七話、絵描きと星月パンケーキ
純喫茶『星月』
古い洋館を改装した店内は、磨き上げられた木のカウンターやテーブル、アンティーク調魔具灯の優しい光が、穏やかで温かみのある空間を演出している。ネルドリップで注がれた珈琲の、甘く香ばしい匂いが店中に満ちていた。
「イオリ、席空いたよ」
入り口近くの窓際の席を整えて、誠司さんがそう言った。ピークから少し落ち着いて、店内にも余裕が出てきていた。彼の瑠璃色の瞳が笑う。
ーーかろりん。
入口の呼鈴が鳴り、私と誠司がそちらを見れば、たっぷりとした柔らかな長髪が印象的な男性が、大きなスケッチブックを抱えて立っていた。
「あら、いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席へ」
「ありがとう、素敵なお嬢さん」
私が笑顔で声をかけると、男性はふわりと微笑み、窓際の席に腰を下ろした。
「……素敵ですけどね、たしかに」
誠司さんが何か呟いたような気がして、私は彼の方を向いた。
「ん? 誠司さん、何か言いました?」
「イオリがかわいいって言った」
誠司さんはにっこりと言った。
……笑顔が怖い気がするのは気のせい?
店内が見渡せる角の席に腰掛けると、吟遊詩人のような、どこか浮世離れした雰囲気を持つ彼はすぐスケッチブックにチャコールのペンを走らせ始めた。店内の風景を、その独特の感性で切り取っていく。
「俺は芸術には詳しくないけどいい手つきだね、彼」
誠司さんはちらりと絵描きの方を見た。元軍人とは思えない、軟派な雰囲気を持つ彼だが、その観察眼は鋭い。
この間も、誠司さんが迷子に気づいてくれたから、ユキちゃんは事なきを得たことを思い出しながら、私は誠司さんの横顔を盗み見る。
「集中してるみたいですね」
「そうだね」
しばらくして、やがて、絵描きの手が止まった。
注文を取るために声をかけよう、そう思って近づいた私は思わず声を上げた。
「うわぁ…! すごい!」
そこに描かれてれていたのは、カウンター越しに珈琲を淹れる私と、その後ろでグラスを磨く誠司さんの姿だった。背景には、レトロなデザインの珈琲ミルや、棚に並ぶカップ&ソーサー、そして窓から差し込む午後の柔らかな光が、繊細なタッチで描かれている。
誠司さんも手を止めてスケッチブックのようなボードを覗き込み、その完成度に目を見張った。まるで、店内の時間が切り取られたかのように、そこに流れる空気感までが伝わってくる。
「素晴らしい絵ですね! まるで今にも珈琲の香りがしてきそう……」
「ありがとうございます。
貴店は、絵になる風景がたくさんありますから」
絵描きのお兄さんは、そう言って少し照れくさそうに微笑んだ。
格好からして、この辺りの人ではないのだろう、
「覗き見してしまい、申し訳ありません。
私たちを大変素敵な絵にしていたお礼……と、言ってはなんですが、ぜひ星月パンケーキを召し上がっていきませんか?」
私はそう言って、誠司さんに目配せをした。
翡翠色のウィンクで応えてくれるのが彼らしい。
「……そういえば、注文がまだでした。絵につい、夢中になってしまう……私の悪い癖ですね」
悩ましげにため息をつく男性に、私は軽く首を振って答える。
「お声がけしようか迷ったのですが、とても集中しているようだったので……」
「お嬢さん、あなたのせいではありません。
私はレオナルドといいます。絵描きとしては正しいのかもしれませんが、絵を描くことが好きすぎて、よいモチーフがあるとつい我を忘れてしまうのですよ……」
「そうなんですか……。本当に素敵な絵でした。私はこの喫茶店の店主で、伊織といいます」
誠司さんは手際よくパンケーキを焼き始める。
熱々の鉄板の上で、ふっくらと焼きあがっていく生地。美しい黄金色になったら皿にのせる。牛酪は月の抜き型で抜いて真ん中に置き、たっぷりと蜂蜜をかける。雪糖と呼ばれる、キラキラした砂糖を散らして完成だ。
「これはまた、美しいですね!」
絵描きの男は、運ばれてきたパンケーキに感嘆の声を上げた。ふわりと香る牛酪と小麦の甘い香りが、彼を包み込む。
一口食べると、その優しい甘さとふわふわの食感に、彼の表情が緩んだ。
「美味しい! こんなに温かくて、優しいパンケーキは初めてです」
「それは良かったです」
にっこりと笑う誠司さんは、そっと彼のテーブルに珈琲を提供する。
「うちは珈琲も美味しいですよ」
「ありがとう。
……他の国でもコーヒーはよく飲みましたが、ここの珈琲は甘くないんですね。それがまた、パンケーキの甘さとよく合う」
ほう、と息をついた絵描きのお兄さんを見て、私と誠司さんは満足気に微笑んだ。
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数日後。
かろりん、と呼鈴が鳴り、入ってきたのは長身の絵描きさんだった。
「イオリ。これ、どうぞ」
レオナルドさんが、布に包んだ板状のものを抱えて店にやってきた。差し出されたそれを受け取り、布を取り外すと、そこには、星空を映したような水面の珈琲と、湯気が経つようなパンケーキが描かれたシンボルプレートがあった。
「わぁ…!これは…!」
私は息を呑んだ。
隅々まで丁寧に仕上げられたそれは、ただのシンボルプレートではない。この喫茶店への、レオナルドさんの温かい想いが込められた、作品だった。
「美味しいホットケーキと珈琲、そして私の描いた絵を褒めてくださったお礼に、と。
お店の目印を描かせていただきました」
レオナルドさんはそう言って、にこやかに微笑んだ。シンボルプレートは、いわゆる看板だ。文字の代わりに、イラストで何の店か分かるようにしている。
確かに実は、うちには看板やシンボルプレートはなかったのだ。
私は感動で言葉が出なかった。それを横目に見ながら誠司さんは、レオナルドさんが差し出した絵を、そっと受け取った。
「ありがとうございます。大切に、使わせていただきます」
誠司さんの真摯な言葉に、レオナルドさんも満足そうに頷いて、彼は「それではまたいつか」と言い残すと笑顔で去っていった。
レオナルドさんはその後も旅を続け、彼が訪れる先々で、私と誠司さんの知らぬ間に星月の評判は広まっていった。彼が描いた絵にみな心打たれ、そして彼の旅の思い出に耳を傾ける。
見知らぬ国や人を精緻に描くレオナルドの温かみのある絵は、どこへ行っても絶賛された。
やがて、遠からず先の話、レオナルドから話を聞いたという旅人が、遠方からも訪れるようになる。
「旅の絵描きさんが、ここのパンケーキは絶品だって言ってたからさ!」
そんな声を聞くたびに、私は嬉しそうに目を細めた。店の前に吊るされたシンボルプレートとは別に、あの日のスケッチを貰った私。私と誠司さんが並ぶあの一枚の絵は、実は私の部屋に飾られている。
それは、少し先の話だった。
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