第3話 灰の中の誓い
イグノール達との初戦闘を終えて、大聖堂へ戻った私は、神官の仲間たちと昼食を共にした。
食事を終えた後、私は部屋で身を清めてから、エレノーラ様の私室を訪れた。
コンコン、と扉を叩くと、すぐに中から柔らかな声が返ってくる。
「どうぞ、入ってきなさい」
「失礼します」
中に入ると、エレノーラ様は机の前に座り、静かに微笑んでいた。
銀糸の法衣に身を包んだその姿は、相変わらず聖なる光に縁取られているようにすら見える。
「タクト、待っていましたよ。イグノールたちとのダンジョン攻略はどうでしたか?」
その声に、私は小さく頭を下げる。
「ええ、問題なく攻略は終わりました。ですが……ご相談したいことがありまして、また後ほどお時間をいただけますか?」
エレノーラ様は目を細めて優しく笑う。
その微笑みの奥に、底なしの威厳と狂気を隠し持っているのを、私は誰よりも知っている。
「わかりました。今日の修練が終わってから、ゆっくり話しましょう。では、今から向かう場所について説明しますね」
「はい」
エレノーラ様は立ち上がり、私の目の前まで歩み寄ると、透き通るような白い指で私の胸元を軽く触れた。
「あなたには、今夜【ゲヘナ】で新しい修練をしてもらいます」
「……ゲヘナ? アビスではないのですか?」
私は初耳の単語に驚いて聞き返す。
「ええ、同じ次元界ですが別の場所ですわ」
エレノーラ様はふっと息を吐いて続ける。
「場所は【永遠に荒涼たる苦界】の異名を持つゲヘナの第二階層、【カマーダ】。ちょっとした浮遊火山です。貴方の肉体と精神をさらに鍛えるには、最適の場所です」
「……わ、わかりました」
少し気後れする私の言葉に、エレノーラ様はふっと笑みを深める。
「貴方は私の弟子であり、私が預かっております。どれだけ焦がれても、焼かれても、私が許さなければ死ねません。だから――安心して苦しみなさい」
「……へ?」
頬に触れた指先が柔らかく温かいのに、私に投げられる言葉はまさに鬼畜のそれだ。
「何か耐性魔法は……」
「準備は必要ありません。今すぐ、連れていきます」
そう言い終えると、エレノーラ様の唇が小さく光を紡ぐ。
「|我が身の戒律を離れ、彼の者に地獄を与えん――【次元跳躍】」
世界が音もなく歪んで転移し、視界の端が赤黒く塗り潰される。
気づけば、私は熱気と毒灰の渦巻く灼熱の大地に立っていた。
「師匠、少し熱くないですか?」
エレノーラ様から頂いた黒衣を着ていても周囲の熱気が伝わってくる。
首筋からじんわり汗が滲み出る。
彼女のオーラが無ければどうなっていることか……
「大丈夫と思っていたのですが、仕方ありませんわね」
エレノーラ様はふっと小さな笑みを浮かべると、私の黒衣に強化魔法を施してくれる。
さっきまで感じた熱気が一気に無くなる。
「おお! これならいけそうです」
「タクト、これからは頭を使いなさい。貴方ならいくらでも対処法はありますよね」
エレノーラ様はいつもの優しい声で言う。
だがその瞳は、どこまでも冷たく、どこまでも鬼畜に映った。
「わ、わかりました……」
足元には赤黒い岩盤が剥き出しになり、無数の亀裂から溶岩が吹き上がっている。
空には灰色の雲が渦巻き、時折、黒い火山灰が雪のように降り注いだ。
背筋が自然に伸びる。
足元の亀裂が一つ弾け、灼熱の噴煙が顔をかすめた。
「……何をすれば、よろしいのでしょうか」
問いを口にした瞬間、エレノーラ様は薄く微笑む。
「歩きなさい。駆けなさい。這いなさい。生きなさい。私がいいと言うまで、この階層を独りで巡り、無傷で私の前に戻りなさい」
灰がひとすじ、エレノーラ様の頭上に降りかかるが、聖なるオーラの前に蒸発して消滅する。
「毒灰も、落ちる岩も、溶岩も、バーゲストも、ここに息づくすべてが貴方を殺しに来る。すべてを浄化し、断ち、越えなさい」
言葉の終わりと同時に、彼女は一歩だけ私に近づいた。
伸ばされた手が私の頬を撫でる。
「――貴方ならできます、タクト。貴方は私の世界で唯一の弟子なのだから」
その甘やかな声と、血のように赤い世界が、私の鼓動を無理やり駆り立てた。
私は静かに膝をつき、頭を垂れる。
「……わかりました。必ず、生きて帰還します」
「ええ、そうしなさい。さもなくば、死ぬだけです」
残酷さと慈愛が同じ天秤に載せられた声に背を押され、私は溶岩の荒野へと一歩、踏み込んだ。
エレノーラ様はその場を離れ、天高く舞い上がっていく。
灰の雨が降りしきる。
熱いはずの溶岩の風が、背筋を凍らせるほど生温くて気持ちが悪い。
無数の溶岩滝が断崖を這い、赤黒い大地が苦鳴をあげている。
――呼吸をすれば、肺の奥が焼ける。
視界は火山灰で霞んで、すぐ先もぼんやりとしか見えない。
それでも、私は一歩、また一歩と足を踏み出す。
「こいつらが、エレノーラ様が仰っていたバーゲストか!」
高熱に照らされた足元に、うごめく影。
猛毒の牙と獰猛な脚を持つ獣が十数匹群れをなしている。
