第24話 潮騒の聖女――最後の巡礼
港の空は、海と同じ色をしていた。
雲ひとつない蒼が、遠く水平線まで伸び、波の上で白い光を跳ね返している。
甲板の木が軋む音と、帆を叩く風。
鼻をくすぐるのは塩の匂いと焼き魚の香ばしさだ。
船着き場に立つ私は、海鳥たちの鳴き声を背に、視線を沖へと向けた。
――聞こえる。
波の音に紛れて、柔らかな竪琴の調べ。
そしてそれに重なる、風に乗った歌声。
やがて、光の粒をまとったような水色の髪が、港の向こうから現れた。
貝殻のケープを翻し、潮音の竪琴を抱えたその姿は、まるで月明かりを運ぶ潮そのもの。
そのキラキラと輝く姿に、微かに私の胸の奥が疼くのを感じた。
「あなたが……タクト=ヒビヤ?」
少し掠れた美しい声が、潮騒と混じって胸に響く。
近づいてくる彼女の歩みは、波打ち際のリズムと同じで、急ぐでもなく、遅れるでもない。
透き通るような水色のロングウェーブと貝の髪飾り。
海色のドレスに白銀の装飾、背中には薄い貝殻モチーフのケープ。
その美しさに思わず息を呑む。
最後の巡礼――ミリカネラ王国、潮騒の聖女。
ルナ=マルセリーナ様だ。
私はインベントリから紹介状を取り出し、ルナ様に手渡す。
彼女は目を通すと、ふふっとはにかんで私の方を見る。
私がルナ様の美しさにどぎまぎしていると、彼女はそっと竪琴の弦を弾いた。
音色が港町を包むと、商人の声や船乗りの笑いが、ふっと和らいで聞こえる。
「港はね、音が多いけれど……一番響くのは、人の心なんだ」
ルナ様は微笑み、私の肩越しに海を見た。
「あなたの中にも、きっと潮の流れがあるはず。……今日はそれを、聴きに来たの」
「……」
彼女の歌は、これまでの旅路のどの声よりも、遠くまで届くように思えた。
そして私は、この港の潮のように、彼女の言葉に引き寄せられていくのを感じていた。
ルナ様は私に背を向け、港の外れへと歩き出した。
潮風がケープをふわりと持ち上げ、その下の背中が、月光のような白さを覗かせる。
「こっち。港じゃ聞こえない音があるんだ」
彼女の言葉に導かれ、私は漁師町の狭い路地を抜けた。
石畳の隙間からは、海水の匂いを帯びた風が抜ける。
やがて、街のざわめきが背後に遠ざかり、代わりに寄せては返す波音だけが残った。
そこは、断崖に沿って伸びる細い岬道だった。
下を覗けば、透き通った青の海面が岩肌を洗い、白い飛沫が瞬いている。
ルナ様は竪琴を抱えたまま、岬の先端で立ち止まった。
「ほら、聴いて。港の音はもうしないでしょ?」
言われて耳を澄ますと、確かに、そこには波と風と……微かに混じる、低い歌声のような響きがあった。
「海の底で眠る、古い潮の歌。私たち潮騒の聖女だけが聴ける旋律なんだ」
ルナ様は目を閉じ、竪琴を鳴らす。
その音色が波の間を縫い、私の胸の奥にまで届く。
その瞬間、海と空と彼女の声が、一つの大きな呼吸をしているように感じられた。
「……タクト。あなたの中の潮も、いつかこの海と繋がる日が来るよ」
彼女は目を開け、静かにそう告げた。
岬の上で吹く風は冷たかったが、不思議と心は温かかった。
“潮騒の聖女”――その名が、ただの称号ではないことを、この時はじめて知った。
竪琴の音が途切れ、ルナ様は弦に触れた指先をそっと下ろした。
月明かりが海面を照らし、白い道のように伸びている。
「……私ね、潮が止まるのが怖いんだ」
「止まる?」
ぽつりとこぼれた言葉は、風に溶けていく。
「港が静かすぎると、生きてる感じがしない。人の声も、船の音も、全部遠くなるのが……」
彼女は視線を落とし、竪琴の背に手を添えた。
「でも、それってきっと、私が抱え続けるものじゃないんだと思う。潮は巡る。止まってしまう時があっても、また動き出す」
「……はぁ」
ルナ様は竪琴を軽く押し出すようにして、私の方へ差し出した。
貝殻を象った胴には、長年の塩と風の跡が刻まれている。
「これを預ける。"潮音の竪琴”――私が守ってきた歌の記憶だよ」
