ミエネコについて、四野裕(よつやゆう)の一人称
オレとミエネコの出会い。
それは少々変わっていた。以前住んでいた町で偶然拾ったというか、降って来たというか。
確か風の強い夜だった。出版社から原稿を持ち帰るグレイな気分の帰路の、繁華街の高架の下での出来事だったのではないか。
その時、何かが弧を描いてオレをかすめていった気がした。視界の端に不意に何かを見たのだ。
路傍には大きな楠があった。最近、町の植樹にムササビが棲むようになったと聞いていたので、それをちらり程思ったが、その場は気にしなかった。暗がりの上、そもそも出版社帰りのオレというのは原稿の直しばかりを考え、うわの空で道を歩いている。その夜もそうだったろうから。
それに気付いて驚いたのは帰宅後、着替の最中だった。無造作に脱いだパーカーの後部に垂れるフードの中から、ポロリと畳に転がった物があった。それが当時、まだ片手ほどの大きさしかなかったミエネコだったのだ。
始め、それこそムササビかと思った。なぜオレのパーカーにいる?あの時チラッと見えたあれが、これか?何だコイツ?
すると、正体不明のそれはパチリと目をあけて、警戒するオレと目を合わせた途端「ミエ」と鳴いたのだ。それは紛れもなく子猫の鳴き声だった。
仔細は雌の三毛猫だった。推察するに空を飛んでいたのは、高架を走るトラック等から捨てられたからではないか。空をクリクリ舞いながら落下したが、幸運にも強風の上昇気流が、それこそ最後はフワリと浮かせる様に作用して?無事に軟着陸した先、それがオレのパーカーの首元のフードだったのではないか。
思い当たるのはそれ位しかなかった。だとしたら奇跡的な出来事だった。暫くは歩いた筈だが重味を感じなかった、盛んに鳴いていればすぐに気付くのにそれも無かった、なぜだろう。
子猫を眺めてみた、呆れる程にそれは小さかった。既に寝ていた、これまた呆れる程楽しげに。
オレは合点の吐息となった。いと小さき者よ、ただ夢中で眠っていただけか?
元来愛猫家で、当時飼い猫のいなかったオレだった。笑みになって鼻先をちょんちょんと突付き「ミエと鳴いたな?じゃあ、お前の名前は今からミエネコだ」
この時から、オレとミエネコの生活が始まった。
子猫時代の彼女は変わっていた。
一つには、まるで鳴かない猫だった。
始めずいぶん心配した。病気なのか?頭が悪いのか?抱きあげて観察してみると、決して問題がある風ではなかった。くすぐるとこちらが恥ずかしくなる程オーバーに喜んだし、瞳の輝きに虚ろなものはなかった、異状なし。
さては、と感じるものがあった。オレは猫との付き合いが長いのだ。オレの少年時代、両親が無類の猫好きだった我が家は、最盛期に10匹以上の猫が棲む主従逆転屋敷だった。頭のいい猫に限って悪巧みをする事を、オレは当たり前に知っていた。
ミエネコは、観察されていると気付くと、苦しげに目を背ける。猫の正直さという本能で悪事を隠し通せない表れだった。ただ小さな猫なのだ、悪さをする筈もなし?
もしかすると気を惹こうとしているのか?と思い至ったのは、程なくしてだった。
執筆の気分転換に近所を散策していると、偶然、肉屋の前で子猫のくせににゃーにゃー大騒ぎしているミエネコを見かけたのだ。後日肉屋の主人に尋ねてみると。
「おチビさんはお宅の子かい?可愛いね。うちでは昼時にカニコロッケを一つやってるよ。頂戴、頂戴、うるさくってね。そこがまた可愛いんだね」
オレは、彼もまた愛猫家だった事に感謝しつつ礼を言い、確信していた。オレの前でだけ意図的に鳴かない事ができるとなると、ミエネコは相当に我慢強く、高い知性を持っている。可能性に満ちた猫に違いない、と。
だからオレは、彼女には人格・格に近いものがあると想定して、接する事にしたのだ。日々折々に重ね、様々な仕組みや現象について、人に話す以上に分かり易く説明をした。
人の侘しさに、自由を奪ってまで付き合わせる飼い主のエゴというものがある。しかし猫達にそれを強いても彼らは決して屈しない。そんなオレの経験則に照らした上で、ミエネコにあくまで自由で、知りたいのなら事欠かない空気を、提供してみたつもりだった。
果たして今や。ミエネコはほぼオレとの会話を成立させている。これはオレの見立てが正しかったというより、彼女の資質の勝利だった。愚かよりも一つでも利口なほうが身を飾る、命を落とすこともあり得るが。
更に一風変わっていたのは、その棲家だった。すぐ傍に、十分に暖かで清潔で広い猫部屋を用意してやったのに、ミエネコはなぜか、体が入りきれなくなるまで、袖机の一番下の引き出しの中に引きこもって生活していた。狭い空間が好きだったのか、硬さの具合が良かったのか。
理由は判らないが、引き出しを開けると決まってそこにいて、驚いたようにこちらを見上げるミエネコだった。始めの内は双方で面食らった、オレは吹き出していたが。
