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そんなニコラの横で、クロノスがケタケタと意地の悪い笑い声をあげる。
「だから言っただろう。観客なんてものはお前の気持ちなんて分からない、分かろうともしないんだよ。」
吐き気がするほど優しい穏やかな声で囁いた。
「だから、劇場に送るなんて夢はさっさと溝に捨てればいい。君の聖域は、君だけのものだ。」
ニコラは、肩を小さく震わせると込み上がる涙を堪えながら逃げるように帰路へとついた。その横をクロノスは満足気な笑みを浮かべて歩いている。馬鹿馬鹿しい承認欲求を捨てた今、ニコラを邪魔するものは何一つない。今すぐあのオットーとかいう劇作家の元に駆け寄って、感謝の意を示したい位だった。ニコラは明日からきっと再び執筆に取り掛かるだろう。そして自分のためだけの大作を書き上げるのだと、そう信じていた。
嗚呼、これは失敗だったな。
クロノスがそう心の中で呟いたのはその翌日のことだった。大きく息を吐きながら部屋に横たわるニコラを見つめる。ニコラは静かに息をするばかりで、その場から動く素振りを見せない。これでは、クロノスに出会う前の廃人に戻っただけだ。
「ニコラ、もうとっくに陽は上りきっている。昼飯の時間だ。」
「お腹すいてない。」
「執筆はどうする」
うーん、と気の無い返事をするニコラに、クロノスは小さく舌打ちをした。どうやら、自分は酷い勘違いをしていたらしい事をクロノスは悟った。劇作家になるという夢が完全に消え去れば、またニコラは筆を握るのだと想像していたが、いざそれが現実になった今、ニコラの創作意欲は枯れ果てて、息をするだけの死体へと戻ってしまった。観客の存在は創作を腐らせるというクロノスの持論は変わらないが、観客を“完全に”消し去ってしまえばいいかと言えば、どうやらそうではないらしい。ニコラにとって、劇作家の夢は創作の原動力だった。叶いもしない、劇作家になるという夢を目の前にぶら下げていたからこそ、ニコラは馬車馬のように走ることができたのだ。船乗りが北の一等星を目印に舵を切るように、ニコラも劇作家の夢を目印に創作をしていたのだということを、クロノスはたった今気づいたのだ。そして、こいつが再び筆を持つにはまた新たな餌を目の前にぶら下げてやらねばならぬという事も。
「ニコラ、少し外に出よう。」
顔を上げないままニコラが答える。
「なんで」
「創作のためだ。それ以外に理由はいらないだろう」
そう言い放つ不満気な声に、ニコラは小さなため息を返した。こうして意味もなく天井を見上げている間、ニコラの頭にはいくつものアイデアが浮かんだ。息をひとつする度に文字が頭に浮かんだ。それでも、それを形にする気にはなれなかった。劇作家になる、という夢が無惨にも砕け散った今、誰のために創作をするのか、なんのために創作をするのかを見失ったしまった。「創作は自分のためにするものだ」なんて、クロノスは言ったけれど、それだけでは私の心は満たされない。いつだって、私の中には「一流の劇作家になれる」と言ってくれた“お兄さん”の言葉がこびりついて呪いのように離れない。
「ニコラ」
私の返答がないことに苛立った彼が再び厳しく私の名前を呼んだ。
もうやめてよ、私には書けないんだ。もう何も書けないんだから。
クロノスが静かに目を細める。
「そうか」
それから間もなくして、彼の失望したような、怒っているような冷め切った声が聞こえてきた。
もう、私を諦めたんだろうか。私を選んだのは間違いだった、選び違いだったことにようやく気付いたんだろうか。そうだよクロノス、間違いだったんだ。創作が私を選ぶだなんて、あるはずがなかったんだよ。だからもう私を切り捨ててよ。「君を選んだのが間違いだった。」って、創作なんかやめてしまえって、そう言ってよ。
