花と刃
あの午後から、アタシたちは図書室で言葉を交わすようになった。
毎日というわけではない。ただ、互いに疲れたとき、何もかもが煩わしくなったとき、世界が少しだけ斜めに傾いたように感じたとき。
彼女は現れ、アタシはそこにいた。
言葉は少なかった。
必要なことは、目を見れば分かったし、それ以上を望むことが、かえって壊してしまう気がしたからだ。
彼女の目は、いつも澄んでいて、それでいて、どこか絶望を諦めた人の目をしていた。
アタシは、そんな目をした人が、初めてだった。
春が終わりかけのある日、彼女がアタシの髪をそっと梳いた。
昼休みの図書室。誰もいない窓辺。風がカーテンを揺らし、花粉混じりの光が彼女の頬に散っていた。
「きれいな髪だね」
「そうかな」
「うん。……わたし、こういうの、好き」
そのとき、彼女の指がアタシの耳をかすめた。ぞくりとした。
触れられることに慣れていない皮膚が、彼女の温度を記憶しようとしていた。
それは、喜びだった。けれど、同時に、痛みでもあった。
アタシは、自分が生きていることを、初めて恥ずかしく思った。
その日から、アタシたちは「詩」を交換し合うようになった。
お互いのノートに、そっと書いて、そっと渡して、何も言わずに返す。
それだけで十分だった。
言葉にしないことで、保たれる距離。
言葉にしないことで、増幅する想い。
詩の内容は、いつも少しだけ暗くて、少しだけ美しかった。
水面に沈んだ花、夜に咲く灯台、眠れぬ人魚、時間のない朝食――
子どもっぽいと言われればそれまでだが、アタシたちにとって、それは祈りだった。
六月、彼女は突然、こんなことを言った。
「ねえ、死ぬのって、そんなに悪いことかな」
アタシは、黙ってうなずいた。
「世界がこんなに嘘ばかりなら、信じられるのって、自分と……あなただけじゃない?」
そのとき、彼女はアタシの手を握った。
小さくて、冷たくて、それでいて信じられないほど力強かった。
アタシは、何も言えなかった。言葉は、もういらなかった。
ああ、この人は、アタシを選んでくれたのだ。
世界がどれだけ醜くても、意味がなくても、この人がアタシを見つけてくれた。
彼女の指は震えていた。まるで、刃物のようだった。
優しくて、美しくて、触れれば血が出るような、そんな指だった。
「ねえ、沙耶ちゃん。ひとつだけ約束、しよう」
「……うん」
「いつか、ふたりで、全部終わらせよう。世界も、思い出も、ぜんぶ」
アタシは、そのとき確かに笑った。
壊れてしまえば、怖いものなんて、なにもなかった。
世界より、このひとの言葉が欲しかった。
未来より、このひとの隣にいたかった。
それが、はじまりだった。
ふたりで落ちていく、長い長い夢の――はじまりだったのだ。
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雨が降っていた。
その日は珍しく、放課後に彼女の家へ行くことになった。
「どうしても渡したいものがある」と言って、凛がアタシの袖を引いた。
その指先の温度が、なぜか肌の奥に残っていた。まるで誰かの掌の形に、心臓を合わせてしまったようだった。
凛の家は、駅前の古い団地。
階段の鉄柵は錆びていて、雨粒が赤茶けた涙を流していた。
「お母さん、今日は帰り遅いから」
彼女の声はいつもより低かった。まるで誰かに聞かれないようにするかのように。
玄関の扉を開けた瞬間、息を詰めた。
空気が重たかった。
濡れた毛布のような匂い。生活の澱、誰にも看取られなかった愛情の腐敗。
キッチンの皿は洗われず、部屋には紙ゴミが散乱し、冷蔵庫は半開きだった。
でも、彼女は笑った。
あまりにも自然に。あまりにも不自然に。
「ね、ひどいでしょ。でも、ちょっとだけ、見せたかったの」
アタシは、首を傾げた。
「……どうして?」
「沙耶ちゃんになら、見せてもいいって思ったの」
その言葉が、心臓の中でやわらかく爆ぜた。
嬉しいはずだった。なのに、痛かった。
彼女が、自分を許してくれたような気がした。
でもそれは、アタシが彼女に触れる許可をもらった、という意味でもあった。
凛は、部屋の隅にしゃがみこんで、床に落ちた書類をかき集めていた。
背中が小さかった。見てはいけない奥の底が透けて見えるようだった。
アタシは、どうしてだろう。
その背中に、頬を押し当ててしまいたい衝動に駆られた。
言葉より先に、抱きしめたくなった。
でも、手を伸ばせなかった。
触れたら、壊れてしまう気がした。
あるいは、自分が壊れてしまう気がした。
「この窓のヒビ、わたしが割ったの」
凛はカーテンをめくって、光に透けるようなヒビを見せた。
「この世界のこと、どうしても許せない日があってね」
彼女が振り向いた。
瞳が、夜の湖のようだった。
その中に、アタシの顔が映っていた。
「でも……今は、もう平気」
「だって、あなたがいてくれるから」
その言葉のあと、凛がゆっくりアタシの手を握った。
その手は、冷たくて、でも震えていて。
指先が、ひどく脆い蝶の羽のようで、アタシはそれを包むように重ねた。
「ねえ、キスって、したことある?」
凛の声が、冗談のような色をしていた。
けれど、瞳は笑っていなかった。
アタシは首を振った。
「そっか」
「……わたしも、ないんだ」
それだけで、ふたりの間の空気が変わった。
湿った夜の空気が、少しだけ甘くなった気がした。
アタシは、ただ思った。
この人をひとりにはしたくない。
この人の夜になりたい。
朝が来なくてもいいから、この人の時間に溶けていたい。
その夜から、アタシの心は、もう世界を見ていなかった。
ただ、凛だけを見ていた。