第5章 最後のリール
1話 最後の闇
「地獄のカジノにも、闇はやって来る。」
――そう、地獄にも。皮肉なことに、こんな場所にまで。
美津子――今や"ミツコエル"と呼ばれ始めた台は、薄暗いホールの隅で、タブレットに映る孫の寝顔を見つめていた。画面の向こうで、みゆきが幸せそうに家族と笑っている。孫の小さな手、夫の優しいまなざし。自分には遠かった"普通の幸せ"が、青白い光の中で脈打っている。
まるで、別世界の出来事のように。
「......よかった。本当に、よかった......」
声に出した瞬間、その言葉が空虚に響いた。胸の奥で、冷たい何かが這い上がり、ぬるい安堵と絡み合う。複雑で、醜い感情。
私は、負の連鎖を断ち切れたんだろうか。
でも......幸せの形は、人それぞれ。
みゆきが笑っていてくれるなら、それでいい。
――そうよ、それでいい。私が地獄で朽ちようと、彼女たちが笑っていれば。
画面越しの温かさに手を伸ばしかけて、美津子は自分が金属の筐体であることを思い出した。冷たく、無機質な。触れることも、抱きしめることもできない。
これが、私の選んだ道。
ふと、カジノの奥から、足音。重く、どこか虚勢を張った響き。
カジノマスターが新しいバッジを誇らしげに――いや、必死に――掲げて近づいてきた。
「見ろよ、No.52......いや、"ミツコエル"。ついに俺、アビスプロデューサーに昇進だ。地獄の現場上がりが、ここまで来たぜ」
わざとらしく笑うが、目元はどこか寂しい。まるで、自分を納得させようとしているかのように。
美津子は静かに見つめ返した。あなたも、私と同じ。地獄で居場所を探している。
沈黙が流れる。
エンジニアも無言で二人に加わった。
彼の目には一切の感情が読み取れない。ただ、心の中で何かを押し殺すように無言で黙っている。その顔に浮かぶ一瞬の歯ぎしりが、彼の葛藤を物語っている。
机の上にはタブレットと配線の山。地獄の最終決戦に向けた"作戦会議"が始まる――というより、始まるはずだった。
「明日だな。カルトルーレット・カリスマとの最終バトル。あいつの"運命のルーレット"に勝てる方法は――」
アビスプロデューサーの声が途切れる。
エンジニアの冷たい目に、アビスプロデューサーの必死さが映った。言葉を交わさずとも、彼らの間には無言の理解があった。
エンジニアが画面を睨みつけながら、ぽつりと呟いた。
「この地獄で勝者になる者には、何も残らない。でも、あなたはYOEEEのまま、ここまで来た。勝ちたいのは、俺も同じです」
何も残らない。
その言葉が、美津子の心に突き刺さった。勝利の先にあるのは、更なる虚無なのか。
美津子はエンジニアの言葉を聞いて、ふと立ち止まった。勝ったとしても、ここでの勝利には何も残らない。それどころか、これまで何もかも失ってきた自分にとって、勝者でいることすら意味がないのではないか。私は何をしても、結局は負けている。勝ちたいと思っても、何も変わらない。私が勝つことで、世界が変わるわけでも、みゆきが救われるわけでもない。彼女はふと画面の向こうの孫を見つめ、その笑顔がどこか遠く感じられることに気づいた。
アビスプロデューサーはふっと小さく笑い、「それで、俺のツッコミも今日で最後だ」と一発狙うが、見事に滑る。二人は見事な沈黙で返し、空気だけが重く澄んでいく。
最後の闇に、この滑稽な光景。
私たちは、何をしているんだろう。
美津子は静かに独白する。
ここが、私の最後の闇。
地獄のバディとして、笑いも涙もすべて飲み込んで――
明日、運命のリールを回す。
でも、もしかしたら、私はとっくに負けているのかもしれない。
家族を守るため、愛する人を守るため、私は自分を犠牲にした。
それは美しい物語だったかもしれない。
でも、ここで朽ちていく私は、本当に何かを救えたのだろうか。
画面の向こうで、孫が安らかに眠っている。
その寝顔を見つめながら、美津子は冷たく、悲しく微笑んだ。その微笑みは、まるで誰かが心の中で作り上げた偽りの仮面のように見えた。それは、家族の温かさを感じる一方で、実際には何も得られない空虚さを隠しきれない微笑みだった。
次戦ですべてが終わる。
そして、私は――
地獄の夜が、静かに終わるはずがない。**何も終わっていない気がする。**美津子はふと、自分がここにいる意味を見失い、ただ回り続けるリールを見つめた。美津子は画面越しに孫を見つめながら、ふと感じた。
“何も変わらない。地獄のリールは、ただ回り続けるだけだ”
その思いが、彼女の胸の中で渦巻きながらも、じっと動かずに彼女はただ見つめ続けた。