卒業と恋愛「それでも彼女は、俺の大事な人」@小野チカ
「なぁー、頼むよ。この通り!」
「嫌だよ、面倒くさい」
大学の敷地内にある学食は、学生だけではなく一般の人も利用できる。昼間のこの時間帯は色んな人でごったがえしていた。上手いし、安いのもあるけど、小奇麗なのもウケてる理由だと思う。清潔第一。これを外して流行る店なんてない。
俺は日替わり定食を頬張りながら、隣で拝み倒している友人に適当に答える。
お、上手いなこの鯖の味噌煮。
俺は婆ちゃんと同居してたからか洋食より和食が好きだったりするんだけど、こう言うと必ず“顔に似合わない”って言われる。ほっとけ馬鹿野郎。
婆ちゃんだったか爺ちゃんだったかの親が外人だったとかで、俺の顔は少し日本人離れしていた。ハーフかと聞かれることもあるけど、曾孫か玄孫に当たる俺をどう呼ぶのかは知らない。むしろ興味ないし。
「なんでそんなに隠したがるんだよ!」
「別に隠してないよ」
「じゃあ、なんで写メすらないの!?」
何故か逆切れに走った友人の叫びに俺は顔をしかめる。綺麗に放物線を描いて飛んだ唾から昼食を守るために、トレイごと横に移動した。汚いな。鯖に謝れ。
大学の入学式でやたらと絡まれたのがきっかけで、この友人とはもうすぐ半年の付き合いになる。ちょっと馬鹿だけど、人見知りせず、いつも明るいムードメーカーだ。ちょっと馬鹿だけど、お祭好きでイベント考えるのなんか天才的だし、顔も広い。ちょっと馬鹿だけど、愛嬌がある。
ちょっと馬鹿なところが残念なだけで、いい奴だ。
やたら俺の彼女を見せろというところ以外は心の底からいい奴だと思っている。
「撮る雰囲気になったことがない」
味噌煮に添えられていたネギを箸で掴んで口に入れる。あーうまい。幸せ。
咀嚼しながらその幸せをかみ締めていると、あれだけ五月蝿かった友人が黙った。視線をそちらに向けると、友人は微妙な顔をして固まっている。どうしたんだろう、ついにちょっと馬鹿が普通の馬鹿にレベルアップしたか?
「……どう生活したら撮ろうってならないのか、俺には理解できない」
「そのプリクラだらけの携帯の方が、俺には理解できないけど」
女子か、女子なのか、といいたくなるほど、友人の携帯には隙間なくプリクラが貼られている。ご丁寧に彼女が変わる度に剥がされ、また埋まるのだからその器用さと執念には感服するばかりだ。「暇なんだね」と声をかけた時にすごい形相で「愛ですけど、何か?」と言われたのは確か梅雨頃の話だった気がする。
「…………やっぱりブスなんだ。関の彼女。それだけ見せたくないってことは、相当ブスかデブなんだ」
「じゃあ、そういうことで」
「えー!! 嘘だって、ごめんって。見たいー。見た過ぎるー! ハチ公だっけ、あだ名からして可愛いよね、素敵だよね!!」
ハチ公というあだ名を持つ俺の彼女は、その名前から思い出されるような健気さや可憐さはない。俺が待つことはあっても、彼女が待つことは今までに一度もない。それが化粧や髪型が気に入らなくってとかなら、まだ女らしいのかもしれないけれど、理由が理由なだけに腹が立つ前に呆れてしまう。
彼女の並々ならぬ“アレ”への愛の深さに、心底呆れてしまうのだ。
「必死に取り繕っても、ないものはないんだから見せられない」
「そこをなんとか!」
関様神様仏様、とか意味のわからない言葉をぶつぶつ唱え始めた友人を無視してご飯をかきこむ。彼女はブスでもないしデブでもない――――と思う。世間一般がどう思うかはよくわからないけど、俺にしてみれば誰よりも可愛い。ちょっと変だと思うことはあるけど、それも彼女の長所だ。
「お前等昼間っから何やってんの? まさかまだ関の彼女の話してんのか。植っちも頑張るねぇ」
よぉ、と手を上げながら俺の向かいに座ったのは、西尾だ。
元バレー部なだけあって、無駄に身長が高い。百八十を超える俺だって見上げる百九十八センチだ。俺と西尾の間に百七十センチのちょっと馬鹿な友人、植田が並ぶと捕らえられた宇宙人のようになる。牛乳が好きな植田と苦手な西尾と俺。どうしてこうなったのか、結局は遺伝子の問題かと議論したのも春のことだ。
「西尾~!! いいとこに来た。説得手伝って」
「嫌だ、面倒臭い」