「……いいんですか? ルナ様の大切なものではないのですか?」
「うん。あなたは、海を越える人だと思う。私には見られない潮の色を、きっと見つけられる……」
ルナ様は竪琴を渡す前に、軽く弦を爪弾きながら言った。
「ただ渡すだけじゃ、波紋は広がらないよ。少しだけ、潮の呼吸を教える」
彼女は私の手を取り、弦の上にそっと添える。
ドキッとして震える私に微笑み、ささやいた。
「大丈夫だよ、安心して」
私はその笑顔にまたドキッとして顔を赤らめてしまう。
「海は急がない。波が満ちるように、音を溜めて、引くの」
受け取った竪琴は、意外なほど軽かった。
だが、その音が刻んできた時間は、どこまでも深く、重い気がした。
潮風とルナ様の声に合わせ、私はぎこちなく弦を鳴らす。
たどたどしい音色の中にも、不思議と海の匂いが混じっていた。
「うん、最初の波紋はこれでいい」
ルナ様は微笑みながら頷き、呟いた。
その瞬間、竪琴はただの楽器から、二人だけの記憶を宿す品になった。
ルナ様は微笑みながら私に話した。
しかしながらその笑みは、港の朝凪のように静かで、どこか寂しげだった。
「最後の巡礼者に、最後の波紋を託すよ。――あとは、あなたが広げて」
岬を包む潮騒が、緩やかに強まった気がした。
◆◆◆
岬の潮騒が遠ざかる頃、私たちは港へと戻ってきた。
さっきまで耳に届かなかった喧騒が、再び押し寄せてくる。
商人の掛け声、網を引く音、そして子どもたちの笑い声――港は、生きていた。
その中に、ルナ様の姿があった。
腕に抱えているのは、先ほど私に託した“潮音の竪琴”ではない。
淡い木色に貝殻の象嵌*が施された、小ぶりな竪琴――朝凪の竪琴だ。
「こっちは私の魂。港の歌は、止められないからね」
そう言って、ルナ様は軽やかに弦を爪弾く。
音色は港中に広がり、ざわめきをやわらげ、波と風に溶けていく。
「ルナ様、色々とお世話になり、ありがとうございました!」
私が深く一礼した後、ルナ様は私に手を差し出す。
その手を見て少し顔が火照る感じがしたが、どうにか笑顔で手を握った。
潮の香りが心地よく頭に響いた。
「私たちのこと、忘れないでね」
「はい。ずっと忘れません。必ずまた会いましょう!」
別れの寂しさに胸が軋むのを、噛みしめながら手を離した。
やがて出航の合図が響く。
私は船に乗り込み、甲板から港を見やった。
突堤の先、ルナ様が人混みを抜け、こちらをまっすぐ見つめている。
その指は竪琴を奏でながらも、一瞬だけ止まり、小さく唇が動いた。
――「ありがとう」
船が岸を離れ、港が小さくなっていく。
それでも、ルナ様の奏でる旋律は波に乗り、遠くまで追いかけてくる。
その響きが、岬で託された「最後の波紋」と重なって、胸の奥で確かに広がっていった。
「ルナ様……」
私は見送ってくださるルナ様の音色と潮の香り、そして美しいその姿をしっかりと胸に焼き付けた。
そして、教わったばかりの“潮の呼吸”を思い出しながら、竪琴の弦をひとつだけ鳴らす。
小さな音は風にさらわれ、それでも確かに、港へと帰っていく波紋になった。
最後に邂逅した、――私にとって“特別な”聖女。
――これが私の最後の聖女巡礼となった。
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【まめちしき】
【潮音の竪琴】……長年港を守り続けた象徴的な竪琴。海魔との戦いや儀式にも使われた、歴史と加護が宿り神からの贈り物とされる品。音は深く、遠くまで届き、海上の者に方向感覚や勇気を与える。
【朝凪の竪琴】……ルナが幼少期から持っている竪琴。穏やかな潮や夜明けの祈りに使う竪琴。木製で温かな音色が特徴。その他にも儀式用として“月波の竪琴”が存在する。
【象嵌】……金属・陶磁器・牙・木材などに、模様などを刻み込んで、そこに金・銀その他の材料をはめ込むこと。また、そのはめ込んだもの。




