3
「なんで……どうして」
ニコラが震えた声で呟いた。そして私の方へ顔を向けると、顔をぐしゃりと歪めて叫んだ。
「君の仕業なんだろ! どうしてこの間みたいにかけないんだ! 」
肉に飢えた獣のような目をして私を睨んでいる。私は呆れてため息をついた。全く、この馬鹿は何も分かってはいないらしい。
「ニコラ、今の自分をよくご覧、酷い有様だ。そんな状態では、言葉も出てこないはずだ」
こちらを見向きもせず、ニコラは机へと向かい続ける。ただ、万年筆を握っている右手は空中で静止し続けていた。彼は、その万年筆をひょいと掴むと、それはいとも簡単にニコラの手を離れた。それに気づいたニコラが彼の方を振り向く。万年筆を取り返そうと四方八方から伸びてくるニコラの手を華麗に避けたかと思えば、ニコラの頭を正面から鷲掴みにした。彼の手は死体のように冷たかった。これ以上彼に近づけないニコラは動かない体の代わりに声を荒らげる。
「何するの! 返して! 返せよ!」
いくら手を伸ばしても、彼の顔の辺りでゆらゆらと揺れている万年筆にニコラの手が届くことはない。彼は、ニコラを見下ろし声を上げて彼女を嘲笑った。
「ひとついい事を教えてあげよう、ニコラ。無からは何も生まれない。」
表情一つ変えないまま、彼は続けた。
「創作というものはお前の一部だ。お前が感じた景色、匂い、感覚、その全てが創作の糧となる。 ただ、今のお前のような空っぽの状態では、言葉も生まれない。創作には、日々の刺激が不可欠なんだよ。」
そう言い終わると、満足したのか彼はニコラの頭から手を離した。その場に崩れ落ちるニコラに、彼は手に持っていた万年筆を彼女に投げつける。
「まずは、その空腹をどうにかすることだな。」
そう言い捨てた彼に見下ろされるニコラは、ぴくりとも動かない。彼女の心の中ではぐるぐると思考が渦巻いていた。
いや、書ける。私には、書けるはずなんだ。創作はアイデアさえ出てしまえば、その後は流れに身を任せるだけだ。大の字になって海に浮かぶようにして、体が思うままに書けばいい。空腹なんて、無いものと同じ。こんな訳の分からない男の言葉なんて無視してしまえばいい。万年筆はある、今すぐ、書けるはずなんだ。だって、あんな素晴らしい作品を書き上げることができたのだから!
そんな事を自分に言い聞かせながらも、答えは分かりきっていた。今の私には、何も書けない。空っぽなんだ、彼が言ったみたいに。体中が重い。胃が悲鳴をあげている。
「ほら、意地を張ったってお前にもわかっているだろうに。」
静かな声が頭上から降ってくる。
「分かってる……わかってるよ」
ニコラが涙声で呟くと、彼は呆れたようにため息をついた。ニコラが顔を床に向けている最中、彼の足音は一度遠のき、しばし聞こえなった後、またこちらへと近づいてきた。戻ってきたかと思えば、ゴトンと鈍い音が目の前で鳴った。ニコラが驚いて顔を上げると、そこには随分前に買い溜めでおいたパンがいくつか転がっていた。状況が飲み込めないニコラは、口を半開きにしたまま床に転がったパンと彼の顔を交互に見つめている。ニコラと目が合うと彼は、苛立ったようにため息を漏らし眉間に皺を寄せる。
「何を見ている、さっさとそのパンとやらを口に突っ込め。書くんだろう」
彼のその一言で、ニコラは金縛りが解けたみたいに動き出した。床に置かれたパンを屑ひとつ残すまいと次々に口の中に放り込んでいく。時折むせることはあったが、ものの数分で全てを食べきってしまった。
そうして、久しぶりに食事をとったニコラの体はひどく満たされていて、さっきまでの嵐が嘘のように心は凪いでいた。久しぶりの静けさニコラは静かに目を瞑る。そうして何度か呼吸をした後、そっと目を開いてみた。部屋は相変わらず美しい静寂に満たされている。つい昨日までは騒音のように感じていた小鳥の囀りも、今では美しい世界の一部に感じられた。
