第3.5話 灰の中の誓い【聖女エレノーラ視点】
永遠に荒涼たる苦界ゲヘナ――その第二階層、カマーダ。
ここは火と毒と灰が支配する地獄の山脈。
吹き荒れる灰は光を奪い、滝となって落ちる溶岩は空を裂き、踏みしめた大地すら牙を剥く。
私は溶岩の滝の上空に浮かぶ黒曜の玉座に腰かけ、静かに瞼を閉じて息を吐く。
純白の法衣の裾が熱風に舞い、灰が私の周囲で浄化される。
私の玉座には、穢れは届かない。
濃く途切れない灰さえも、私の視界をまったく遮れない。
私の玉座には――彼の成長だけが届く。
眼下の深い赤黒の溶岩河の上に、小さな影が蠢いている。
タクト=ヒビヤ。
私の、唯一の弟子。
私にいざなわれ、私を頼り、私を師と仰いだ。
私がどんなに試練を与えても、私に敬意のまなざしを向けてくれる。
「愛しい子よ。今日も美しく足掻きなさい」
唇に触れる声は、もはや祈りにも近い。
この世界に私を満たすものなど存在しない。
聖女として生を受けた私には、信仰こそがすべて。
俗世や己の欲望さえ、まったく興味がない。
けれど、あの子の限界を突き破る姿だけは、私に飽きを許さない。
「さあ――抗え。私の“想定”に」
灰を割ってバーゲストが数十匹、噴き上がる。
銀灰色に輝く体毛を生やした獰猛な狼は、ただ迷い込んだ旅人を追い求める。
だが私の弟子は、怯えも嘆きもせずに魔法を唱える。
『ディスペル・コード』
閃光が走り、魔物の表面を覆う結界を解除する。
バーゲストの群れが消滅する。その上からまた灰が覆い隠す。
視界を失っても彼は諦めない。
「ふふ……可愛い」
灰雲の向こうで、彼が息を整える音さえ、私には愛おしい。
だからこそ――。
私は指先をわずかに動かす。
溶岩の滝が軌道を変え、彼の足場を切り裂く。
逃げ道を奪い、灰の濁流が彼の肺を侵す。
それでも、彼は。
『――聖樹の清泌歌』
灰の渦を断つ祈りの光が、断末魔のように地獄を照らす。
穢れを鎮め、命を繋ぐ。
私の唇が、柔らかく微笑む。
「よくできました、タクト」
この声は届かない。
けれど届かなくていい。
私の弟子は、私の想定を超えようと足掻く限り、美しい。
どれほど焼かれようと、どれほど引き裂かれようと。
私の可愛い子は、決して折れない。
私がそう造り替えたのだから。
――いいえ、もとから資質があったのかも。
そう、私が珍しく精魂かけて呼び寄せた、たった一人の可愛い弟子だもの。
「――壊れるまで、生きなさい」
私は玉座からそっと立ち上がり、指先を天へ向ける。
ゲヘナの赤黒い空が揺らぎ、さらに獄炎虫の影が裂けるように溢れ出す。
「私の愛を、たっぷり与えてあげるわ」
その囁きは灰の海に飲まれ、熱と毒の狂乱の中で、私の弟子だけをさらに苛烈な修練へと誘う。
――この地獄の底で、私の愛を刻み込め。
私の唯一の、世界に満たぬ光よ。大きく育てよ。
私をもっと驚かせ、この満ちぬ心を満たしておくれ。
まだ、地獄は始まったばかり。
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【まめちしき】
【苦界ゲヘナ】……巨大な火山からなる炎と毒、断崖と絶壁の次元界。それぞれの階層には浮遊する巨大な大陸ほどの火山が一つと、無数の小さな浮遊火山が漂い、有害な炎を噴き出している。この次元界では大地が光を発している。
【第二階層カマーダ】……カマーダは最も荒々しい階層。山肌のほとんどが溶岩に覆われ、地割れから噴き出す溶岩が滝となって空を踊り、ときには上空から固まった溶岩が墜落していく。吹き荒れる灰が降り続け、しばしば視界を遮る。
【バーゲスト】……ゲヘナで生まれる魔獣で、狼と悪霊が融合した存在。魂を狩るために次元を越えて旅人を追跡する狩人。知能が高く群れを作り、陰湿で執拗に獲物を追い詰める。
【獄炎虫】……灼熱の溶岩帯に棲む巨大な火炎寄生虫。生物や死骸に潜り込んで体内で発火させて捕食する。体液も猛毒で、ゲヘナを歩く者の死因の一つとして恐れられる。