3.海の下の道
ことはさんに連れられて、海辺の遊歩道を歩く。日差しは暖かく、風は涼しい。海はきらきらと輝いていて、空はどこまでも青い。旅をするには、最高の季節だ。
「潮風が気持ちいいですね……あ、神社だ」
道から少し外れたところに、小さな神社が見えた。
「ああ、本当ですね。少し、待ってもらえますか」
ことはさんは立ち止まると、神社のほうに向き直って軽く一礼した。ちょうど、参拝しているかのような、折り目正しい所作だった。
「……あの、寄っていきますか?」
「いえ、いいんです。あいさつは済みましたから」
あの神社が気になるのかなと思って提案したけれど、彼はさらりとそう答えてきた。神社に、離れたところからあいさつ。その発想はなかった。まあ、夢の中の人物なら、これくらい不思議な言動をしていてもおかしくないかな。
……あれ? そもそも、どこからが現実で、どこからが夢なんだろう? 店を出てからはまるごと夢ということでいいとしても、彼と出会ったこと自体が夢?
「どうしました、美羽さん?」
考え込んでいたからか、ついつい彼の顔をじっと見つめてしまっていた。楽しそうに尋ねられて、我に返る。
「あ、えっと、大したことじゃないんです。それより、どこに向かっているんですか?」
とっさに話をそらすと、彼は行く手にある建物を指さした。シンプルなつくりだけれど、白っぽい壁と、一階のところに飛び出している赤い屋根とのコントラストがかわいい。
ことはさんは、まっすぐにその建物に近づいていった。建物にかかっている看板……というよりも、道路標識っぽい何か……に気がついて、首をかしげる。
「関門トンネル人道入口……?」
人道って、何だろう。聞いたことないな。
「関門海峡の下にあるこの海底トンネルは、向こう側まで歩いていけるんです。きっと、新鮮な体験になると思いますよ」
彼の説明に、思わず立ちすくむ。えっと、つまり、徒歩で、海底トンネルを突破して、海峡を渡る……? 確かにそんな体験、したことないけれど……ちょっと怖いかも。
「身構えなくても大丈夫ですよ。場所こそ変わっていますが、トンネルそのものはそこまで風変わりなものではありませんから」
ことはさんに励まされながら建物に入り、エレベーターに乗って、どんどん下っていく。
エレベーターを降りたら、そこはもうトンネルになっていた。二、三人が並んで歩くのがやっとといった幅の、ただひたすらにまっすぐなトンネルだ。傾斜があるらしく、向こうのほうはよく見えない。
「あ、ほんとだ……思ったよりは、普通ですね」
並んで歩きながら、また辺りをきょろきょろと見渡す。トンネルは明るいし、壁にはかわいい絵が描かれている。
しかしどうにも、こう……圧迫感というか、閉塞感というか……。
「ここ、海の下……なんですよね」
「はい、そうですよ。すぐ上に、車が走る道路もあります」
ここは、海底のさらに下で……しかも、上には車がいて……。あ、想像しちゃった……。
「…………聞かなければよかったかも」
このトンネルを十五分ほど歩けば、山口側に出られるとは聞いている。でも裏を返せば、十五分の間ずっと海の底。やっぱりちょっと、怖いものは怖い。何かあったら、逃げ場はないし。
わたしは、別に閉所恐怖症ではない。でも見知らぬ土地の静かなトンネルを、ほぼ初対面の男性とふたりきりで歩くというのは、どうにも落ち着かないものだった。
せめてもっとにぎやかだったら、気もまぎれるのになあ。あるいは、親しい友達と一緒なら、お喋りしながら突破できたのに。
「……人、いませんね」
「たまたま、でしょうね。ここを散歩コースにしている地元の方も多いそうですよ」
「あ、近くに住んでたらそれもありですね。さっきいた門司の遊歩道も、歩いていて気持ちのいいところでしたし」
そっか、ここって生活道路でもあるのか。慣れたら、怖くないのかもしれない。というか、海の底ではあるけれど、安全なんだな。よし、怖がるのは止めよう。……まだちょっと落ち着かないけど。
気を取り直してせっせと歩いていたら、向こうのほうから人影が近づいてくるのが見えた。
先頭は、自転車を押した男性だ。三十代半ばくらいかな。そのすぐ後ろには、同世代の女性と、さらに六歳くらいの男の子が続いていた。みんな、動きやすい格好をしている。
女性と子どもも自転車を押しているから、家族でサイクリングの途中なのかもしれない。
「お父さん、お母さん、待ってよー!」
笑顔の両親とは裏腹に、息子はやけに弱気だ。必死に自転車を押して、父親のすぐ隣までやってきている。
「ここ、こわいよ……」
「大丈夫よ。颯太は怖がりさんね」
おびえる息子、颯太君を、母親が優しくなだめていた。……さっきまでこのトンネルを怖がっていたわたしとしては、あの子にちょっぴり共感できるかも。
父親は家族を温かい目で見守っていたけれど、わたしたちが近づいていくと、笑顔でこちらに会釈してきた。ことはさんがにっこり笑って、言葉を返す。
「こんにちは。家族で外出とは、素敵ですね」
「はい、休暇を取って家族旅行の途中なんですよ」
そう答えた父親が、わたしたちを見てちょっと不思議そうに目を見張る。あ、この表情、わたしたちがどんな関係なのか悩んでるんだ。
そんな反応をするのも、当然ではある。ことはさんは仕立てのいい背広姿で、わたしはセーラー服だ。普通、こんな取り合わせの人間が一緒に歩いていること自体珍しい。
うーん、修学旅行の引率と生徒……にしては、ふたりきりというのが不自然だ。友人にしてはちょっと年が離れてるし、兄妹と言うには無理があるかも。従兄妹ということにすればごまかせるかな?