「即答かよ!」
ギャーギャー騒ぐ植田をそのままに俺は味噌汁を飲み干した。うん、上手い。よく取られたダシがきいている。
「西尾の彼女だって二ヶ月前には会わせてくれたじゃん。後は関だけだよ? 見たいって思うのが普通だよね?」
「そうか? 俺の彼女は同じ大学だから見かけることもあるけど、関は違うし仕方なくね」
自販で買ってきたらしい缶コーヒーのプルタブを開けながら、西尾は素っ気なく返事する。ナイス西尾。流石高校からの付き合いだけある。
「関の彼女見たいー! 大学一イケメンと呼ばれる関が、どんな美女の誘惑にもなびかず一途に好きな彼女って気になるじゃん。西尾も気になるだろー?」
「別に? 俺知ってるし」
「あー、同高だもんね西尾たち。いいなー、ずるいー!! 俺もみたいー!!」
だだっ子のように手足をばたつかせる植田に俺と西尾は無反応だ。この半年で、こんな流れが何度もあった結果スルー力が随分鍛えられたらしい。
「……何か言ってよ二人とも」
「植田、うるさい」
「植っち、黙れ」
「ひどいー!!」
机につっぷして泣きまねをする植田を尻目に、俺はトレイを片付けに席を立つ。
その帰りに外の自販でコーヒーを買って、また西尾たちのところへ戻った。そういや彼女はレポート地獄を抜け出したのだろうか。二週間ほど前からゼミのレポートと課題が立て続けに締め切りで、「目からケチャップ出そう」とか、意味わからないことを言っていた気がする。多分その三日くらい前からナポリタンにはまったとかで、ケチャップを過剰摂取していたからだろう。彼女は、人との観点が少しずれている。そして、ハマったらそれに一直線なところがあった。
時には本気で、俺を忘れているんじゃないかと思う程、真っ直ぐに。
「なぁ、関。隠し撮りでもいいから、撮ってやれよ」
何を言われて絆されたのか、西尾が席につくなりそう言ってきた。
「は? なんでそうなったの」
「もう、うるせーもんコイツ。俺にあの馬鹿みたいに重い卒業アルバム持って来いとか言うんだぜ、ありえん」
「だって見たい」
それはまぁ……俺でも頼まれたら拒否る。高校はいわゆるマンモス校だったから、クラスが十二クラスあった。アルバムの分厚さだって伊達じゃない。っていうか、なんでそんなに人の彼女が気になるんだ。
「これだけハードル上げられると、本当に見せにくいんだけど。隠し撮りとか俺彼氏なのに可哀想じゃない?」
「じゃあ連れてきてよ。別に紹介しろなんていわないからさー」
口をとんがらせて植田が言う。だからお前は女子か。可愛くないわ、男のとんがり口なんて。そう思って彼女が唇をとんがらせたところを想像しても、あまり可愛くなかった。うん……これはやる人を選ぶ仕草だな。
そんなくだらないことを考えながら、あぁそういえばと思ってズボンのポケットに手を突っ込んだ。どちらにせよ、今日は彼女に会わなきゃいけなかった。今まで忘れてたけど。
「いいよ、今日帰りに会う予定だったし」
さも前から決めてたかのように言いながらプルタブをあけると、プシュっと圧縮された空気が外に放たれる。湯気のたつコーヒーに口をつけながら、きらきらした瞳でこちらを見る植田が気持ち悪いと思った。
「さすが関様、王子様」
王子様だなんて妙なあだ名、きっと彼女なら大笑いしてあり得ないと言うだろう。俺だって最初、腹を抱えて笑った。俺も彼女も、王子様と言って思い浮かぶのは白タイツに青と黄のストライプの短パンだ。勘弁してくれ。俺はそんな服を着る趣味はない。西洋系の血を日本人が好むことは知っているし、この見た目からカッコイイだのイケメンだと言われるのにはもう慣れた。装飾品のように俺の隣に立ちたいと思う女心は、俺には理解できないし、理解する気もない。そう考える俺のことを、彼女は一緒に理解してくれると思う。
「あんまり期待しないでね。あと前もって言っておくけど、俺の彼女少し変わってるから」
そう、少し。ほんの少し、俺の彼女はかわっている。カッコイイ、イケメンだともてはやされていた俺に「がっかり」なんて第一印象を持たれたくらいには変わっている。こんなことを言うと調子乗ってるとか、ナルシーとか言われるだろうけど、口に出さないだけで彼女に会うまでの俺は、確かに調子に乗っててナルシストだった。学校という狭い檻の中で矢継ぎ早にカッコイイ、イケメンだともてはやされて粋がっていたのだと思う。