うっすらと目を開けると、鋭く開かれたクロノスの碧緑の瞳がまっすぐに私を捉えたのが見えた。
「もう、創作はやめるのか、ニコラ」
クロノスがひどく優しい声で尋ねる。
「うん、やめる。やめるよ」
涙声でニコラがそう返す。
「ならここで無様に天井を眺めたまま腐るがいい。何も残せない、何も成せないまま、全てから逃げてここで屍になるがいい」
クロノスは私に背を向ける。そうだよ、このまま私はここで死ぬんだ。その通りだよ、クロノス。だからそのまま、私を捨ててどこかへ行ってしまってよ。
「所詮、創作への想いとやらもその程度だったんだろうさ。」
そう言い残して、その場を立ち去ろうとしたその時
「待ってよ」
ニコラの声が静寂の中に響いた。ここ数日、死体のように生きていた人間のものとは思えないよく響く声だった。その声に、彼はピタリと足を止める。どうして呼び止めたのか、それはニコラ自身も分からなかった。これで終わるはずだったんだ、創作との不思議な出会いも、オットー先生の言葉も、できあがった戯曲も、全てが夢だったんだ。それだけで済むはずだったのに。クロノスが最後に言い残した言葉だけが、心の奥に重く沈んで行くのがわかった。
「違う、それは違うよ、クロノス」
「どうした、創作はもう辞めるんだろう」
「やめない、絶対にやめない。創作は私の全てなんだ。生涯をかけて、私がやらないといけない使命なんだよ。」
「だって」とニコラは下を向いた。クロノスは、ただ黙って次の言葉を待っている。
「君がそう言ったんじゃないか! 私の使命だって!」
胸の内に溜まった全てを吐き出すように、ニコラが続ける。
「だから私は書くよ。書きたいんだよ、クロノス! 」
そこまで言い切った所で、ニコラはぎゅっと唇を噛んだ。抑えきれなかった雫が、二つの目から零れ落ちる。
二人の間に、長い長い沈黙が流れた。ニコラは肩で息を整えながら彼の返事を待っている。心臓の音がうるさい、今にも体を突き破ってしまいそうだった。永遠のような沈黙の末、彼が返答の代わりにニコラに投げつけたのは小さな手帳だった。ニコラが思いついたアイデアを日頃から書き留めていたものだった。
何が起きたのかわからず、混乱するニコラにクロノスが微笑んで言った。
「外に出ろ、ニコラ。そんな陳気な部屋からは創作は生まれない。」
クロノスがドアを開けると、冷たい風がニコラを外へと誘った。ニコラは笑顔で頷くとクロノスと共に街へと飛び出して行った。
***
「やっぱり、クロノスってすごいんだね」
さっきまでの緊張はどこへやら、ニコラが間抜けな声で言った。
「凄い? あの状態から立ち直ったのは君の力だろうに。」
「でも、君の言葉がなければこうは行かなかったでしょう? だから、やっぱり君はすごいんだよ」
クロノスはニコラの言っていることがまるで分からないという風に首を傾げた。
「次はどんな話を書こうかな? クロノスはどんな話が好み? 私は愛憎劇も好きなんだけど、やっぱり一番は___」
十数日ぶりの外は、ニコラにとってはアイデアの宝庫だった。四方八方に視線を動かしながら、口を動かし、手元では手帳にアイデアを書き留めている。そんな状態で歩いていたニコラは、段々と自分の目の前へと迫る障害物に気づかなかった。ニコラがそのことに気づいたのは、目の前の障害物と激突した後のことだった。石畳に彼女の手帳が叩きつけられる。
「ぎゃっ」と鳴き声をあげながらその場に座り込むニコラ。クロノスが呆れながら彼女に手を差し出した。しかし、ニコラはその手を取らなかった。彼が手を出すよりもずっと前にもう一つの手がニコラの前に差し出されたのだ。




