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硝子細工の季節

 アタシは、この世界の端っこで息をしていた。

 誰にも触れられず、誰も傷つけず、ただ、静かに。

 その静けさはまるで、薄いガラスの球体の中に閉じ込められた微睡のようで、どこか不自然で、息苦しかった。

 それでも、アタシはそこに安住していた。壊れるくらいなら、動かないほうがいい。そう教えてくれたのは、この退屈で、薄汚れた世界だった。


 朝、目覚めると天井がある。

 天井には、昔つけたポスターの跡が残っている。それはもう色褪せて、何が描かれていたのかも分からない。けれど、アタシはそれを見上げるたび、奇妙な安心を覚えるのだった。


 階下に降りると、義母が味噌汁を温めている。いつもの朝だ。

 「早くしないと遅れるわよ」

 その声には、感情の温度がない。まるで自動音声だ。

 アタシは頷くこともなく、トーストをひと口かじって、玄関を出た。


 通学路は、灰色だった。アスファルトの色ではなく、空気の色のことだ。

 アタシは、空気の色を見て歩くのが癖だった。人と目を合わせないための、ささやかな言い訳だった。


 学校に着くと、誰かが笑っていた。

 高らかに、賑やかに、意味もなく。

 その笑い声は、アタシの耳にはひどく騒がしく、同時に、心を締めつけるような孤独を伴っていた。


 アタシの席は、教室の一番後ろ。窓際。陽の当たらない、少し陰のある場所。

 教科書を開いても、何も頭に入らなかった。黒板の文字は、昔からアタシには読めなかった。字が読めないのではなく、意味が見えないのだ。

 この教室で学ぶべき何かは、きっとアタシにとって必要のないものだった。


 授業の合間、クラスメイトたちは軽やかに話し、笑い合っていた。

 アタシはその輪の中に加わることはなかった。加わろうとしたことすらない。

 けれど、彼らの笑顔の一つ一つが、まるで鏡の破片のようにアタシを刺してくるのだった。


 昼休みになると、図書室に行った。

 本の匂いが好きだった。紙とインクと、埃と、孤独の匂い。

 本棚の影に座り、ノートを広げて、詩を書くふりをした。

 本当は、何も書いていなかった。白紙のページを見つめていると、自分の心の中まで白紙になったようで、少しだけ救われる気がしたのだ。


 「ねえ、ここ、誰かいるの?」

 その声がしたのは、たぶん午後の斜陽が、窓から差し込んだときだったと思う。


 アタシは驚いた。図書室で話しかけられるなんて、初めてだった。

 ゆっくりと顔を上げると、そこには一人の少女が立っていた。


 髪は明るく、目元は涼やかで、制服の襟元には小さなブローチがついていた。

 その姿は、まるで冬の朝に咲いた白い花のようだった。冷たく、清らかで、しかし、どこか現実味がなかった。


 「……うん、いるよ」

 アタシはそう言った。自分の声が、自分のものではないように思えた。


 彼女は、ふっと笑った。

 その笑顔は、今まで見たどんな笑顔よりも、寂しそうだった。


 「ふーん。じゃあ、今日はここ、ふたりだけの図書室だね」


 アタシは、なぜか泣きそうになった。

 理由なんて分からない。

 ただその言葉に、アタシは、何かとても大切なものを預けられたような気がしたのだった。


 アタシは、自分の手が机の上で震えていることに気づいた。

 まるで、何年も言葉を交わしていなかった亡霊が、急に呼び起こされたような感覚だった。

 

 凛――彼女はそう名乗った。

 

 白雪凛。名前まで、どこか物語じみていた。アタシなどとは違って、ちゃんとした人間の名前だった。


 「何読んでたの?」

 彼女が覗き込んだ。アタシの膝に置かれていたのは、無地のノートだった。

 書かれていたのは、ほんの二行。


 “ここではない場所に行きたい。

 けれど、どこにも行きたくない。”


 彼女はそれを見て、なぜか笑わなかった。

 誰もが笑った。バカにしたように、あるいは、困ったように。けれど彼女だけは違った。


 「わかるなあ、それ」

 小さく呟いて、椅子を引いて隣に座った。

 その動作のすべてが、静かで、澄んでいて、まるで湖面にそっと花弁を置くようだった。


 アタシは喉が乾いていた。何かを言いたかったけれど、言葉がうまく形にならなかった。

 代わりに、彼女の匂いだけが鮮明だった。雨上がりの朝のような、少しだけ甘い、けれど冷たい匂い。


 「ここ、好き?」

 彼女の問いは、唐突だった。


 「……うん」

 「ふうん。私は、あんまり好きじゃない。でも、嫌いでもない。

 なんていうか――誰も触ってこない場所って、安心するよね」


 アタシは、うなずいた。そうだ、そう。触れられないことが、時には救いになる。

 でも、今、隣に座るこの人の存在だけは、なぜか、触れてほしいと思ってしまった。


 彼女はアタシのノートを指でなぞった。細く、白い指。爪が綺麗に整えられていて、どこか病的なほど儚げだった。

 「書くの、好きなの?」

 「……うん。書かないと、死んじゃいそうだから」


 我ながらひどい返答だったと思う。重すぎる、暗すぎる、変な子だと思われる。

 だけど彼女は、やっぱり笑わなかった。

 「死にたくなる時って、あるよね」

 まるで、夕焼けが静かに沈んでいくみたいな声だった。


 そのとき、アタシの中で何かが音を立てて崩れた。

 ずっと一人だと思っていた。

 誰にも届かないと思っていた。

 けれど、彼女は、違った。アタシの奥にある冷たい水のようなものに、静かに指先を浸してきたのだ。


 その指先のぬくもりを、アタシはずっと忘れることができなかった。



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