「夢を、見てたのかな」
ニコラはうわ言のように呟いた。もしかしたら、今までのこと全部は夢だったんじゃないかと思えてきた。突然現れた謎の男も、魔法のようにして私が書き上げた戯曲も、その全てが夢だったんじゃないかと思う。少し寂しく思うと同時に、ニコラはほっと胸を撫で下ろした。
「どうだ、ニコラ。ずいぶん気分も良いだろう」
その一言で、ニコラの安心は一瞬にして崩されることになる。ニコラは驚いて、彼の事を見つめていた。彼は、まだそこに立っている。彼女の驚いた表情に彼は首を傾げる。
「あぁ、ごめん…なんでもないよ。」
「そうか。それで? 気分はどうだ?」
「うん、すごく良いよ。とても、静かだ。」
ニコラは立ち上がると、彼に向かって微笑む。
「少し、散歩に行こうか」
***
真冬の冷気にニコラの体が大きく震える。前を見ると、目の前にはどこまでも続く澄んだ青、そして少しの穢れもない白色が広がっていた。そういえば、つい昨日大きな雪雲が街を通り過ぎたばかりだった。息を吸い込むと冷たい空気が肺に広がり、身体中に巡る。息をつけば、白いモヤが目の前で弾けて、そして消えていくのが見えた。「わあっ」とニコラが感嘆の声をあげる。胸の中から、何かがふつふつと湧き上がる感覚がした。その瞬間、彼女の体は動き出していた。なにかに押されるようにして走り出したのだ。風にでもなった気分だった。冷たい風に切られる頬、かじかむ指の痛み、その全てが愛おしい、そんな感覚さえした。走っている間、ニコラは声を上げて笑っていた。床に突っ伏して、死体のようになっていた空白の日々など初めからなかったかのように、無邪気に笑いながら走り続けた。静かな街に、彼女の笑い声だけが響いている。
そしてそのままニコラは街をぬけ、森の中を走った。なんの目標もなく、その命が望むままに、ただ真っ直ぐに走り続けた。ようやく彼女が足を止めたのは、大きな湖の目の前だった。足を止めて、大きく息をつく。湖の水は寒さで凍りついていて、青い空と細い木々を鏡のように映し出していた。そのあまりの美しさに、言葉を失う。
「ねぇ、見て……」と彼に呼びかける。ニコラが後ろを振り向くと、そこには誰もいなかった。一体、あの人はどこに行ってしまったのだろうと首を傾げる。大声で呼ぼうと息を吸い込んだところで、ハッと口を噤んだ。そうだ、あの人に名前を聞くのを忘れてしまったんだ。
途方に暮れた彼女が辺りを見渡し始めた頃、背後から聞きなれた声がした。
「ようやく立ち止まったか。暴れ馬め。」
ニコラは目を輝かせて後ろを振り返った。
「君! どこに居たの! 探したんだよ!」
彼がその問に答える間を与えないまま、ニコラが続ける。
「ほら見てごらん、こんなに綺麗な景色が広がってる……私、こんな景色が好きなんだ」
彼は、ただ黙って彼女の言葉を聞いていた。
「なんて、美しいんだろうね」
うっとりとつぶやくニコラの表情を見て、彼の口元にも笑みが零れた。
「そうだ、確か……君の名前を聞いていなかったね。君、名前は?」
「名前? 生憎そんなものは持っていない。好きに呼ぶといい。」
ニコラは少しの間遠くを見つめたあと、そっと呟く。
「じゃあ…“クロノス”」
「クロノス?」
「そう。私が…いや、君が書かせた戯曲の主人公だよ。君にぴったりだと思って。」
ニコラがそう笑うと、彼、否、クロノスが微笑む。
「そうだ! クロノス、今すぐ帰ろうよ!」
めいいっぱいの笑顔で、ニコラが私に手を伸ばした。
「この景色を、ひとつ残らず文字に残したいんだ! 」
彼女は「ほら、早く!」とクロノスを急かす。彼は、小さく頷いてその手を取った。
それが、君と私の全ての不幸の始まり。君の悲劇は、ここから幕を開けたのだ。悲劇の幕開けをを祝福するかのように傾き始めた太陽が二人を照らし出していた。




