第1話 アイドル
歓声が響いている。
この場所から見える景色の美しさ。
一生忘れない。忘れたくない。忘れてはいけない。
「今まで本当に…本当に、ありがとうございました!」
最後の1礼。
感謝と達成感と寂しさが入り交じり、何かが込み上げてくる。
悩み、苦しみ、もがきながら歩んできた。
何度も、何度も……諦めかけた。負けそうになった。
でもここに立っている。この場所にいる。
そしてこの日を無事に迎えることができた。
僕は幸せ者だ。生きてて良かった。
心からそう……思った。
もうすぐ幕が下りる。
それは僕の1つの人生が終わることを意味する。
それは他では経験できない、とても濃く長い人生だった。
『 idol 』 …… 憧れや崇拝の対象となる人や物。理想の事例、概念を体現したもの。
アイドルの歴史は、1970年代初頭から始まる。
歌番組やオーディション番組などから『アイドル』という存在が誕生した。
そして今現在も多種多様なアイドルたちが、歌番組をはじめ、バラエティ番組からドラマ・映画に至るまで様々な場所で活躍している。
彼らの活躍による影響はとても凄まじく、熱狂的なファンを生み出し経済効果をもたらしている。
それに加えて、多くの人の人生に生きがいや勇気、原動力など多大な影響を与えていることも少なくない。
一方で『 idol 』の意味にもあるように、崇拝の対象・理想の存在である彼らにとってプライベートという概念は捨てざるを得ない。
恋愛禁止はもちろんのこと、体型の維持のための食事制限、多忙なスケジュールによる睡眠不足など、人間の3大欲求を制限されている。
彼らも皆と同じ、ひとりの人間であるはずなのに、他の同世代の人たちに比べて自由がきかないのではないだろうか。
どんなに叩かれ批判されても、ときには傷つき挫けそうになっても――それでもアイドルになりたい、アイドルでいたいと、精力的に活動している彼らには本当に頭が上がらない。
この先の未来もきっと『アイドル』という存在は輝き続け、我々にたくさんの力を与えてくれるのだろう。
『アイドル』という険しい道を自ら選択した彼ら自身が、幸せであることを切に願うばかりである。
私の名前は、桜庭陽希。12歳。
私もまた彼らに救われた人間のうちの1人である。
アイドルとの出逢いは、小学5年生のとき。
父と死別し、それまでの人生で打ち込んできた習い事を辞めざるを得なくなったときだった。
大好きな父がいなくなってしまったこと、そのうえ今まですべてをかけていた習い事ができなくなってしまったことは、私にとってとても辛く苦しいものだった。
以前のような生活を続けることは難しくなり、笑顔の数も減った。何をするにも楽しいと感じることが出来なくなっていた。
そんな生活の中で、雷に打たれたような出逢いがあった。
家族で夕食時にとある歌番組を見ていたときだった。
圧巻のパフォーマンス。そしてなによりビジュアルが素晴らしい。
一目惚れだった。一瞬にして彼女たちの虜になってしまった。
それからは生活の中に『推し活』という人生の彩りができた。
出演番組を欠かさずに見たり、お小遣いを貯めてライブに参戦・グッズ購入など、とにかく楽しかった。幸せだった。
そしていつしか彼女たちに恩返しがしたいと考えるようになっていた。
推し活を始めて1年が経ち、小学6年生も終わりに近づいてきたある日。
推しグループの2期生オーディションが開催されるという広告を目にした。
これはチャンスか――と、胸が高鳴った。
アイドルになりたい、というよりかは恩返しができるチャンスが来た。という心持ちだった。
応募期間・オーディション期間は1月上旬~2月末まで。
応募資格は満12歳から。
(よし、応募資格は満たしているな。けど……お母さん、許してくれるかな)
私の決意はすでに固まっていた。
だがオーディションを受けるとなると、母親の了承を得る必要があった。
そこで母に、妹が寝た後、2人だけで話したいことがあると声を掛けた。
静まり返った薄暗いダイニング。
洗い終わった皿からシンクに水滴が落ちているのか、その音が反響して耳に届いている。
その場は異様な緊張感に包まれていた。
