第16話 悪魔王グラズドとの対決
黒曜石の床に、二メートルの蛇行剣の先端がかすかに触れる音が響いた。
その一音だけで、空気が震え、背筋に冷たいものが走る。
三メートル近くある身長に羨むほどの凛々しい顔つき、整った筋肉質の黒檀の肌、尖った耳、黄色い牙を持ち、手と足は六本指である。
グラズドの殺気は、単なる威圧ではない。
獲物の鼓動の速さすら読み取り、最も弱い瞬間に喰らいつく捕食者の視線だ。
「……人間、名は?」
「タクト=ヒビヤ」
「ふむ……覚えておこう。女神殺しの弟子なら、尚更な」
”女神殺し”のフレーズがやけに耳に刺さるが、今は無視する。
グラズドはゆっくりと円を描くように歩き、私との距離を測る。
その足音が、やけに重く響く。
まるで地面ごと押し潰してくるような感覚だ。
「お前はあの女をどう見ている?」
グラズドの低い声が、広間の壁に反響する。
唐突な問いだが、その目は冗談の色を一切含んでいない。
「尊敬すべき師だ。……ちょっと鬼畜な面もあるが……そして、大切な仲間だ」
「仲間、か……甘いな」
グラズドの唇がゆがみ、好奇の目に光が指す。
「奴は神を屠った女だぞ。……お前は、それを知った上で隣を歩けるのか?」
挑発の言葉が耳に入るが、紅いバリアが私の心を護る。
その瞬間、蛇行剣剣の刃先から黒紫色の光が広がり、視界が色の奔流に覆われる。
紫は混乱、紅は憤怒、蒼は恐怖、翠は束縛、金は魅了、黒は虚無――
六種以上の状態異常が同時に押し寄せてきた。
だが、全身に走る淡い光の輪が、それらを弾き飛ばす。
【完全状態異常無効化】と【最大耐性付与】――十五種類の付与魔法が、一瞬で全てを無効化した。
「……消えた、だと?」
「準備は万全にしてきた」
軽く肩をすくめ、逆に魔力を押し返す。
「ならば、こちらもそれ相応の力で挑ませてもらうぞ」
グラズドの背から黒炎が噴き上がる。
炎は蛇のようにのたうち、広間全体を飲み込もうとする。
床の魔石柱がその熱で軋み、空気が焦げた。
「なるほど、これがグラズドの力か……ギアを上げる」
私の周囲に蒼白い魔力が渦を巻き、三重の魔法陣が回転を始める。
【混沌吸転の術】、【空間歪曲】、多属性付与――
封じていた高位魔法を一気に解放する。
広間の空気が急速に重くなる。
互いの魔力がぶつかり合い、床に走る亀裂から赤黒い光が漏れ出す。
「ほう……面白い。だが、この宮殿を壊すのは惜しいな」
グラズドが肩をすくめ、次の瞬間、床下から巨大な黒炎の触手が噴き上がった。
それが私たちを絡め取り、天井ごと吹き飛ばす。
瓦礫が崩れ、冷たい奈落の風が頬を打つ。
眼下にはアビス四十七階層の荒涼とした大地と、炎の河が渦を巻いていた。
グラズドの漆黒の翼が大きく広がる。
「さあ、本番はここからだ!」
赤黒い魔法陣が十重に展開し、炎槍・雷鎖・重力球が一斉に放たれる。
私は【飛翔結界】で姿勢を立て直し、迎撃魔法陣を重ねる。
眼下の大地から、グラズドの咆哮が響き渡った。
「人間……まだ耐えられるか!」
その漆黒の翼が大きく羽ばたくと、周囲の空間が歪み、風が止まった。
直後、私の周囲に色彩の嵐が発生する。
紫の混乱、紅の憤怒、蒼の恐怖、翠の束縛、金の魅了、黒の虚無……
六種以上の状態異常が同時に渦を巻き、視界を塗り潰していく。
「これでも……避けきれるか!」
グラズドの笑みには、先ほどの余裕が戻っていた。
だが――私は微動だにしない。
全身から放たれる淡い光の輪が、一瞬でその色彩の嵐を分解し、霧散させる。
付与魔法の光は虹色に輝き、消滅する瞬間にわずかな鈴の音が響いた。
「まさか、貴様人間だろ……ふざけたことを……!」
グラズドの瞳に、明らかな苛立ちが浮かぶ。
「状態異常は無意味だ。……エレノーラ様の指導はその程度ではなかったぞ!」
