バブル時代のDancing
私はバブルの絶頂期を二十台後半の、男の人生のひとつの節目ともいうべき時期に過ごした。こんにちのように「景気回復」だの「デフレ」だのといった言葉が連日マスメディアを賑わすことのない時代、「不良債権」だの「失業率」などという言葉は、まるで臭いモノに蓋をするように、知っていても口に出してはいけない、そんな感覚の時代だった。
最近知り合った千葉の飲み屋のマスターにその当時の話を聞くと、仮に今日十万円使っても明日になればまた十万円入るという確信を誰もが持っていたという。例えば店のナンバーワン・ホステスが一言「あ〜、なんかおいしいラーメン食べたくなっちゃったな」などと言えば、その娘を連れて即、飛行機で北海道まで飛んで評判の札幌ラーメンを食べ、翌朝帰る。そんなことが平気で行なわれていたのだという。なるほど、景気がいい悪いと言うのはこうやって判断するものなのか、と妙に納得させられてしまう話だ。景気がいいというのはカネの回りが速いということなのにちがいない。普段何気なく使っている経済という言葉に妙に具体性が出て、思わず合点がいってしまう。
そのマスター、さらにこんなことも言っていた。当時の成金連中のバーにおけるステイタス・シンボルはなんといってもフルーツの盛り合わせ。近所の八百屋から値切って仕入れたフルーツを切り刻んで砕いた氷の上に載せ、これだけは値の張りそうな豪華な皿に盛り付けて八千円前後で出す。これが幾皿も並んだテーブルには、だいたい土地成金や株成金達がワンレン・ボディコン(なんと懐かしい響き!)の厚化粧ホステスを両脇にはべらせ、王様のように座っていた。
そのマスターもバブル絶頂期にはチェーン店を七軒ほど構えていたのだが、どの店もまさに泡がはじけるごとく手元から消え失せ、今の店を残すのやっとだったというから怖いものだ。
経済に疎い私のようなナマケ者の一般大衆でも、そんな時代の雰囲気にはいつしか感染していたらしい。バブルの象徴ともいうべき某大手通信会社の株を購入しようとして、生まれて初めてクレジットカードなるものを作ったのがこの時期だ。このクレジットカードというヤツなかなかの曲者で、欲しいときに欲しいものを即座に入手できる喜びをいったん知ってしまうと、巷間にいう「サルのマスターベション」のように使いまくってしまう。(何?「サルのマスターベーション」の意味を知らないって?バカな!雄ザルにオナニーを覚えさせるとヤミツキになってしまい、死ぬまで自分のイチモツをしごき続ける、というあの噂のことだよ・・・。)
クレジットカードで買ったブランド物のソフトスーツはゆうに二十着を超え、オートローンで購入した三百万円の2500ccのスポーティセダンを乗り回し(これがまたハイオク仕様!当時のハイオクはリッターあたり130円前後したんじゃなかったかな?)、ロレックスとまでいかぬまでも、スイス製の高級時計をTPOにあわせて三種類はそろえていた。「金融」という商売のありがたみと恐さを身をもって悟り、私は”大人の仲間入り”をしたように思っていた。
これから私は1988年のクリスマスの思い出を書こうとしているのだが、88年と言うとバブルの最先端を行く人たちは、そろそろおれたちヤバいんでないかいと思い始め、本来金融とは無縁だった人々にその雰囲気だけが浸透し始めた時期だったのに違いない。そもそもバブルとは無縁な若い連中がクリスマス・イブの夜に高級ホテルのスイートを1年前から予約し、「私をスキーに連れてって!」とばかりに徹夜で重いスキーをかついで山奥の人口都会、某プリンス系スキー場にせっせと脚を運んでいた。みんなが浮かれきっていた、よき時代だった。しかし、私はそんな時代のクリスマスが嫌いだった。