「お母さん、大事な話があります」
珍しく真剣な顔をした私に母は動揺しつつも、優しく受け入れてくれた。
「どうしたの? そんなに改まって……」
変な汗をかいてきた。緊張からか手が震えている。
私は深呼吸をしてから、思い切って話を切り出した。
「アイドルオーディションを受けさせてください」
母は目を見開き、驚いた様子で
「アイドルオーディション……?」
私は前もって準備していたオーディション内容の資料を母に渡した。
母に説明するためには、まず私自身が理解しなければならない。だから広告を見た後すぐに、オーディションについて十分に調べていた。
「このグループのオーディションです」
母はゆっくりとすべての資料に目を通してくれた。
その様子からやはり動揺しているのが見て取れた。
「このグループって、陽希が好きなグループよね……」
母はそう言うとしばらく考え込んでいた。
この沈黙の時間は何よりも緊張した。私の胸の鼓動がよく聞こえるほどに。
そして一呼吸置き、優しく私に問いかけた。
「1つ聞いても良い? どうしてオーディションを受けようと思ったの?」
思いがけない返事に驚いた。
すぐに否定されると思っていたが、私の話を聞いてくれるようだ。
「あのね……」
私の今持っている想いをすべてぶつけてみようと話し始めた時、頬に何かが伝っていくのがわかった。突然涙が出てきたのだ。
理由はわからない。ただ止まらなかった。
母は私が落ち着き、話を始めるまで静かに待っててくれた。
「あれ……なんでだろう。あのね、お父さんがね、死んじゃって、寂しいし辛いの。それとね、習い事できなくなってね、ずっとね楽しくなかったの」
ふと母の方を見てみると、そっと涙を流していた。
母も愛する人と、子供の父親と死別したことは辛かったはずだ。それを母親として私たち姉妹に見せないように、今まで明るく接してくれた。その母が私の前で涙を流している。
「でもね、この人たちを好きになってからね、ほんとに楽しく過ごしてこれたの。ほんとに大好きなの。だからね、私、この人たちに恩返しがしたいなって」
母は少し驚いたように涙を拭ってから聞き返した。
「恩返し?」
「うん。恩返しがしたい。みんなの力になりたいの。ありがとうって伝えたいし、みんなのためなら何だってするって思ってる」
母はまた少し考え込んだ。
それから真剣な目つきで話し始めた。
「陽希あのね、アイドルって大変なお仕事なの。みんなのために活動していくだけではアイドルにはなれない。あなた自身がファンの人たちのために表に出て活動していく必要があるの。学校だって行けなくなることも多くなるだろうし、お友達とも遊べなくなっちゃうこともあるかもしれない。それでも良いの?」
私は姿勢を正し、母の方を真っ直ぐ見て即答した。
「良い。少しでも恩返しができるチャンスがあるなら私はやりたい」
母は驚きつつも微笑んでくれた。
その顔は子供の私にもわかるくらい優しさに溢れていた。
「そう……良いんじゃない? 陽希がやりたいこと、お母さん応援する」
また涙が溢れてきた。
「ありがとう……お母さん」
泣きじゃくる姿を見かねた母は立ち上がり、私を優しく抱きしめてくれた。
そして私はオーディションに応募した。
結果は、
1次審査(書類審査) 通過
2次審査(面接) 通過
有難いことに、順調に審査を進んでいった。
まさかここまで本当に来られるとは。
母と妹も一緒になって喜んでくれた。
そして、最終選考。
結果はまだ届いていない。
待っている間はドキドキで、毎日、気が気でない状態が続いていた。
そして、3月中旬頃。封書が届いた。
結果は……補欠合格。
後日、保護者の方を交えて面談を行うという旨の内容が記載されていた。
「補欠合格? 面談?」
私は母と顔を見合わせて首を傾げた。
「お母さん、面談行けそう? お仕事大丈夫?」
私が心配そうにしている様子を見て、頭を撫でながら
「大丈夫よ。お休み貰うから。それにしても……保護者同伴の面談って何するのかしら……」
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