その天狗の鼻をへし折られたあの衝撃は今思い出しても口に苦いものが広がるのは言うまでもない。人は自分が思っているより他人に興味などない。それを彼女に身を持って証明された。
あるものを愛しすぎていて、俺の存在をうっかり忘れたり、うっかりご飯を二日ほど食べるのを忘れていたり、うっかり瞬きを忘れて乾きすぎて眼科にかけこんだり――まぁなんというか、研究者タイプなのだ。
俺の言葉にきょとんとした植田は西尾を仰ぎ見る。
「ハチ公、天然とか?」
「まぁ確かに、俺の中でも八田さんは変わってる印象あるな」
「え!?」
どこに驚くポイントがあったのか、植田は西尾の声に盛大に驚く。
「ハチ公のハチって、八田のハチなの!?」
「苗字が八田だから、ハチ公って呼ばれてたらしい。俺一緒のクラスになったことないから、よく知らないけど。なぁ、関」
「うん、そう」
「俺てっきり、関に忠実だからなのかと思った」
そう言った植田に、俺は笑う。
「智恵が俺に忠実だなんてあり得ない」
あり得ない。あの彼女に限って。
俺達は一緒にいるとすごく楽なのに、価値観はまるで違う。付き合って三年を過ぎたけれど、智恵が一番愛する物事を俺は愛しいと思えない。逆もまた然りだ。付き合いたての頃に西尾にそういう類のことを言っていたら、お前等すぐに別れそうだなと言われた記憶がある。残念ながら、まだ続いているけど。
そんな過去のことを思い出していたら、目の前で真面目な顔をした植田が俺の顔をじっとみてゆっくりと口を開いた。
「もしくはハチ公に顔が似てるのかと思ってた」
割と本気で、と付け足した植田に、西尾と二人でため息をついたのは致し方がない。
どんな顔だよ。俺は犬顔フェチか。
彼女と出会ったのは高校一年の時だ。結局高校三年間で、一緒のクラスになれたのはこの時だけだった。それなのに、俺と彼女が初めて話したのは、二学期の初めにあった席替えで隣になったからだったのだから、もったいないことをしたと思う。
初めてこの教室に足を踏み入れた時、彼女に見つめられている……というよりは、物凄く観察されている視線を感じたことはあった。けれどもそれは一日二日のことで、俺の頭の中で八田智恵という人はただのクラスメイトの一人という位置づけだった。特に抜きん出た魅力もなく、話したこともない相手。そんな彼女と隣同士になっても、俺は何の感情も湧かなかった。
「よろしくね、関くん」
「よろしく」
それが初めて交わした言葉だった。
ただ、それだけだった。
二人の間に流れる空気は、穏やかで、穏やか過ぎて日常を何かの拍子で変えてしまうようなそんな効果はなかった。登校して下校するまでの間、彼女と交わすのは挨拶だけで、他には何もない。俺も彼女に興味がなかったし、彼女も俺に興味がないようだった。
そんな俺達の空気が変わったのは、席替えして一週間程たった頃の図書室だった。
テスト期間中でもないのに、図書館で勉強している者なんて珍しい。写真部という活動しているのかしていないのかよくわからない部活に所属していた俺は、勉強をするために図書室に向かっていた。来たる十一月に行われる試験のためだ。
そこに居た彼女にも驚いたし、扉の閉まる音で顔を上げた彼女が机の上に広げていた問題集の内容にも俺は驚いた。それは彼女も一緒だったらしい。俺が手に持っている問題集は、彼女と同じ形式で書かれている。
「あれ? 関くんも受けるの? 数検」
「うん。八田さんも?」
実用数学技能力検定。略して数検。英検、漢検と並んで三大検定と呼ばれているものだ。彼女に全く興味のなかった俺は、彼女の成績がどれほどのものか知らないけれど、悪かった印象もなかった。授業中に少し居眠りをしているところを見かけたこともあるし、宿題を忘れていて、休み時間に慌てて解いていた記憶もある。そこまで真面目でもなく、不真面目でもない。そんな彼女が同じ検定を受けるとは思ってもみなかった。
「そう。今度準一級受けようと思って」
そうにっこり笑われて、俺は思わず素っ頓狂な声を挙げそうになった。
準一級!?