まだ若かりし頃、私は毎年のクリスマスをがらんとした会社の独身寮で一人、悶々とすごしていた。クリスマスは好きな女性と二人っきりで過ごさなければならない、そうでない者は人間ではない、まさか日本の法律にそんな条項が載っているわけでもあるまいが、独身寮の仲間たちは彼女と二人っきりの時を過ごすため、こぞっていなくなった。さびしいものである。残っている者も何人かいたに違いないのだが、お互いバツが悪く、できれば顔を合わせたくない。
恥ずかしながら、私には、当時も今も「彼女」と名づけうる特定の女性はいなかった。だいたい「彼女」と呼びうる女性とそうでない女性の境界は、いったいどこにあるのか、どこで線引きされるのか。仲間の勝秀に言わせると、「そりゃあ、ヤったかヤらないかに決まってる」とのことだが、それであれば、当時の私にはフィリピン人の「彼女」が大勢いたことになる。しかしその子らの名前も素性も知らないし、顔すら覚えていない。残っている思い出は窮屈な彼女らのアソコに無理矢理ねじ込んで、後でヒリヒリと痛んだイチモツの感覚だけである。
「そりゃお前、”シロ”じゃなきゃあ、<彼女>とは言わないさ。」
勝秀は言う。”シロ”とは「素人」の意味である。「玄人」とは言うまでもなく女性であることを売り物にしている女性のこと、つまり悪い言葉で言えば「淫売」のことだ。私は”クロ”の女性とは何人も性交渉があったが、恥ずかしながら”シロ”の女性との性交渉は27の年まで、一切なかったのである。このような人間のことをわれわれは「しろうと童貞」と呼ぶ。
ともかく私は今でもクリスマスが嫌いだ。同じ理由でバレンタインデーというやつも好きになれない。
バブル時代後半の88年、クリスマスイブは確か土曜日だったはずだ。昼間、例によってレンタルビデオで借りてきた映画を見ていると、勝秀が突然部屋にやって来、
「今日の組合のクリスマスパーティーがあるけど、おまえ出るかい?」
組合とは言うまでもなく労働組合のことだ。会社の組合の青年部が主催するクリスマスパーティーが市内のイベント会場で開催されるのだという。毎年恒例の行事らしいが、もともと私は組合活動にまったく関心がなかったので、これまで一度も出席したことがなかった。
勝秀は言った。
「おれ、去年初めて出たけど、組合色なんてまったくないよ。タダで飲み食いできて、女の子も大勢来るから、合コンがわりだと思えばいいんだ。途中から会場がディスコになる。いちど行っておいて損はないよ。」
どうせ今夜も例年どおりヒマになるのだし、女の子と仲良くなれるか否かはおいとくとしても、とりあえずメシがタダというのは大いに魅力的だ。行くことに決めた。
やや遅れてパーティー会場に着いた時、すでに会場はディスコに様変わりしていた。虹色にきらめくミラーボールの反射光の中、男達は肩の広いソフトスーツに派手なネクタイを締めて目をケダモノのようにぎらつかせながら、女達は濃い眉毛に頬にショッキングピンクの化粧を施し、ワンレン・ボディコンに身を包んみ、タテノリ音楽に合わせHou、Houと奇声を上げて躍っていた。さほどつきあいはないが、どれも会社で一度は見た顔だ。光の渦の中、楽しげに体をくねらせている。いつもはキマジメな顔で、あるいはいかにもつまらなそうにパソコンに向かい、なにやらキーボードを叩いているOL達、すっかり変身しているな・・・。
その中に、真っ赤なボディコンに身を包んだ檜山博美がいた。実を言うと、もしかしたら今日彼女が来ているかもしれないとの予感があった。それがまさに的中した。そう、私がこのパーティーに来た目的はタダメシでもナンパでもディスコでもなく、ただひとつ、彼女に会えるかもしれない、という期待からだった。
彼女は今年の女子大卒新入社員。隣の課に配属されたが同じフロアだったので、居心地悪そうに座っている姿を毎日遠目に見ていた。彼女の色白の面立ちはとても知的に見えた。彼女は周りのOL連中とはどこか雰囲気が違っていた。はっきり言ってしまおう。私は心密かに彼女に憧れていた。毎日彼女の顔を見れるのがうれしかった。会社に入ってこんなに毎日ワクワクしたことはそれまでに一度もなかった。
