承
闇の中に佇むその洋館は左右対称にできており、真ん中にある観音開きの玄関の扉のせいか、まるで大きく口を開けて獲物を待つ何かの生き物のようだ。
鉄格子の門扉のこちら側に立って屋敷を一望した晃一は何故かそう思い、バカなことを、と苦笑いする。多分、先入観だ。変な噂を先に聞いていたから、気味が悪く思えるだけだ。
「よし、行くぜ」
「おう」
スマホを構えた晃一の合図で、伸介が門扉を押し開ける。そこに鍵はかかっておらず、耳障りな錆付いた音を響かせながらも、意外なほどスムーズに動いた。
門から屋敷までは、石畳が続いていた。庭には樹や雑草が生い茂っていて、懐中電灯を向けてみても、奥の方を見渡すことはできない。
玄関まではそこそこの距離があった。両開きの扉の前に立った二人は、ノブに手を掛けて揺すってみる。それは当然、開いていなかった。
「どうする?」
「どっか窓が開いてるんじゃねぇの?」
そう答えながら、晃一は先に立って歩き出す。壁に沿って足を進めて窓を覗き込んでも、どれもこれもベニヤ板が打ち付けてあった。
「こりゃ、ダメかな……」
屋敷の半分ほどを回った辺りで、伸介が呟く。当たり前と言えば当たり前かもしれない。そんなに簡単に入れるようなら、浮浪者のいい住処になってしまう。
「やっぱ、別のネタを探すか?」
「そうだなぁ、仕方ないか……」
晃一が諦め混じりの声で呟いた時だった。
キイィ……と、微かな音が二人の鼓膜を震わせる。
「ちょ、あれ……」
伸介が指差した方に晃一も目を走らせる。
それは、勝手口なのだろうか。正面玄関の豪華なものとは打って変わって質素な扉が、小さく揺れていた。
「――どうする?」
「どうするって、決まってるじゃん。何の為に来たんだよ」
突然及び腰になった伸介に、晃一は呆れた目で返した。ジャーナリストというもの、ビビッていてはいい記事は書けない。多少の危険など、むしろ望むところだ。
振り返りもせずに先に立って歩き出した晃一を、伸介の足音が追ってくる。何だかんだ言って、彼も興味津々なのだろう。
薄く開いた扉をそっと引き、晃一はそこから身体を滑り込ませる。
数歩進んだところで、カチリとドアが閉まった音が晃一の耳に届く。ミシミシと、自分のものの他にも靴音が続いていたから、伸介も入ってきているのは判っていた。
しばらく進むと、真っ直ぐに伸びる廊下に分岐が現れた。廊下に十字路など、始めて見る。学校ですら、ない。
どうやら、外から見た感じよりも、かなり広そうだ。
「すっげぇな。どんだけ広いんだよ。伸介、どうだ? 興奮するだろ?」
どちらに進もうかと三方向に懐中電灯を向けながら相棒にそう声をかけたが、返事が無い。
――なんだよ、ビビッてんのかよ。
笑いながら、振り返る。
彼の動きと共に滑る懐中電灯の光。
「伸介?」
あちこち照らしてみる。
マグライトの強い光は入ってきた扉まで届いたというのに、それが友人の姿を浮かび上がらせることは無かった。
「おいおい、逃げたのか……?」
てっきり付いてきているのかと思ったら、足音は、自分のものの反響だったのか。
一瞬、晃一の中に自分も戻ろうかという迷いが走る。だが、何も得ることなく帰るのも悔しいし、何か適当に話を作るにしても、ある程度のリアリティは欲しい。その為には、中の様子をしっかりチェックしておかなければ。
逡巡はすぐに失せ、晃一は、意を決して再び歩き出す。
薄汚れた廊下に、ポツリポツリと並ぶ扉。その中を覗き込みながら歩いた。
屋敷の中は、彼が思っていて以上に広い。
(――て言うか、広すぎないか?)
