花冠の骸ー救い
アタシは、歩いていた。
どこへ向かっているのか、わからなかった。
ただ、気づけば脚が動いていた。何かを探しているようで、けれどそれが何なのか、自分でもわからなかった。
家に帰ったのか、帰らなかったのか、それも覚えていない。
いつのまにか、図書室にいた。
あの椅子の上に座っていた。
けれど、もう誰も来なかった。
窓の外の光は死んでいた。
本棚の隙間から、影が覗いていた。
アタシは、ノートを開いた。
字が、書けなかった。
文字が、ただの線に見えた。線が、ぐにゃぐにゃと溶けていく。
文字を書いたつもりだった。
でも、それは文字ではなかった。
ただの黒い傷痕だった。
頭の中で、凛の声がする。
「また来ようね」
「観覧車のてっぺんで、もう一度、話そう」
その声が、何度も繰り返された。
カセットテープのように、擦り切れた声。
再生されるたびに、音が歪んでいく。
誰かが笑った気がした。
教室の外からだった。
窓の向こうに、凛が立っていたような気がした。
手を振っていた。
でも、違った。
アタシは、泣いていた。
でも、それも夢かもしれなかった。
涙の味がしなかったからだ。
夜、ベッドに潜った。
毛布をかぶって、耳を塞いだ。
でも、凛の声が止まらなかった。
「死にたくなる時って、あるよね」
「でも、ひとりじゃ、寂しいよね」
アタシは叫んだ。
けれど、声が出なかった。
夢の中で叫んでいるようだった。
いや、それは夢だったのか?
現実と夢の区別がつかなくなった。
朝が来ても、夜が来ても、どちらも同じだった。
時間はただ、アタシの身体を通過する液体のようだった。
図書室の椅子に、凛が座っていることがあった。
アタシは話しかけた。
でも、彼女は答えなかった。
そして気づくと、椅子は空っぽだった。
きっと最初から、誰もいなかった。
アタシは、死ぬ準備をしていた。
でもそれは「死」ではなく、もっと曖昧な、名前のないものだった。
たとえば、「凛のいない世界で生き続けること」
あるいは、「凛の死を信じずに暮らすこと」
それらはどれも、アタシには“死”と同じ意味を持っていた。
夜中、ノートを破いた。
その破片が風に舞って、アタシの部屋に雪のように降り積もった。
ページの間に挟まっていた、凛の詩も、ぐしゃぐしゃになった。
そこには、たしかにこう書かれていた。
「この世界が嘘なら、わたしは真実になりたかった」
アタシは、眠った。
何日も、何日も、眠り続けた。
それは、夢の中で死ぬためだったのかもしれない。
いつか、夢の中で凛に会える気がした。
観覧車のてっぺんで、もう一度、話せる気がした。
でも、観覧車は――もう、回らなかった。
アタシは、駅のホームに立っていた。
冷たい風が吹いていた。
空は晴れていたのに、風はまるで、どこかの知らない海から来たようだった。
足元に、小さな影ができていた。
その影が、凛の影に見えた。
「さあ、行こう」と、言っている気がした。
あの日の観覧車の上で、凛が言った言葉が頭の中で繰り返されていた。
「今がずっと続いたら、いいのにね」
アタシは、何度もその言葉にすがった。
すがって、擦り切れて、もう、何も残っていなかった。
あの夜、世界はひとつだけ、本当の姿を見せてくれた。
でもそれは永遠ではなかった。
あまりにも短くて、やさしくて、だからこそ――
アタシは、そこへ還りたくなった。
ポケットに、ひとつの鍵が入っていた。
図書室の鍵だった。
いつのまにか、手にしていた。
その夜、アタシは学校へ忍び込んだ。
最後に、凛がいた場所へ。
最後に、ふたりで夢を見た場所へ。
窓から差す月光の下、一通の封筒をみつけた。
それは、アタシ宛だった。
開ける手が震えていた。
読むのが怖かった。
でも、それは最初から、読まれるために書かれたものだった。
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沙耶ちゃんへ
ごめんね、全部、嘘だった。
本当は、最初から決めていたんだ。
最後に、きれいな夢を見たくて、
それを叶えてくれる人を探していて、
それが、あなただった。
あなたといると、わたしはちゃんと「わたし」になれた。
わたしのことを「見て」くれる人なんて、
本当に、あなたしかいなかったから。
でも、わたしはそれでも生きられなかった。
世界があまりにも冷たくて、
心がもう、音を立てなくなっていたから。
お願い。
あなたは、あなたのままで、生きていて。
――なんて、そんなこと、言えるわけないよね。
だって、わたしは、あなたの心を壊したかったんだ。
一緒に堕ちたかったんだ。
独りじゃ、死にたくなかった。
でも、今はもう、怖くない。
だって、
あなたが、この手紙を読んでるってことは、
きっと、すぐに会えるってことだから。
――観覧車のてっぺんで、また会おう。
凛より
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アタシは、封筒を胸に抱いた。
涙は出なかった。
ただ、風だけが頬をなぞっていった。
机の上に、ノートを開いた。
最後のページに、こう書いた。
「わたしたちは、生きることに失敗したのではない。
選ばなかっただけだ。」
静かに立ち上がり、窓を開けた。
風が、ページをめくった。
月が、その上を照らしていた。
誰もいない校庭。
その向こうに、止まった観覧車の幻が見えた。
そこに、彼女がいた。
笑って、手を振っていた。
アタシは、歩き出した。
あの日のように。
あの夜のように。
「わたしたちはどこにもいない。けれど、確かにいた。」