課が違うので彼女と話す機会はほとんどなかった。初めて話したのはその年のゴールデンウィーク後だったと記憶する。確か社内の事務処理か何かでわからないことを聞きに来たのだ。そう、はじめは彼女のほうから話しかけてきたのだった。
「松田さん、ちょっとお時間いいですか、教えてください。こちらじゃなきゃわからないというもので・・・。」
いつの間にか彼女は私の名前を知っていた。誰かが教えたに違いなかろうが、他に大勢いるわが担当課の中から私を選んで聞きに来たのは、意外だった。彼女の屈託のない明るい笑顔があまりにもまぶしすぎ、私はついどぎまぎしてしまった。
彼女は私の脇に立ち、手に持った書類を開いて「これなんですけど」と質問の箇所を指差した。長い爪に薄いピンク色のマニュキアが光っていた。驚いたことに、彼女は私に体を密着させて来たのだった。くびれた腰のラインがはっきりわかり、化粧のいい香りが鼻をくすぐった。私は思わず股間にほろ硬い快感の疼きを感じ、とても教えるどころではなくなった。答えがついいい加減になる。私のつたない説明に不思議そうな表情で私の目を覗き込む彼女の顔はたまらなく魅力的だった。眉毛をやや八の字にし、口をすぼめ、顔をちょっと傾けて、大きな瞳で私をじっと見つめる。
−このコ、もしかしてオレに気があるんじゃないか?
そんな勘違いの恋を感じた瞬間だった。
話を戻そう。
ディスコを横目に、とりあえず空腹だったのでメシを食うことにした。会場の脇に並べられたテーブルの大皿からいかにもうまそうな料理を取り皿いっぱいに盛る。刺身にハンバーグのデミグラスソースがかかろうがチャーハンにスパゲティのケチャップが混ざろうがおかまいなし。とにかく大急ぎで腹にかき込む。隅のほうでは蝶ネクタイに赤いベストを着たボーイさんが次々と水割りのグラスを作ってはテーブルに並べている。勝秀はメシが早い。私がまだ半分も食べないうちに2枚目の取り皿をたいらげ、水割りをもらいに行った。その隙に、料理をほおばりながら私はディスコ中央にできた人の輪の中から桧山博美を探した。
いたいた。彼女はプロのダンサーのように踊っていた。軽やかな脚さばき、なめらかな腕の運び、躍動感溢れる腰の振り、どれをとっても文句のつけようがなく、明らかに周りと躍り方が違う。私はしばしそんな彼女に見とれていた。知的な雰囲気からは想像もつかないノリだった。意外だった。後で彼女から聞いたのだが、大学時代にジャズダンスを習っていたとのこと。ふ〜む、なるほど。
勝秀が水割りを手に戻って来、ニタニタ笑いながら言う。
「おい、檜山さんの踊り、ヘンじゃね?」
私には上手いと思えた彼女のダンスも遊び慣れた者の目からするとどこかおかしいらしい。そもそもこんな場所でプロっぽいダンスをするのがおかしいということなんだろうな。
腹が満たされて、われわれも踊りに加わることにした。欲望に駆られた勝英はいつの間にか人の輪の中に消えていった。
すでに読者の皆さんのご想像どおり、私はディスコなどまったく好きではない。踊りが好きで好きでたまらないという人が理解できない。私が踊り始めたのは、ただただ檜山博美のそばに行きたいからだった。私は彼女がどこにいるか探しながら、ノリのいい音楽に合わせて適当に手足を動かしていた。
檜山博美は突然私の目の前に現れた。まるで鍛えたDanceを見てくれとでも言わんばかりに腰を振り、小刻みに手足を揺らせて私の目の前で笑顔で躍っているではないか。私と目が合うと、彼女は踊りながらこちらへやってきた。そして私の両手を取り、人の輪の中心へと私を誘った。人の輪の中で、私は彼女と二人だけで踊った。それを見た周りの連中から手拍子が沸き起こった。まいったナ・・・。私はソレナリに踊らざるを得ないはめになった。檜山博美は、いかにも幸せそうな明るい笑顔で私を見つめながら、私の両手を固く握っていた。意外に大きな掌だな、などと私は思った。博美と二人で小舟に乗り、たゆたう人の波の間を漂っているように感じられ、私はこのまま時が止まることを神様に願わずにいられなかった。