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私たちが街へと戻った頃には、街全体が暖かな橙色に染っていた。それと相対して太陽が西へ西へと傾くほどに街の気温は下がり続けていく。
ニコラはといえば、劇場を出たあたりからすっかり喋らなくなっていた。何を尋ねても、感情のない生返事しか返そうとしない。何かを考え続けているようで、時折眉間に皺を寄せては小さな呻き声を漏らしていた。 何か、嫌な予感がする。あの劇場が、ニコラの創作を毒してしまった。何か良くないものを植え付けられてしまったのではないか、そんな気がしてならなかった。劇場の出口をくぐる瞬間、彼女の目に感じた炎は彼女の聖域を焼き尽くす業火だったのかもしれない。あぁ、劇場に連れていったのは失敗だったな。とクロノスは心の中で呟いた。
「あ」
短く声をあげたニコラが、一件の酒場の前で足を止める。その酒場は大きなガラス窓から外から店内を覗くことができた。店内では、何人かの大柄な男たちが酒瓶を片手に何やら話し込んでいる。その向こうには、燕尾服を着た紳士たちが何枚かの羊皮紙と、中心に座る眼鏡の男を囲んでこちらもまた何か話し込んでいる様子だった。
ニコラはといえば、その店内に吸い込まれるようにしてガラス窓を眺めていた。時折吐いた息が白いシミを作っては消えていく。
「見て、クロノス。」
「さっきからずっと見ているとも。こんな店に何の用だ。」
「ほら、あそこ、あの人が……」
うわ言のようにそうつぶやくと、窓に指の先を貼り付けて店内を指さした。
ニコラの指の先に居たのは、例の紳士に囲まれる眼鏡の男だった。
「あの人も、劇作家なんだ。 ちょうど今日、あの劇場で彼の作品がやってたんだ。」
「劇場…」
クロノスはその言葉に目を細める。
「あ、あのさ、クロノス。」
クロノスが視線で答えると、ニコラは下を向きもごもごと何かを呟いたあと、何度か深呼吸をして話し出した。劇場の前を歩いている間、輝かしい演目のポスターを眺めている間、そしてここへと来る道中、ずっと考えていたことを。瞳に宿っていた炎の正体を。
「私、やっぱり劇作家になりたい。あの劇場で、みんなの心を動かすような作品を作りたいんだ。だから、私の作品を、劇場に送ってもいいかな。」
ニコラはずっと考えていた。劇場に飾られるあの輝かしいポスターを眺めながら、劇場内に入って行く、期待に目を輝かせた観客たちの背中を置いながら、ずっと、ずっと悩んでいた。クロノスの言った通り、創作は自分のためのものだ。私の聖域だ。頭では理解しているつもりだった。でも、創作のことを考えた時、完成させたあの戯曲のことを考える度、頭に浮かぶのは劇場のスポットライト、割れんばかりの拍手だった。たくさんの人に自分の作品を認められて、あの大舞台に立つことになれたなら、どれだけ幸せなことだろう。その瞬間、私の人生の全ては報われる。そう信じていた。劇作家になるという幼心の夢を、ニコラはまだ捨てられないでいた。そしてその夢は、クロノスの作る閉じられた聖域の中で段々と膨らむ一方だった。
クロノスが答えないうちに、ニコラは続ける。
「そ、それから…ずっと考えてたんだけどね、今の流行りは愛憎劇なんだ。だから、あの作品をちょっとだけ修正して…恋愛ものにする予定だよ。」
「愛憎劇だと?」
思わずそう聞き返した。
「その方が観客にはウケると思うの。」
「観客?」
眉間に刻まれた皺をより深めるクロノスには目もくれず、ニコラは既に“恋愛劇”の構成を練っている。
「きっと傑作になるよ」とニコラは笑った。クロノスは何も言わない。ただ、黙ってニコラを見つめていた。その目は冷えきっていて、彼の中では言葉にしきれないほどの憤りがぐつぐつと煮えたぎっていた。
この女は今、くだらない観客とか言う者の為に、自らのための物語を、聖域を崩そうとしている。
どうやら、この愚か者はこの前ので懲りていなかったらしい。今でもうっとりと店内を見つめて、表現など何も分かってはいない評論家共に囲まれる一人の哀れな劇作家を見てはため息を漏らしている。