私は片手を軽く上げ、反撃の魔法陣を展開する。
背後で十五枚の魔法陣が扇状に広がる。
炎・氷・雷・聖・闇・風・土・水――八属性を瞬時に組み合わせ、広域殲滅魔法を構築。
その中に、状態異常付与型の幻影魔法も混ぜ込む。
あえてグラズドに見せ、同じ手で返す挑発だ。
「……ほう、俺に同じ技を……」
グラズドが口角を吊り上げ、翼を大きく広げた。
次の瞬間、漆黒の炎柱と私の多属性砲撃が空中で衝突し、閃光が広がる。
爆風が吹き荒れる中、私は息を整えながら距離を詰める。
――まだ互いに、本当の奥の手は出していない。
だが、戦場はすでに一触即発の臨界点に達していた。
爆風が収まる間もなく、グラズドの瞳が妖しく輝いた。
「なるほど……状態異常は効かぬか。ならば――その耐性ごと潰す」
漆黒の翼が羽ばたき、色の嵐が再び広がる。
だが今度は単なる状態異常の光ではない。
色彩が空間そのものに染み込み、境界線が歪み始めた。
紫の帯が距離感を狂わせ、紅の波が重力方向をねじ曲げ、蒼の霧が時間の流れを遅らせる。
各色は独立して動きながらも、全体でひとつの結界を形成していく。
「これは……」
私は即座に理解する。
――色を媒体にした多層次元結界。
状態異常無効化では防げない、“場”そのものの支配。
「この領域に踏み込めば、軸を失って墜ちるぞ!」
グラズドが蛇行剣を構え、結界内に誘い込もうと迫る。
「面白い……だが、お前は時空の揺らぎを利用している。なら――その根本ごと切り離せばいい」
私は両手を広げ、複雑な立体魔法陣を描く。
【時空相殺】と【次元断層】。
二つの術式が重なり、眼前の色彩結界に深い裂け目が走った。
結界の紫帯が断たれ、紅の波が弾け、蒼の霧が吸い込まれていく。
やがて、色の嵐は完全に霧散した。
「……まさか、無敗の次元結界をこうも……」
グラズドの表情に焦りの色が濃くなる。
だがおもむろに蛇行剣を肩に担ぐ。
「お前……戦いの経験も、女神殺しの弟子とは思えぬほど整っているな」
「まだ発展途上だがな。お前との戦いも糧にさせてもらう」
私は軽く笑みを返しながら、再び魔力を練る。
互いに本当の決め手はまだ見せていない。
次の一手を探り合う時間が、まるで永遠に伸びたかのように感じられた。
そして――グラズドが先に動く。
「いいだろう。俺に対して善戦した敬意を表し、そろそろ“王”としての礼を尽くしてやる」
低く呟くと、蛇行剣を地面に突き立てた。
瞬間、ダークフレイム全体が震動し、地平線まで黒炎が走る。
漆黒の甲殻が膨張し、六本の角は刃のように鋭く伸びる。
背中の翼は倍に増え、炎と影が混じった羽毛をまき散らす。
蛇行剣は禍々しい槍へと変質し、その刃先からは重力の奔流が漏れ出していた。
「――悪魔王権能、地獄支配!!」
その声と同時に、周囲の空間が地獄の景色へと塗り替えられる。
血の川、逆さに燃える空、絶叫する影の群れ……
この場にいるだけで魂を削られるような圧力が襲い掛かる。
私は深く息を吸い、魔力を全開まで解放する。
背後に展開した魔法陣は十五枚。
その全てが異なる属性と効果を帯び、さらに時空術式で一つに同期させる。
「――複合超高位術式、展開完了」
足元に光輪が三重に浮かび、周囲の空間がゆっくりと波打つ。
私の魔力は、時間の流れすら巻き込みながら一点に収束していく。
『次元嵐覇】』
時空の裂け目から、炎・氷・雷・聖・闇・風・土・水――八属性の奔流が螺旋状に噴き出す。
それらは瞬時に融合し、あらゆる物理法則をねじ曲げながら、一直線にグラズドへと迫った。
赤と蒼、聖と闇――あらゆる色が空間を満たす。
私とグラズドの最大術式が、空を裂き、大地を砕きながら正面衝突した。
轟音と閃光。