俺は自分が手にしていた三級の問題集を無意識に後ろへ隠す。
目安として書かれている基準では、三級は中学校三年生程度の問題、準一級は高校三年生程度の問題だ。同じ高校一年生で、しかも数学が苦手な子が多い女子で、自分より上の級を狙っているということに、男としてのプライドがそうさせたのかもしれない。
“三級程度まで合格すると履歴書に書ける”
そんなうたい文句に惹かれて試験を受けてようとしていた俺は、準一級なんて途方もなく遠い――少なくとも、三級でもうなりそうな俺には遠い――ものだったので本当に驚いた。
「凄いね」
本気でそう思った。三級の問題集を解いていても、一次の計算技能は解けても、二次の数理技能が中々合格ラインで安定しない。要するに基本はいけるのに、応用でつまづくのだ。応用力が俺には足りない。
そんな段階の俺を一段も二段も飛ばしたところに彼女がいるということに、俺は素直に尊敬した。
「関くんは内申のため?」
ずばり言い当てられて、俺は咄嗟に返事が遅れる。図星なのに、何故か凄く恥ずかしかった。
俺は中学の頃から行きたい大学があった。でもそれは国公立で今のまま偏差値を伸ばしても、そこには手が届かないことも知っていた。だから勉強して、少しでもベストな状態で受験するためにも今は内申を上げるために必死だった。
「あー……うん、そう。八田さんも?」
「あ、ごめん。嫌な言い方だったね。他意はないの。気にしないで」
俺が棘のある言い方だったからか、彼女すぐに訂正した。そうやって人の機微に敏感なんだというのは新しい発見だった。正直に言うと彼女がそういう人には見えなかったから。天然そうというか、無意識にとどめを刺しそうな人だと勝手に思っていた。
「私は、趣味なの」
すごくいい笑顔で趣味と言われて、俺は固まった。趣味? 数検を?