私は右手を掲げる。
「……『ディスペル・コード』!」
魔物の表面を覆う結界を解除する。
次の瞬間、バーゲストの群れが黒焦げになり灰と共に消滅する。
「ふぅ……何とか」
息を吸い込む。
だがその直後、上空から溶岩の塊が音を立てて降ってきた。
「……くっ!」
跳びのいた瞬間、背を灰嵐が襲う。
視界が潰れ、毒灰が肌を焼く。
立っているだけで、体力がみるみる奪われていくのがわかる。
「師匠はこのことをわかって……私の相談に応えてくださったんだな」
体力不足の件をここで克服させようと……さすがです、師匠。
――私はまだ、足りていないということですね。
突然溶岩の滝が向きを変え、私のいる岩場を押し流してしまう。
とっさに私は『飛翔』で難を逃れる。
この程度で膝をつくわけにはいかない。
その時エレノーラ様の言葉が頭にこだまする。
『立ちなさい、タクト。私が授けた術を腐らせるなど、許さない』
声はないのに、確かに背を押される。
私はそっと目を閉じ、足元に手を当てる。
修練が始まったあの日、エレノーラ様が私の魔力核に刻んでくれた紋様を思い浮かべる。
「……『聖樹の清泌歌』」
詠唱は要らない。ただ祈るだけだ。
土が鳴動し、足元に清澄な水が湧き、青白い根が割れ目を縫って広がる。
溶岩の瘴気を飲み込み、灰が光の粒子へと変わっていく。
腐り果てた大地に、わずかながら息吹が宿る。
自分の掌から流れ出す浄化の光が、ほんの少しだけ、この苦界を塗り替えた。
――私はまだ弱い。だけど、まだやれる。
何度でも、限界を踏み越える。
私が立つのは、勇者の後ろでも、聖女の影でもない。
――私の戦いは、私だけのものだ。
遠く、断崖の上で聖なるオーラを纏ったエレノーラ様が、私を見ている。
ブロンドの髪が燃えるような溶岩の光を反射して、どんな神よりも神々しい。
私は一度だけ、その姿に頭を垂れる。
「……もっと強くなります、師匠」
灰の嵐の向こうで、神々しい師はうっすらと微笑んだように見えた。
視界が赤黒い溶岩の光で満ちる。
足元は灼けた石と血のように赤い流れで覆われ、灰が止めどなく降り注いでいる。
息を吸った瞬間、喉が焼ける。
有害な粉塵と猛毒の火山灰が肺を満たし、立っているだけで意識が霞む。
……こいつは、思ったより……
息を吐くたびに、肺の奥が鉄錆の味を含む。
視界の端で、固まった溶岩片が空から落ち、すぐそばで炸裂した。
耳鳴りと振動。足元の地面が生き物のように脈打ち、割れ目から赤黒いマグマが顔を覗かせる。
獄炎虫の影が裂けるように溢れ出す。
……立っているだけで、死ぬ……!
だが。頭の奥に、エレノーラ様の声が浮かぶ。
――安心して苦しみなさい。
「師匠……!」
私は膝をつき、震える指を組む。
呼吸はもうまともにできない。
魔法――声を出す余裕など、ない。
無詠唱で、やるしかない――!
脳裏に刻んだ呪文構造を叩き起こす。
──【聖浄花環】。
意識が霞む中、己の中心に光を絞り出す。
脳裏にエレノーラ様の声が響く。
『あなたは、死ぬことは許されません』
その言葉に呼応するように、私の周囲を淡い蒼白の輪が覆った。
「――『聖浄花環』」
声にはならない声が漏れる。
次の瞬間、足元に咲き乱れる光の花弁が、灰をはじき、毒素を分解し、灼熱の空気を涼やかに包み込んだ。
焼け爛れそうだった肺が、一息で清浄な息を取り戻す。
視界が澄みわたり、頭が冴える。
湧き出ていた獄炎虫たちが一瞬にして消滅する。
荒れ狂う溶岩の音が遠く感じられ、熱の奔流の中に一筋の閑静さが生まれた。
「……まだ……まだだ」
辛うじて立ち上がる。
膝に残った熱を振り払うように、拳を握る。
ハイヒールを唱え、何とか死は逃れる。
ここは地獄――だが、私は死ねない。
聖女エレノーラ様の弟子として、この程度で屈するわけにはいかない。
「行こう。この先に――越えるべき“何か”があるはずだ」
吐息が白く光に溶ける。
灰の嵐を突き抜けて、私は一歩、溶岩の道を踏み出した。
灼熱の大地に足を踏み入れた私の心は、炎のように燃えていた。
この試練を乗り越え、必ず強くなる。
師匠の期待に応えるために、私は前へ進む。
ここからが、本当の戦いだ――。
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【まめちしき】
【アビス】……混沌と悪が実体化した無限の階層を成す奈落界で、悪魔達が支配する次元界。
【聖樹の清泌歌】……聖・水・土・木の四属性を重ね、腐敗や怨念を大地と水で吸収し、木の力で再生し、聖の光で浄化する広域魔法。瘴気の漂う戦場や穢れた存在をまとめて浄化・再生する効果を持つ。タクト独自の調律によって、破壊ではなく「安息と再生」を与える浄化の究極形。
【聖浄花環】……聖属性と土・木属性を融合させた大範囲の浄化魔法。花弁の光輪が空中に咲き乱れ、瘴気や呪詛を清め尽くす。範囲内の味方の心身を癒し、再生力と耐性を高める祝福を与える。