晃一も家の構造やら何やらに詳しいわけではないからよく判らないが、外から見た感じとずいぶん違うような気がする。確かに左右に広がる造りはしていたが、入ってからこんなに延々真っ直ぐ進める者だろうか。
首をかしげながらも、晃一は暗い廊下を懐中電灯の明かりを頼りに進んだ。時々現われる扉を、順々に開けながら。
何番目の扉だったか、覚えていない。とにかく、他のものよりも少し大きめなヤツを押し開いて覗き込んだ先にあったのは、食堂だった。古そうなダイニングテーブルに、椅子は四脚。住んでいたのは四人家族だったということか。
「ここにするかな」
晃一はナップサックをテーブルの上に下ろすと、中を漁る。取り出したのは、茶色のペンキだ。
「ちょっとぐらいの『演出』は必要だよな。どうせこんな廃墟なんだし、多少汚したってたいして変わらないだろ」
何となく呟いてしまうのは、誰に対する言い訳か。
晃一はペンキの蓋を開けて、床や椅子の上、黄ばんだテーブルクロスにぶちまけていく。
「『ソレ』っぽく見えるかな」
いい感じに光が当たるように懐中電灯をセッティングし、数歩下がって、出来栄えを確認する。スマホの画面で覗いてみると、いかにも『惨劇の館』という感じだ。
「打ち捨てられた洋館。褐色の染みの残るダイニングルーム。果たして、そこではかつて何があったのか――とか、な」
どんなタイトルにしようかと頭を回しながら、証拠写真を撮るべく、再びスマホを構える――が。
「?」
ファインダー越しに見る部屋の様子に、どこか違和感を覚えた。
いったい、何が変なのだろうか。
晃一は首を捻って考えた。マジマジと眺めて、気付く。
――色、だ。
彼が持ってきたペンキは、茶色だった。古い血は茶色くなると思ったからだ。それなのに、いまマグライトの光の輪の中に見えているものは、『赤』だ。妙にヌメッとした、『赤』。それは、光の加減などではない。
それに、この、臭い。
(ペンキって、シンナー臭いもんじゃないのか?)
少なくとも、晃一はそう認識していた。だが、今、彼の鼻に届くのは、もっと、こう……。
多分、それは、今までに嗅いだことがある臭いだ。だが、その正体を、今は思い出したくない。
晃一が無意識のうちに半歩ほど後ずさった時、テーブルクロスからその『液体』が滴り落ちて、ピチャリと水音を響かせる。
ピチャン、ピタ、ピタ……。
妙に耳に障るその音に、晃一の背筋を何かが駆け上がっていく。
不意に、コロコロと転がったライトが、床に落ちる。ライト自体の丈夫さと敷かれている分厚い絨毯のお陰で壊れずに済んだが、代わりに舞い上がった埃に、くしゃみが止まらなくなる。
「うぅ、くそ!」
ひとしきり出すものを出した晃一は、毒づきながら目尻の涙を拭った。
そうして、床に転がったままのライトを拾うと、少し躊躇った後、光をそこに向ける。目の当たりにする前に、無意識のうちに口の中に溜まっていた唾を呑み込んだ。ゴクリ、という音が不自然なほどに大きく聞こえる。
ゆっくりと滑っていく、光。
「――……何だよ」
照らし出されたのは、何の変哲もない茶色のペンキだ。そう、ペンキ以外の何物でもない。気付けば、長く嗅いでいたら酩酊してしまいそうな独特の臭いが辺りに立ち込めていた。
「はは……ビビりすぎだよな、俺」
そう、自分で自分を嗤ってみたが、気は晴れない。
――もう、止めておこうか……。
そんな臆病風が、晃一の中をかすめていく。だが彼は、頭を一振りしてそれを払い除けた。
「ジャーナリスト志望がこんなんでビビってどうすんだよ」
晃一の夢は、バリバリキケンなところに踏み入って、世間にアッと言わせるようなジャーナリストになることだ。こんな『オバケ屋敷』ごときで怯んでいたら、とうてい叶わない。
自分自身に喝を入れ、再びカメラを構えた。手早く数枚のカットをメモリーに収め、ざっと出来栄えを確認するとナップサックを手にして早々に退室する。
一瞬、もう一度、あのペンキを見ておこうかと思ったが、そんな必要はないさ、と自分自身を納得させる。別に、ただのペンキなのだから、と。
「そうだよ、見たって何も変わらないさ」
そう呟いて部屋を出て、扉をきっちり閉める。他の部屋は中を確認した目印にわざと開けっ放しにしてきたが、何となく、ここは締めておきたくなったのだ。
閉ざされた食堂の中、まだ乾く気配のないペンキが、フルフルッと細波を立てる。
室内を振り返ろうとはしなかった晃一には、茶色のペンキがスウッとどこかに吸い込まれるように消えていく様を、目にすることができなかった――しないで済んだ。