「趣味?」
「うん」
「変わってるね」
「よく言われる」
苦笑しながら照れたように頬をかく彼女を、少し可愛いとこの時初めて思った。
「前の席、いい?」
だから、そんな風に声をかけたんだと思う。
「どうぞ」
少し鼻にかかった声が、意外に心地よかった。
それから俺と彼女はよく図書室で一緒に勉強することになった。十一月まであと二ヶ月を切った今、俺達は無我夢中で問題集に向かい合う。時には彼女が俺がつっかかった所を教えてくれたり、彼女がうたた寝をして書き逃した他の教科の板書を彼女が写したりした。
そう、彼女は数検を受けるのが趣味と言ったように、数学以外への熱意が驚く程に低かった。特に国語のテストなんて悲惨そのもので、源氏物語の時など
「女子高生に不倫おっさんの気持ちを汲み取れって無理じゃない?」
なんて変な言い訳をしていた。悪いけど、そういう問題じゃない。
そう答える俺に、彼女はゆったりと笑った。
そんな風にして流れる月日は、決して不快ではなく、むしろたゆたう波に体を預けているような、不安定な中にも妙な心地のよさがあった。他の教科は俺が教えることが多かったけれど、やはり数学は彼女の方が強い。
「二次は応用だけどパターンがあるから、それさえ分かれば難しくないよ。あと関くんは一次のところ割りと点数取れるからって油断してるでしょ。これ本番になると危ないよ。ケアレスミスしないように、一次こそ点数稼がなきゃ」
さすが趣味にしているだけあって、彼女は数学を愛していた。
だから、彼女が初めて同じクラスになった時に俺を観察していた理由が今ならわかる。
「八田さんさぁ、俺のことはじめガン見してたでしょ」
「え!! バレてた?」
「そりゃあ、なんか上から下まで舐めるように見られたら気付くよ、普通」
「舐めてない、舐めてない!! 誤解!」
顔を真っ赤にする彼女は犬の顔がついたシャープペンシルを持ちながら恥ずかしいと言って顔を隠した。芯を出すたびに顔が縦に揺れるそのシャーペンは、彼女のお気に入りらしい。
「それってさ、俺の名前が関孝和だから?」
「……おっしゃるとおりです」
だんだん小さくなる語尾に思わず苦笑する。
彼女の数学への愛は何も数式にだけではない。今の数学を作った人たちも好きだと豪語する通り、彼女は数学の歴史にも明るかった。
***
何の話からそういう質問に至ったかは忘れたけれど、少し前に彼女に尋ねたことがある。
尊敬する人は誰かという疑問に彼女は迷うことなく
「ニールス・ヘンリック・アーベル。有名すぎるよね」
と、どこか恥ずかしそうに答えた。
いや、ごめん。俺その有名人知らない。
「……誰それ」
「アーベル賞って聞いたことない? そのアーベル」
それなら聞いたことがあった。
数学のノーベル賞と言えばフィールズ賞が有名だけれど、そのフィールズ賞とは違って年齢制限がなく、賞金額がべらぼうに高いということで知られている。歴史は浅いけれど、その分記憶に残っていた賞の名前は分かるけれど、その由来になった人物までは興味がなかった。
「じゃあ、日本人では? 誰かいないの?」
俺は大学に行くために少しでも有利になればと数検を受けるような奴だ。数学の歴史には興味がなかったし、多分今後も詳しく調べることはない。ただ、彼女のお陰で少しだけなら興味が湧いた。外人の名前は長いし親近感も湧かないけれど、日本人ならなんとか、と思って尋ねたら彼女は視線を泳がした。泳がした上で濁した。あからさまに話の方向転換をされて気付かない程、俺も鈍感じゃない。
その日、帰ってからすぐインターネットで調べたら呆気なく答えが出た。
関孝和。江戸時代の数学者で多くの業績を残し「算聖」と拝まれた日本数学史上最高の英雄的人物だ。そんなご大層な――世間一般的にどう、とかではなく、彼女にとってきっと偉大な――人物と同姓同名、しかも漢字一字も違わないとなれば、彼女が俺をじっと観察していたことも頷ける。むしろ、これしか理由がない。
***
「がっかりしたでしょ。関孝和と全然似てないから」
「……………うん。ごめん」