ただ、いつも『電子辞書』が開いていた気がする。まさか勉強していた?いくらなんでもそれは期待しすぎだった、天才猫じゃあるまし、あり得ない。
変わっていた点の最後の一つといえば、食い意地が張っていたところか。これはどこのお宅の猫達もそうだろうから、エピソードとして語っておく。
彼女にとって初めてのクリスマスの日。目を離した隙に、用意した七面鳥にかぶりと噛み付いて放さなかったミエネコ。獲物の大きさは、優に彼女の身長の2倍はあった。本当に頭の良い猫だろうか、と疑ったものだ。
大笑いしてオレが提唱した教訓は、食べ物はよく噛んで食べなさい、だった。それは今や家訓となって、2人で摂る食事はもぐもぐとよく噛み、咀嚼している。
だからミエネコの食べ方は、決してお皿に顔を埋めてではない。必要なだけ口に含むと顔をあげて、例えばこちらを向いてくちゃくちゃやっている。ほら、噛んでるでしょう?と言わんばかりのようだし、糸目になって、それはまるで、本当に幸せな人にしか出来ない笑顔か、のようだ。
ミエネコの友人の一人は、雌の黒猫だ。痩せっぽっちだが優雅なスタイルに長い尻尾、瞳は薄いエメラルドグリーン、彼女には多分シャム猫の血が入っている。
気が付くといつしか仲良くなったらしく、いつもミエネコと行動を共にしているので、我が家に飼い猫は2匹いると言ってもいい、ただ、彼女は一向にオレになつかなかった。背をなでてもそれを預ける気配がない。尾の先が少し曲がり古傷があるようで、人に虐待でも受けたのか。
この部屋で、長い尾はいつも立てられている。猫の場合尾を立てるというのは、充分にリラックス出来ているという事で、彼女はいわばなつかないという警戒と弛緩を同時に持つのだ。それは猫の特性というより、この黒猫がミエネコ同様、年頃の女の子という証だろう。
彼女にも面白い特徴があった。テレビを観るのだ。特にお気に入りがある、国営教育テレビの「ピタゴラス○ッチ」、そのオープニングやエンディングの、ピタゴラ装置というからくりが、テクニカルに番組タイトルを表示するに至る下りだ。最後に決め台詞が、珍妙な耳なじみの良いメロディで流れる、ほら、あれだ。
黒猫はどんなに遊んでいても、そのシーンが始まると一切を止め、画面の前に急行しそこに心を奪われていた。つまり、彼女もまた知的猫だった(勿論、ミエネコも同様に画面に食い入った。だから本当はどちらが興味をもっているのか特定できないのだが)
数に入れてよいのか定かではないが、どうやらミエネコには異性の友人もいるようだ。
こいつは変わっていて、おそらく白い大猫で、あまり頭がよくなさそう。実はオレも全体像を知らないのだ。
或る日、ミエネコ達がオレを呼ぶので玄関に向かってみると、玄関ドアの郵便受け口に、彼の鼻先と口元が突っ込まれていた。
腰を抜かしたオレだった。オスらしいこいつは、なぜこんな事をしているのだろう?そしてデカイ。口元から想像しても小型犬程はありそうだ。
女性達に目をやると、警戒よりむしろ面白がりつつも退屈している様子で、時々欠伸をしていた。オレは危ないかも知れないと一応皆で非難して。半時ほど後、もういないだろうとそこに戻ってみると、彼はそのままだった。
マスタードソースでも喰らわせてやろうかと、オレは感じつつも、意外におとなしくしている彼に、試しに小皿にミルクを取り鼻先に持っていくと、クンクン、ペロリ、ベロベロベロとやるではないか。
結局その時、こいつはミルク1リットルを、その状況下で舐め摂ってしまった。オレはそのあまりの出来の悪さに、今度は腰を抜かす程笑ってしまった、それは今でも可笑しくて。
彼は時々やってくる。ミエネコがお目当てか、黒猫狙いか、もしかしたらまたミルクにありつきたいのか?
最近になって。
オレは、改めてミエネコに気付く事が多く、我ながら面食らっている。実はそれは、彼女の魂を認めるのならオレだけは陥ってはならない、猫だからという先入観に囚われていたからだと、苦く思うのだ。
彼女は、オレと会話するそれ以上に何かしたくて、努力をしているようだ。
庭先に洗濯物を干していると、盛んに飛びつくが果たして、それは猫らしい仕草だけなのだろうか。子猫時代から昨日も今日も、ミエネコはそれを止めようとしない。遊んでいると見ていたが不意に、自分の仕事と捉えて主張しているようにも見えた。それは当たり前にオレの為に、彼女や妻がしてくれるように。
廊下の雑巾掛けも、始めは雑巾との取っ組み合いをやっていただけだが、考えてみると時々ちゃんと拭き磨かれた場合があって、その先に乱暴に雑巾が転がっているのは、ただミエネコには片付けられないからではないのか。
オレには、独り身の言い訳に飼い猫彼女説をぶち上げて、周囲の不興を買うといった経験が何度かある。それに恥じ入ると感じる事もある人間だ。だが、ミエネコはどうだろうか。そんな事は気にせず、彼女にできる事をやろうとするのではないか、ただ猫らしく。
やはりオレは、深くミエネコを愛していた。