよぎった時。


 『クス、クスクスッ、キャハハハッ。もっとあそぼうよぅ』


 両手を叩いて笑っているような声が、晃一の背筋を撫で上げる。

 不可思議な現象の理由など考えている暇はなかった。とにかく、早く自分がここにいることを教えなければ、皆が行ってしまう。

 晃一は身を翻して部屋を出る。


(どこか……どこか無いのか……?)


 廊下を駆け抜け、階段を上り、扉の先にある朽ちた家具の間をすり抜け、また階段を下り。

 自分の後を、パタパタと軽い――それこそ小さな子ども程度の重さの――足音が追いかけてきていることに、晃一は、もう気付かずにはいられなかった。


 バタバタバタ。


 パタパタパタ。


 それは時折遠ざかり、そして、また、すぐ近くに迫る。

 晃一の顔は、涙とも鼻水とも汗ともつかないものでぐちゃぐちゃだったが、拭うことなど微塵も思い浮かばない。

 長く真っ直ぐな廊下を走り、殆ど体当たりするような勢いで扉を開ける。


「あ……」


 目に飛び込んできたその光景に、晃一の足が一瞬止まった。

 また、同じことになるのか……?

 ぬか喜びになることが怖くて、わずかなガラスの残骸が残るのみのその窓に、すぐには近付くことができなかった。また、先ほどと同じように鼻の先で閉ざされたら、もう耐えられない。

 晃一は、一歩一歩確実に踏み締めるように近付く。何度階段を昇り降りしたか覚えてはいなかったので、今、自分が何階にいるのか把握していなかったが、見える風景から察するに、二階程度のようだ。

 やがて、晃一は辿り着いた――外の空間とつながる、その窓へと。

 すぐ目の前に立っても、やはり、ガラスは無い。鎧戸が閉まることもない。

 眼下に見えるのは、一台のパトカーと伸介と二人の警官。

 晃一は、身を乗り出して、声を張り上げようとする。


 が。


「何だよ……何なんだよ、これ!」

 窓ガラスはない。

 鎧戸もない。

 何もない。

 だが、彼の身体は、窓から外には出られない。


 先ほど鎧戸を叩いたように、晃一は、その何も無い空間に自分の拳を叩きつける。そこには確かに何も存在しておらず、彼のその手にも何も感じることはないのに、見えない壁があるかのように跳ね返される。


「伸介! オレはここにいるんだ! 気付いてくれよ!」


 喉から血が出そうなほどに叫んでも、警官と向き合っている友人は、チラリと見上げることすらしない。

 下の三人にとっては、自分はいない存在なのだ。

 晃一は窓枠に縋り付きながら、ズルズルとその場に崩れ落ちる。


「何で……何で……何で……」

 何度も何度もそう呟きながら、頭を抱えてうずくまる。

 こんなところに、来なければよかった。今更そんなことを言っても、もう、どうしようもない。けれども、晃一は、そう思わずにはいられなかった。

 もう一度、あの時の部室に戻れるのであれば、その時の自分を殺してでも引き止めるだろう。

 だが、それは、不可能なことなのだ。

 自分は、もう、ここにいる。

 自分は、ここから、出られない。

 もう、逃げられないのだ。


 絶望と諦めが、押し寄せる。


 その時、不意に。


 晃一の全身がゾワリと粟立った。皮膚の全てが、ザラザラと怖気を帯びる。


 パタ、パタ、パタ……。


 耳に届く、近付いてくる軽い足音。

 顔を上げてはいけない。上げたくない。自分は、『それ』を見たくない。

 どんなに身を縮めたところで、けっして『それ』から逃げられないことは判っていた。けれども、彼は、まるで甲羅の中に逃げ込もうとする亀のように、全身を小さく縮める。

 足音は、晃一のすぐ前で止まる。固く閉じていた目を薄っすらと開けると、真っ赤なエナメルの小さな靴が見える。


 『みいつけた』


 まるでかくれんぼでもしているかのような、その言葉。


 『もう、にげないの?』


 いかにもつまらなそうな声で、『それ』が言う。

 逃げたいけれども、逃げられないんだ。

 晃一はそう答えたかったけれども、凍りついた声帯は、ヒュウ、という音を立てるのみだった。


 『じゃあ、おしまい』


 可愛らしいその声を最後に、晃一の全ては、闇に堕ちた。


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