そのたっぷりとられた間が彼女の答えだと思った。正直なところがいいなとも思う。ここはそんなことないよと、否定すべきところで、俺の周りにいる女子の大半はそう返しただろうなというのは想像に容易い。高校一年から大学のことを考えて勉強するなんて馬鹿みたい、と思いながらも、笑顔で俺に近付く女子。嫌いじゃないけど、好きにはなれなかった。俺だって、遊ぶときは遊んでる。ただ、学校に行ってる時だけは勉強がしたかった。
「そもそも、純日本人の顔付きじゃないしね」
自傷気味に笑いながら話す俺に、彼女は目をまん丸にして見つめる。
「え? でも関くん、日本人でしょ?」
「血は薄いけど混じってる。曾爺ちゃんだか婆ちゃんだかが外人なんだって」
「そうなんだ。気付かなかった」
ハーフ? と聞かれる程顕著に現れているものを、気付かなかったといったのは彼女が始めてだった。
「マジで?」
「うん。ていうか、勝手に関孝和の子孫だといいなぁとか思ってたから、そういう路線を考えてなかった」
なんだその理由、と言うと、彼女はちっとも悪びれずにごめんねと言って笑った。
彼女の、そういう所を好きだと思った。自分に正直で、嘘がつけなくて、数学を愛する彼女が。
それから十一月の試験が終わって、結果が出て、彼女は落ちて、俺は受かった。でも、放課後の図書室での勉強は終わらなかった。終わらせたくないと思っていたのは俺だけじゃなかったことが、すごく嬉しかったのを覚えてる。
八田さんと呼んでいたのが智恵になって、関くんがたっくんと呼び合うようになった頃、俺と彼女は付き合うようになった。孝和と呼んでもらえないのは、いちいち彼女が赤面して悶えるから。尊敬する人物ではなくとも同じ名前なことがきっかけだったけれど、こんな弊害もあったのかと当時は少し開け悩んだ。そんな彼女との関係は、別の大学に進んだ今でも続いている。
三口目のコーヒーを飲もうとしたとき、俺の携帯に着信があった。ディスプレイには智恵の文字。彼女の両親も数学好きだったためか、智恵の名前はソーニャ・コワレフスカヤという女性数学者から取られたらしい。ソーニャの意味が知恵だから。そのまんまでしょう、と言いながらも気に入っているらしい智恵の名前。
「もしもし。授業終わった?」
『終わったー。たっくんあと二限あるんだよね』
「そうそう。鍵俺が持ってるから、大学まで来てくれない?」
『いいよー。あ、でも一時間もあればいけるから、研究室で時間潰そうかな。一限終わったらまた連絡くれる?』
「研究室で待つの?」
あんまりいい気がしないのは、智恵の通う大学の研究室に割りと若い助教授が居るからだ。見た目もいいらしく、それでなくても少ない女子が一斉に集ったというのだから心配もしたくなる。彼女の愛する数学を究める若い助教授。文系の大学に進んだ俺なんて、立ち向かう刃すらないと弱気になることも多々ある。
『うん。丁度次の課題で気になるとこがあったんだ』
「……いいよ、一限終わったら帰る」
『なんで? 二限目の授業、単位稼ぎなの?』
「いや、数学基礎。でもいいや。また今度出る」
むっとした俺の声色には気付かずに、彼女は力強く否定した。
『駄目! 勿体無い!!』
「もった……え?」
『数学基礎だよ? 大事だから二度言うけど数学基礎だよ? 出なきゃ駄目。絶対駄目。むしろ一時間私が受けたい』
「いや、智恵は毎日受けてるじゃん」
『とにかく駄目。それ捨ててたっくんが帰るなら、私はピッキングして家に入る』
無駄に威勢のいい声で言う彼女の頭を本当に心配した。犯罪だから、それ。いくら自宅でも駄目だろ。むしろ何者。
そこまでして数学を受けさせようとする彼女の、どこが忠犬だろうか。
「ちゃんと受けるから、物騒なこと言わないで」
苦笑しながら返すと、結構本気だよなんて洒落にならない返事が返ってくる。
それから適当に話して電話を切った俺に、植田の視線が刺さった。
「……なに?」
「結構尻に敷かれてるんだね、関」
驚いているのか関心しているのか、植田は珍しいものでも見るような目で俺を見た。
尻に敷かれているというよりは、
「彼女、数学好きすぎるんだよね」
そこの割合が大きすぎると思うんだ。
そう言った俺に、西尾が苦笑する。
結局、高校を卒業するまでに彼女は数検の一級まで取得してしまった。数学だけは常にトップクラスだった彼女はある意味有名だった。可愛くも、美人でもない。むしろ、女性では背が高い方だし、髪の毛だって短いから気の強い活発な女性だと思う人が大半だろう。