一歩間違えれば、ことはさんが誘拐犯になってしまいかねない。もっともそうなったら、あの店に逃げ込めばいいのかな?
ああもう、ここは夢の中だっていうのに、どうしてわたしはつじつま合わせに必死になってるんだろう。常識って、なかなか抜けないなあ。
「休みを取って、従妹を案内しているところなんです。一度ここに来てみたかったと言っていたので」
うんうん悩んでいたら、ことはさんがしれっとそんなことを言った。やっぱり、そんな感じでごまかすんだ。
「ああ、そうでしたか。確かにここは、珍しいですしね。私たちも、初めて息子を連れてきたんです」
納得したように父親がうなずき、母親も微笑んでいる。しかし颯太君は、まだべそをかいたままだ。
「珍しいの? ここ、ただのトンネルだよ……すごく長くて……こわいし……」
「あ、それちょっと分かるかも」
地元の人たちには申し訳ないけれど、ずっと代わり映えのしないトンネルを歩くのはちょっと飽きた。それに、海の底だって考えるとやっぱり怖いし。
「お姉ちゃんも、そう思う!?」
わたしの言葉に、颯太君が食いついてきた。
「うん。すっごく長いなあとは思うけど、何もないし、声も足音も変な感じに響くし、落ち着かないよね。ずっとここから出られないんじゃないかって、そう思っちゃう」
「だよね!」
颯太君は、仲間を得たとばかりに顔を輝かせている。嬉しさのあまり、どうやら怖さを忘れてしまっているようだ。かわいい。
「なあ、颯太」
ふたりでうんうんとうなずき合っていたら、父親が颯太君の頭にぽんと手を置いて、さわやかに笑いかけた。この人、スポーツマンっぽいな。そう思わせる笑顔だった。
「確かに、ここは怖いかもしれないな。何もないように思えるかもしれない」
この感じ、きっと彼は何か語り始めるんだろうな。口を閉ざして、様子を見る。
「でもここは、とても素敵な場所なんだぞ」
素敵。そうかなあ。やっぱり、ありふれた場所のような気がする。
「さっき、海辺の遊歩道で見ただろう。ここの海は、とても流れが速くて複雑なんだ」
その言葉に、ことはさんと歩いてきた門司の遊歩道を思い出した。確かに柵の向こうに見えていた海は、見慣れた瀬戸内海よりも荒かったような気がする。
「船で渡るのは大変だし、危険も伴う。だから昔の人は、ここにトンネルを作ったんだ。安全に、たくさんの人や物を渡せるように」
父親は、やけに語りがうまかった。ついつい引き込まれてしまう。
「もっと西に、鉄道用の関門トンネル。さらに、新幹線が走る新関門トンネル」
身振り手振りをまじえて、彼は伸び伸びと説明してくれた。
「そしてここ、車と人が通る関門国道トンネル。たくさんの犠牲を出しながら、それでもこれらのトンネルを完成させたんだ」
「三本もあったんですか……新幹線のトンネルしか知らなかった……」
思わず相槌を打つと、父親は嬉しそうな笑みを向けてきた。その口が、さらになめらかになる。
「そうさ。しかも、一番古い鉄道用の関門トンネルは昭和十七年に開通、一番新しい新関門トンネルですら昭和五十年開通だ」
しょうわ……五十年? それって、西暦何年だったっけ。
話の途中でスマートフォンを取り出すのも悪いかなと思ったので、記憶を頼りに指折り数えてみる。あ、駄目だ、分かんないや。ずっと前だってことだけは確かなんだけど。
「お父さん、ここはいつできたの?」
颯太君も気になったらしく、そんなことを尋ねている。父親は得意げな顔で、さらりと答えた。
「昭和三十三年だ。ざっと七十年前だよ」
「ななじゅう……」
それを聞いて、ふと気になった。そんなに昔に建てられた海底トンネルって、大丈夫なのかな。いきなり崩れてきたりとか……。
不安に駆られて、思わず天井を確認してしまう。つられたように、颯太君も上を見ている。ライトを受けてかすかに青く光る銀色の天井は、何も変わらずに静かにそこにあった。
そうだよね、いくら海底にあるからって、いきなり崩れたりとか、そんなのありえないよね。
ほっと息を吐いたとたん、辺りが一面の青に染まった。