その中心で、私はただ一点を見据え、時空の裂け目に全ての衝撃を逃がす。
魔力は制御された流れに乗り、私の身には一切の傷を与えない。
やがて光が収まる。
グラズドは膝をつき、胸甲が砕け、黒紫の血が滴っていた。
その呼吸は荒く、片翼が焼け焦げている。
「……見事だ、人間……」
低い声だが、そこに嘘はなかった。
私は静かに歩み寄り、右手を掲げる。
「闇に蠢く魔素よ、瘴気よ。傷ついた魔の者の身体を癒やし、再構築させよ。ダークハイヒール!」
紫色の光が集まり、グラズドの傷を瞬く間に塞いでいく。
「……貴様、敵を癒すか」
「これは試練だ。このまま続けても時間と命の無駄。ならば傷を癒やしても問題ないだろう」
「ふむ……そうか」
その声色には、奇妙な温さが混ざっていた。
だが――視線が私の手元、腰の武器、魔力の流れへと順に移り変わるのを、私は見逃さなかった。
その目は、獲物の急所を測る狩人のものだ。
回復の光が消えた瞬間、グラズドの指が蛇行剣の柄にかかる。
肩の力が微かに抜け、呼吸の間隔が短くなる。
――これは、隙を突く動きだ。
(やはり……そう来るか)
私はあえて一歩踏み込み、右手を差し出した。
「良い戦いでした。……握手を」
グラズドの目が一瞬細まり、口角がわずかに吊り上がる。
――この手を取った瞬間、俺が斬る。
そんな考えが、視線の奥に見えた。
しかし彼は、そのまま手を握った。
その瞬間、白金の光が私たちの手を包み、柔らかな温もりが広がる。
【聖女の呪い】――触れた相手の敵意を翻し、深層意識に「害せない」という制約を刻む。
「……なんだ、この感覚は……敵意が……薄れていく」
「たまには、戦いの後に残すのは傷じゃなく、縁にしましょう」
グラズドは私の手を離し、肩を揺らして笑った。
「……くっくっ、人間……いや、タクト。貴様、敵ながら天晴だ」
その声には、もう敵意はなかった。
「それは光栄です」
私も笑みを返し、互いに戦いの余韻だけを残す。
その時、背後から軽やかな声が響いた。
「まあまあ、お二人とも……いい汗をかきましたわね」
振り返ると、エレノーラ様がゆったりと歩み寄ってきていた。
その表情は柔らかいが、瞳の奥には微かな鋭さが宿っている。
「師匠!」
「このクズと握手するなんて、やはり貴方は私の想定を上回りますね」
「師匠、それ褒めてないでしょう。それにもうクズなんて言わないでくださいね」
グラズドはエレノーラ様の姿を正面から受け、低く唸るように言った。
「……エレノーラ。頼むからもう二度と、ここへは来るな」
その声音には、わずかな恐れと、同じくらいの敬意が混ざっていた。
しかしエレノーラ様は、口元に笑みを浮かべたまま首を傾げる。
「さあ、それはお約束できかねますわね」
まるで「また来る」と宣言しているかのように。
「師匠、今日のところはもう帰りましょう。目的は果たしたことですし」
エレノーラ様は多少不満げだが、空を見上げて思案する。
「ん……そうですね。タクトの修練は一応合格としましょう。わかりました」
私たちのやり取りに悪魔王はホッと胸をなでおろし、安堵のため息を吐く。
――こうして、地獄王との試練は、思いがけない形で幕を下ろした。
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【まめちしき】
【悪魔王グラズト】……”暗黒のプリンス”の異名を持つアビスのデーモン・ロードの一人。性格は狡猾で残忍。身長2.5メートル。アシディック・バースト・バスタード・ソードという蛇行剣の使い手。最終目標はアビスの完全支配である。戦術の達人にして優れた剣士だが、真の力は誘惑と二枚舌にある。物質界の動向にも注目している。周囲には大勢の女性の悪魔を囲っている。