けど、俺にとっては誰よりも大事にしたい人だ。
なめらかな肌も、香水をつけなくても清潔な香りがする彼女の匂いも、ピシッとアイロンの当てられたシャツも俺は愛しくてたまらない。
普通、一時間でも早く会いたいとか思ってくれるところじゃないの、と思いながらも、そういうことを思う女の子だったら、俺は彼女を好きになっていない。だけど時々、寂しくなる。男だって好きな女の子に求められると嬉しいものだ。だから、今は少しだけ寂しい。
「いつになったら、数学から卒業してくれるんだろ」
そう呟いてから、そんなの一生ない気がした。
俺が好きになったのは、数学が好きで好きでしょうがない彼女だったのだから。
「ねぇ、ねぇ、西尾。ハチ公ってどんな子?」
智恵を見れると知った植田は、今まで以上に俺や西尾に絡む。そこまで気になるか、友達の彼女って。
「どんな子ねぇ……」
ちらりと西尾に横目で見られて、俺は視線を逸らす。
どんな子と言われれば、智恵は数学が好きすぎる子としかいいようがない。
「尊敬する人がニールス・ヘンリック・アーベルとか言っちゃう子だな」
「……誰それ」
いつかの俺みたいな反応に、俺と西尾は笑う。
何故笑われたかわからない植田だけが、なんで、なんでと慌てていた。
「アーベル賞って知らない?」
そう尋ねた俺に植田は全力で首を振る。元々理数が苦手で文系に来たと言うだけあって、植田は数学がからきし駄目だ。文系大学とは言え、必修の数学の単位ですら毎回頭を抱えている。そんな植田と彼女はどういうやり取りをするのだろうと思うと、少しだけ二時間後が楽しみになった。
「後は、関孝和だっけ?」
「同姓同名の別人だけどね」
そう付け加えた俺と西尾を交互に見て、植田が意味わかんないと声を荒げる。
「だろうね。俺も彼女に出会わなきゃ知らなかったよ」
俺の両親だって、そんな偉人が居たことすら知らなかった。
俺が少しだけ数学を好きになったのも、数学の歴史に詳しくなったのも、彼女のお陰だ。
「じゃあこの間でた課題とか、ハチ公に聞くのがベストかも」
何か課題が出ていたっけと思い浮かべていると、俺がとっているのとは違う授業の課題だった。
「世界の偉人を調べる課題で数学者に当たっちゃったんだよね。まじついてない。くじ運悪すぎって己の運命呪うレベル。世界の三大数学者を理由と共に述べよ、だって。もうまじわかんね」
「俺ならガウス、アーベル、オイラーかなぁ」
「ボイラー? っていうか一人もわかんない」
「ボイラーじゃなくてオイラー。勝手にお湯沸かさないで。あと、アーベルさっき言ったし」
「何? もっと噛み砕いて言って」
「俺は、ニュートン、ピタゴラス、ユークリッドだな」
「え、何? 何なの? 西尾も関も何語話してんの?」
日本語、と言ってのけた西尾に植田が頭を抱えている。頑張れ植田、智恵に聞いたら最悪二時間くらいは説明し倒すぞ。
「八田だったら何って答えるだろうな」
「何だろう。そもそもアーベルと関孝和は入るのかな。神の領域とか普通に言いそう」
「確かに」
俺と西尾のやりとりに植田が眉をしかめる。
何? と尋ねると顔をひきつらせながら俺を見た。
「……ハチ公ってちょっと変わってる?」
「だから言ったじゃん。変わってるよって」
そう言いながら俺は智恵にメールを打つ。智恵の思うアーベルと関以外の数学者とは誰か、と。授業が終わって時間があるのか、その返事は一分もかからずに返ってくる。
数学を愛して止まない彼女のメールは男同士より簡素だ。要件のみ。絵文字なしがデフォルトというのだから、植田の方が女度高そうなレベルだ。
「八田から? なんて返ってきた?」
携帯を覗きこむ西尾が、智恵からの返事を見て固まる。だよね、俺も一瞬固まった。俺達は凡人として正しい反応をしているに違いない。
彼女は本当に、予測できない答えをいつも出す。
そこが面白くて、飽きないんだけど。
「え? なになに。なんて返ってきたの?」
体を乗り出して覗き込んだ植田も同じく固まる。
「…………え? なにこれ」
“0の概念を見つけたインド人”
「さぁ? 俺が聞きたい」
既に名すらないこのインド人がどれだけ凄いのかは俺にはちっともわからない。
それでも彼女は、俺の大事な人。
ちなみに小野は「なにそれボイラー?」と湯を沸かしてしまう植田派です。数学難しい。