今にも溢れそうな怒りを抑えながら、どうしたものかと思考を巡らせるその時、森の方から強風が吹き抜けた。その風に乗り、踊るようにこちらに向かう一枚の紙が見えた。それを手に取り書いてある文字を読もうと羊皮紙に目を通す。かろうじて書いてある文字は読めるものの、塗装はすっかり剥がれ落ちてその形をほとんど保っていなかった。靴の跡、馬車の車輪の痕跡が土色に滲んでいた。きっと、あの劇場がある街の中心部から来たものだろう。私はその紙の絵柄に、確かに見覚えがあった。
あぁ、そうか、これは____
自然と口の端が上がるのがわかった。
「ニコラ」
未だに窓に張り付いている彼女の名前を呼ぶと、ニコラは視線だけをこちらによこして先の要件を聞こうとした、そんな彼女の肩を掴み例の紙とニコラを正面で向き合わせようとした。私の肩の横で揺れるこれは、ただの演劇のポスターはない。創作の死体だ。創作が、誰かの聖域が、観客の元に晒され、踏みにじられた末路だ。そんなものを横目で見るなんて生ぬるい。その両目に焼き付けさせなければ。これが、お前の言う観客とやらのすることだと、そんな観客のために聖域を崩すという考えはどれだけ愚かで無謀な行為かと言うものを突きつけてやりたかった。その瞳に宿る、邪悪な炎を消し去ってしまいたかった。そんな現実を目の前にして、ニコラがどんな表情をするのかを見るのが楽しみでさえあった。しかし、それを見ることは叶わなかった。私がポスターを突きつけるよりもずっと前に、酒場のドアが音を立てて開いたのだ。軋む木製のドアがあげる悲鳴は、窓の中に釘付けな彼女の集中を切らすには十分すぎる音だった。ニコラは開いたドアへと目をやった。そこから一人、黒い帽子に眼鏡をかけた紳士が一人出てくるのが見えた。紳士は白い息を吐き出したかと思えば、ポケットの中に手を埋めて今にも歩き出そうとしている。その紳士を目に捉えた瞬間、ニコラが「あっ」と声を上げてその紳士の元へと駆け寄った。
「あ、あの…!」
紳士は宙に浮かせた足を止めて、ニコラの方を見やる。眼鏡が曇っているせいか、その表情までは読み取ることができない。
「貴方…オットー先生ですよね…! 劇作家の!」
曇った眼鏡の奥にある目が小さく開かれる。
「今回の作品、素晴らしかったです! この話は、主人公が____」
ニコラの言葉は、彼の大きなため息によって遮られた。
「君までそんな事を言うのか」
え、とニコラが小さな声を洩らす。
「もう十分だ。君みたいな観客に僕の作品を荒らされるのは」
口を閉じたまま動かないニコラに、彼は店の中を指さして続けた。
「あれが見えるかい、あの野蛮な獣たちを。奴らが、私の作品を食い散らかした奴らだ。僕の作品を、社会福祉だのなんだの言って見当違いの批評をしたんだ。」
「僕が書きたかったのはそんなものではないんだよ」と彼は自嘲気味に笑った。
「君にだけは、教えてあげよう。このことを知っているのは、僕と君だけで十分だ。 僕が本当に描きたかったのは、愛の物語なんだよ。どんな力にも負けない、世界でいちばん美しい、愛の物語だ。」
愛、とニコラが小さく呟く。
「それもこれも、奴らのせいで社会風刺作品へと成り下がってしまったがね。 僕はもう筆を折るんだ。もう喜劇も悲劇も書くことはないだろうさ。」
「そ、そんな!」とニコラが声を張り上げた。
「私、貴方の作品が好きで……あなたに追いつきたくて、劇作家を目指したんです、だから……」
「それは、やめておいた方がいい」
彼はニコラを真っ直ぐに見つめて告げた。
「劇作家になる前の方が幸せだった。自分のために、自分の為だけに物語を紡げば良かったのだから。観客の元に晒すなんて、考えるべきではなかったんだよ。今からでも引き返しなさい。」
「でも!」というニコラの声を遮って、彼は続けた。
「君はまだ若い。今からでも他の道を探せるだろう」
それだけ言い残すと、彼はその場を去ってしまった。そんな彼を追いかける力は、もうニコラには残されていなかった。




